第3話 梅雨空の午後、こぼれた本音

六月も半ばを過ぎると、空は鉛色の雲に覆われる日が多くなり、まるで世界全体が息を潜めているかのように、じめじめとした重たい空気が漂っていた。洗濯物は乾かず、気分までなんとなく晴れない。学校では、期末テストが目前に迫り、教室の空気も普段よりどこか張り詰めていて、休み時間も参考書を広げる生徒の姿が目立った。わたしは相変わらず、新しい環境の波に乗り切れず、かといって完全に弾き出されるわけでもなく、ただ水面を漂う木の葉のように、不安定な日々を過ごしていた。目立たないように、でも周囲に不快感を与えないように。その絶妙なバランスを保つことに、わたしの神経は毎日すり減っていた。


そんなある日の放課後、わたしは莉子と一緒に、駅前に新しくできたカフェでお茶をしていた。分厚い教科書とノートが詰まったカバンを足元に置き、テスト勉強から一時的に解放されたことで、ほんの少しだけ肩の力が抜けているのを感じる。

「はあ~、やっと一息つけたって感じだね~! もう、数学とか全然わかんないんだけど!」

莉子が、運ばれてきたカラフルなクリームソーダのグラスを見つめながら、大きなため息混じりに言った。鮮やかな緑色のソーダ水の上には、真っ白なアイスクリームと真っ赤なサクランボが乗っていて、まるで小さな宝石箱みたいだ。

「うん、そうだね。今回のテスト、範囲が広くて覚えることがいっぱいあるよね」

わたしも、莉子に合わせて注文した同じクリームソーダのストローをそっと口に含みながら、当たり障りのない相槌を打つ。本当は、テストのことよりも、莉子と二人きりで、こんなお洒落なカフェにいるという状況に、心の奥底が微かに、でも確かに高鳴っていた。それは、嬉しいような、でもどこか落ち着かないような、不思議な感覚だった。


店内は、わたしたちと同じように、テスト期間中の束の間の息抜きに訪れているらしい他の学校の制服姿の生徒たちで賑わっていた。窓際の席に座ったわたしたちは、しばらくの間、通りを行き交う人々や、店内の楽しげな喧騒を、言葉少なに眺めていた。

「そういえばさ、雫ちゃんって、好きな人とか、気になる人とか、いないの?」

不意に、莉子がそんなことを聞いてきた。それは、まるで今日の天気の話でもするみたいに、あまりにも自然で、あっけらかんとした口調だった。

「えっ…!?」

わたしは、思わず飲んでいたクリームソーダを気管に入れそうになり、小さくむせた。頬が、カッと熱くなるのを感じる。

「な、なんで…急に、そんなこと聞くの…?」

動揺を隠せないわたしの声は、自分でも情けないほど上ずっていた。

「えー、だって、雫ちゃん可愛いし。いるのかな〜って思って。」

莉子は、大きな瞳をきらきらと輝かせ、悪戯っぽく笑いながらわたしの顔を覗き込む。その瞳には、何の悪意も、からかうような色も感じられない。ただ、純粋な好奇心だけが、太陽の光みたいに真っ直ぐにわたしに向けられている。

わたしは、どう答えていいのか全く分からず、頭の中が真っ白になった。心臓が、早鐘のようにドクドクと音を立て始める。

好きな人。

その言葉を聞くと、胸の奥の一番柔らかい場所が、チクリと鋭く痛む。陽向の、あの優しくて、少しだけ儚げだった笑顔が、鮮明に脳裏に蘇る。彼の手の温もり、声の響き、一緒に過ごした短いけれどかけがえのない時間。でも、彼のことを莉子に話すわけにはいかない。それは、わたしだけの、誰にも触れられたくない、大切で、そしてあまりにも脆い記憶だから。そっとしておかなければ、粉々に砕けてしまいそうだから。

かといって、「いないよ、全然」と嘘をつくのも、なんだか莉子のこの純粋な好奇心を裏切ってしまうような気がして、できなかった。それに、そんな風に嘘で塗り固めた関係は、きっといつかメッキが剥がれてしまう。


「えっと…その…昔は、いた、かな…」

わたしが、ようやく絞り出したのは、そんな曖昧で、歯切れの悪い言葉だった。視線は、テーブルの上の水滴の模様を、意味もなく指でなぞっていた。

「え、昔!? なになに、元カレってやつ? 詳しく聞かせてよー!」

莉子の声のトーンが、一段と高くなる。彼女は、こういう話が大好きなのだろう。普通の女の子がするように、恋の話で盛り上がりたいのだろう。

でも、わたしには、その期待に応えることができない。陽向のことは、そんな風に軽々しく語れるような思い出じゃない。

「ううん…そういうのじゃ、なくて…ただ、大切な人だったんだけど…もう、いないから…」

言ってしまってから、激しく後悔した。どうしてこんな、重たくて、説明の難しい話をしてしまったんだろう。莉子は、きっと困惑してしまう。引いてしまうかもしれない。楽しいはずのお茶の時間が、わたしのせいで台無しになってしまう。

案の定、莉子の表情が、さっきまでの輝きを失い、一瞬だけ曇ったのが分かった。その変化を見逃さなかったわたしの心は、冷たい水に浸されたように、じわじわと冷えていく。

「あ…そ、そっか…。ご、ごめんね、なんか、変なこと聞いちゃったみたいで…」

莉子は、慌てて明るい声を取り繕い、話題を変えようとした。

「あ、そうだ! この前、駅の近くに新しくオープンした雑貨屋さん、すっごく可愛いんだって! 今度一緒に行ってみない? きっと雫ちゃんが好きそうな、綺麗なガラス細工とか、アンティーク調のアクセサリーとか、いっぱいあるらしいよ!」

その、あからさまなまでに優しい気遣いが、かえってわたしの心を鋭く抉った。

ああ、まただ。また、わたしはやってしまった。

ほんの少しだけ、自分の心の内側を見せようとしただけで、こんな風に相手を困らせてしまう。気まずい空気にしてしまう。

やっぱり、わたしは誰とも、本当の意味で心を通わせることなんて、できないのかもしれない。わたしは、そういう風にしか、人と関われないようにできているのかもしれない。

そう思うと、胸の奥から、どうしようもない絶望感が湧き上がってきた。


「…ごめんなさい」

わたしは、消え入りそうな、掠れた声で謝った。グラスの中でカラフルに輝いていたはずのメロンソーダが、今はなんだか色褪せて、ただの甘い水に見える。

「わたし、いつもこうなの。何か少しでも自分のことを話そうとすると、いつも変なこと言っちゃって…場をしらけさせちゃう…。本当は、莉子ちゃんみたいに、もっと楽しくおしゃべりしたいのに…うまくできないの…」

涙が、熱い塊となって喉の奥から込み上げてくるのを感じた。もう、限界だった。

「だから、本当は、誰ともあまり深く話したくない。だって、話せば話すほど、きっとボロが出るから。わたしの、この面倒くさくて、暗くて、歪んだ部分が見えちゃうから。そしたら、きっとみんな、わたしから離れていっちゃう…。嫌われるのが、何よりも怖いの…」

一度溢れ出した言葉は、もう止まらなかった。

それは、今まで誰にも言えなかった、わたしの心の奥底に、何重にも鍵をかけて閉じ込めてきた、黒くてドロドロとした本音の塊だった。

図書委員の集まりで、結局何も言えなかった不甲斐なさ。いつも、周りの顔色ばかりを窺って、自分の本当の気持ちを押し殺している息苦しさ。本当は、莉子みたいに、もっと明るく、屈託なく、自由に振る舞いたいと心の底から願っていること。でも、それができない、臆病で、不器用で、どうしようもなく歪んでしまった自分が、心の底から大嫌いなこと。

わたしは、しゃくり上げながら、まるで堰を切ったように、次から次へと言葉を、いや、感情の欠片を、莉子に向かってぶつけてしまっていた。

周りの楽しげな喧騒が、まるで遠い世界の出来事のように聞こえる。

目の前が、涙で滲んで、莉子の顔もよく見えない。

ただ、彼女が何も言わずに、わたしの言葉を、じっと、静かに聞いてくれていることだけは、なぜか分かった。


どれくらいの間、そうしていただろうか。わたしの嗚咽が、少しずつ小さなしゃくり上げに変わってきた頃。

不意に、テーブルの上に置かれていたわたしの手に、莉子の温かい手が、そっと重ねられた。

「…そっか。雫ちゃん、ずっと、そんな風に、一人で色んなことを抱えて、苦しんでたんだね…。わたし、全然気づいてあげられなくて…本当に、ごめんね」

莉子の声は、いつもより少しだけ低くて、でも、とても優しかった。その声にも、ほんの少しだけ、涙の滲んだような響きがあった気がした。

「ううん…莉子ちゃんは、悪くない…わたしが、勝手に、一人で…」

「でもさ」

莉子は、わたしの手を優しく握りしめたまま、顔を上げて、まっすぐな瞳でわたしの目を見つめて言った。

「わたしは、今の、こんな風に泣き虫で、ちょっと不器用で、でも一生懸命自分の気持ちを伝えようとしてくれてる雫ちゃんも、大好きだよ。いつもニコニコしてて、完璧に見える雫ちゃんも、もちろん素敵だけど。でも、わたしは、もっと色んな雫ちゃんを知りたいって思う。だって、それが本当の友達でしょ?」

「…本当の、友達…?」

その言葉が、まるで初めて聞く外国語みたいに、わたしの心の中で不思議な響きを持った。

「うん! わたしは、そう思う。嬉しい時は一緒に思いっきり笑って、悲しい時や辛い時は、こうやって一緒に泣いたり、話を聞いたりして、それで、たまには意見がぶつかって喧嘩もしたりして。そういう、色んな気持ちを全部ひっくるめて共有できるのが、本当の友達なんじゃないかなって」

そう言って、莉子はニカッと、いつもの太陽みたいな笑顔を見せた。その笑顔は、梅雨空の分厚い雲を突き破って差し込む、一筋の強い光みたいに、明るくて、温かくて、そして何よりも力強かった。

わたしは、その眩しい笑顔を見て、また泣きそうになったけれど、今度はぐっと、唇を噛み締めて堪えた。

そして、心の底から、震える声で、「ありがとう」と言った。

それは、生まれて初めて、何の計算も、何の演技もなしに、心の奥底から素直に言えた、「ありがとう」だったかもしれない。


カフェを出ると、いつの間にか雨はすっかり上がっていて、雲の切れ間からは、まるで洗い流されたように澄んだ、柔らかな午後の日差しが差し込んでいた。

アスファルトの上に残っていた水たまりが、その光を反射して、キラキラと小さな虹色に輝いている。

わたしの心の中を覆っていた、分厚くて重たい梅雨雲も、ほんの少しだけ、その隙間から青空が顔を覗かせたような、そんな気がした。

まだ、目の前の霞は深く、その向こう側ははっきりと見えないけれど。でも、その霞の向こうには、きっと、温かい光がある。

そんな、今まで感じたことのない、確かな予感が、胸いっぱいに広がっていくのを感じていた。

夏の激しい嵐が訪れる前の、ほんの束の間の静けさ。でも、それは決して不吉なものではなく、むしろ、何か新しいことが、素晴らしいことが始まる前の、ドキドキするような、期待に満ちた静けさのように感じられた。

わたしは、隣を歩く莉子の横顔を盗み見た。彼女は、何か楽しそうに鼻歌を歌っている。

その横顔を見ているだけで、わたしの心も、ほんの少しだけ、軽くなったような気がした。

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