第4話 夏の入り日の、わたしの色彩

あの雨上がりの午後、カフェで莉子に自分の心の奥底をぶちまけてしまってから、わたしの中で何かが確実に変わった。それは、劇的な変化というよりは、固く閉ざされていた窓が、ほんの少しだけ、ギギギと音を立てて開き始めたような、そんなささやかな、でも確かな変化だった。


もちろん、長年かけてわたしの心に深く染み付いてしまった、「良い子」の仮面を、そう簡単に完全に脱ぎ捨てられたわけではない。朝、鏡の前に立てば、無意識のうちに「今日の笑顔」の角度を確認してしまうし、人と話す時には、相手がどう思うだろうかと、言葉を選ぶのに依然として時間がかかった。

でも、以前と決定的に違うのは、そんな不器用で、臆病なわたしのことを、莉子が、そして和子さんや湊さんが、ただ黙って、ありのままに受け止めてくれるようになったことだった。いや、もしかしたら、彼らは最初からそうだったのかもしれない。わたしが、彼らの優しさを信じることができず、勝手に心を閉ざしていただけなのかもしれない。


「雫ちゃん、今日、なんか顔色いいね! もしかして、昨日の夜、いい夢でも見た?」

学校の休み時間、莉子が屈託のない笑顔でわたしの顔を覗き込む。以前のわたしなら、「ううん、別に普通だよ」と、曖昧な笑顔で誤魔化していただろう。でも、今は、

「うん…よく眠れたからかな。莉子ちゃんこそ、今日も元気いっぱいだね」

と、少しだけ素直な気持ちを言葉に乗せることができるようになった。ほんの少しだけ、仮面の下の本当の顔を覗かせることができるようになった。

「えへへ、わたしはいつでも元気印だからね! あ、そうだ、今日、放課後時間ある? この前話してた新しい雑貨屋さん、一緒に行こ!」

莉子は、そう言ってわたしの腕をぐいと引く。その強引さも、以前は少しだけ息苦しく感じていたけれど、今はなんだか心地よく、そして頼もしく感じられた。


和子さんは、相変わらず毎日美味しいご飯を作ってくれて、わたしの他愛もない学校での出来事や、胸の内に渦巻くモヤモヤとした感情を、ただ黙って、うんうんと頷きながら聞いてくれる。

「わたし…やっぱり、人とうまくコミュニケーションを取るのが、苦手みたいです…」

ある夜、夕食の片付けを手伝いながら、ぽつりと弱音を吐いたわたしに、和子さんは洗い物を拭く手を止め、優しい眼差しで言った。

「いいのよ、雫ちゃん。無理にうまく話そうとしなくても、いいの。雫ちゃんの言葉はね、ゆっくりでも、ちゃんと相手に伝わっているわよ。それにね、言葉だけがコミュニケーションの全てじゃないから。雫ちゃんが、こうして一緒にいてくれるだけで、和子さんはとっても嬉しいのよ」

その言葉は、まるで温かい毛布みたいに、わたしの冷え切った心をそっと包み込んでくれた。言葉にできないほどの感謝の気持ちが、胸の奥から込み上げてくる。


湊さんは、以前にも増して、時々わたしを近所の散歩に誘ってくれるようになった。

海沿いの道をゆっくりと歩きながら、彼はぽつりぽつりと、大学で学んでいるという心理学の話や、彼自身が昔感じていたという生きづらさについて、飾らない言葉で話してくれた。それは、わたしにとって初めて聞くような話ばかりで、今まで自分がいかに狭い殻の中に閉じこもって、自分だけの苦しみに囚われていたのかを思い知らされた。

「人は誰でもね、多かれ少なかれ、自分だけの心の影みたいなものを抱えて生きているものだよ」

ある日、夕焼けに染まる海を見下ろす丘の上で、湊さんが静かに言った。

「大切なのは、その影を無理に消そうとしたり、無かったことにしたりするんじゃなくて、そういう影を持っている自分も、ちゃんと自分自身なんだって認めてあげることじゃないかな。光と影、両方あって、初めて人は立体的になれるんだと思う」

その言葉は、ずっとわたしの心に重くのしかかっていた、目に見えない鉛のようなものを、そっと取り除いてくれるような気がした。わたしは、完璧じゃなくてもいいのかもしれない。欠点だらけで、矛盾だらけのわたしでも、生きていていいのかもしれない。


梅雨が明け、本格的な夏が訪れようとしていた。

空はどこまでも高く青く澄み渡り、太陽の光は容赦なく肌を焼き付ける。蝉の声が、まるで世界の終わりを告げるかのように、やかましく鳴り響いている。

学校は夏休みに入り、わたしは生まれて初めて、「何もしなくてもいい時間」というものを手に入れた。

最初は、どう過ごしていいのか分からず戸惑ったけれど、莉子に誘われて一緒に図書館で宿題をしたり、和子さんと一緒に近所のスーパーへ買い物に行ったり、湊さんに教えてもらいながら簡単な料理に挑戦したりするうちに、少しずつ、この穏やかで平和な日常に慣れていくのを感じていた。


ある日の午後、わたしは一人で自分の部屋の窓辺に座り、ノートとペンを広げていた。

ふと、目の前に広がる夏の海を眺めていると、無性に何かを書き留めたくなった。

この数ヶ月の間に、わたしが見た景色。感じたこと。莉子の太陽みたいな笑顔。和子さんの無条件の優しさ。湊さんの静かで深い言葉。そして、あの梅雨空のカフェで、莉子の前で流した、しょっぱくて熱い涙の味。

それらを、忘れてしまわないように。この、かけがえのない瞬間を、永遠に閉じ込めておけるように。

わたしは、ゆっくりと、自分の心の動きを確かめるように、言葉を紡ぎ始めた。

それは、決して上手な文章ではなかったかもしれない。何度も書き直して、消しゴムのカスだらけになった。でも、そこには、紛れもなく、息苦しい仮面をほんの少しだけ持ち上げることができた、「ありのままのわたし」がいた。

書いているうちに、不思議と心が落ち着いていくのを感じた。今まで誰にも言えなかった、心の奥底のドロドロとした感情も、文字にすることで、少しだけ客観的に見つめられるような気がした。

もしかしたら、わたしは、こうやって自分の気持ちを言葉にすることで、少しずつ自分自身を理解していくことができるのかもしれない。


書き終えた時、窓の外は美しい夕焼けに染まっていた。茜色の光が、部屋いっぱいに差し込み、わたしのノートを優しく照らしている。

わたしは、ノートをそっと閉じて、深く、深く息を吸い込んだ。

まだ、わたしの心の霞が完全に晴れ渡ったわけじゃない。これからも、きっと何度も迷って、つまずいて、自分を見失いそうになることがあるだろう。

でも、もう独りじゃない。

わたしの周りには、こんなにも温かい光をくれる人たちがいる。

そして、わたしの中にも、ほんの少しだけ、不器用な自分を信じてあげようという、小さな勇気が芽生え始めているのを感じていた。


「雫ちゃーん! ご飯できたわよー!」

階下から、和子さんの明るい声が聞こえてくる。

「はーい! 今行くー!」

わたしは、少しだけ大きな声で返事をして、椅子から立ち上がった。

部屋の窓を開けると、潮の香りを乗せた夏の夜風が、ふわりと頬を撫でた。遠くで、花火の音が聞こえる。どこかで、夏祭りが始まったのかもしれない。

わたしは、その音に誘われるように、そっと微笑んだ。

それは、きっと、今までで一番、私らしい、自然な笑顔だったと思う。


夏の入り日。

わたしの心には、新しい色彩が、まるで虹のように、少しずつ、でも確かに生まれ始めていた。

それは、分厚い霞の向こう側に、ようやく見つけ出すことができた、小さな、けれど確かな希望の光だった。

そして、その光は、これから始まる長い夏を、そしてわたしの未来を、明るく照らしてくれるような気がした。

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霞の向こうの、わたし 或 るい @aru_rui

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