夏憂い。

しがない

1

 自転車の荷台にくくりつけただけの死体は進むたびににしにしと音を立てる。前のカゴにすっぽりと収まった君はにたにたと僕のことを見ている。シャツが身体に張り付く感覚が、気持ち悪い。いくら夜でも、夏はやはり嫌になるほど暑いままだ。

 もうどれくらい運び続けただろうか。一時間程度の気もするし、昨日から一切の休みがなかったような気もする。いずれにしても変わらないのは、僕だけが自転車を押し続けているということだ。

「なあ、まだ目的地につかないのか?」

「まだじゃないっけ?」

「もういいんじゃないかな、そこら辺でも」

「私はいいけど、場所を決めたのは君でしょ」

「そうだったか?」

「多分ね」

 なら、足を止めるわけにはいかない。背中に伝う汗を、身をよじりシャツを使ってぬぐいながらまた一歩と足を進める。

 不思議なことに、僕たちの隣を流れる河は音を立てない。じーじーという、よく分からない虫の声だけが反響している。うるさい。黙れよ。

 一歩進むごとに、サンダルと踵の間に夜が這入り込んできた。そいつのせいで徐々に歩みは重たくなっていて、苛立ち混じりに強く踏み潰す。

「そろそろ、君が自転車を曳く役割になってもいいんじゃないかな」

「やだよ、恨みっこなしのじゃんけんって言い出したのは君でしょ」

「ああ、言ったさ。それで僕が勝っただろ」

「負けが前カゴに乗るって言い出したのも君でしょ」

 ああ、そうだ。そう言えば、僕がそんなことを言った気がする。僕は本当は荷台に乗りたかったんだ。前カゴに乗るなんて、屈辱的だしさ。でも、死体に自転車を曳くことは出来ない。だから僕は自転車を曳くしかなかった。

 前輪が石に乗り上げて、バランスを崩しそうになる。なんとかハンドルに力を込めて、バランスを保つ。死体が動いたせいだと思って振り返ったけど、死体は相変わらず死んだままだった。

 道は舗装のされていない砂利道で、街灯はもう暫く見ていない。転んでしまうのは、もう仕方のないことなのだろう。

「ねえ、私もここじゃなくて荷台に乗りたいんだけど」

「何か言ったか?」

「私も疲れてきたってハナシ」

「じゃあ一旦休憩でもするか?」

「それは、やだな」

「何でだよ」

「今日中には終わらせないといけないんでしょ」

 その通りだ。現在時刻は二十三時十四分。残り四十六分。短いようにも短くないようにも感じられるが、長くないということだけは確かな残り時間だった。休んでいるような暇はない。

 冷たい風が剥き出しの腕を撫でた。それは雨の匂いを纏っている。吐き気を催す匂いだ。

「家に傘ってあったっけか」

「骨が折れたものなら」

「それってビニール傘?」

「うん」

「ならいいか」

 光が視界に差し込んで、街灯かと思う。けれど、それは月の光だった。見上げると、半分と少し欠けた月が僕のことを見下ろしている。僕はそれに侮蔑を吐き捨ててから視線を下ろす。君はぼうっと、光の輪郭でも見ようとするように空を見上げている。笑っていたような気もした。気のせいだったかもしれない。

 足と車輪が砂利を踏み抜く音が暗闇の中に反響する。やはり疲労は蓄積しているようで、音は夜の中を不規則的に点在する。

「お腹が空いてきたなあ」と君が言う。そのせいで、僕も僕の空腹を自覚することになる。

「夕飯、食べてきただろう。我慢してくれ」

「シリアルと牛乳は夕飯に入らないと思いますけど」

「しょうがないだろ、冷蔵庫の中にあれしかなかったんだから」

「週末の買い物、行っておけばよかったね」

 毎週そんなことを言っているような気がした。週末はいつも晴れているのだから、出かけられないのも仕方がない。

 視界の端に流れる河の水が減っているように見えた。明日になればどうせ増えるのに、どうして減らすのだろうか。いつか、君が答えを教えてくれたような気がするけど、忘れてしまった。

 君は退屈を紛らわせるようにカゴからはみ出た足をぶらぶらと揺らす。何だかそれがおかしく見えて、僕は自転車を強く押す。車体は大きく揺れて、スイングはさらに大きくなる。本当に、だらしない。

 ずず、と音がしたような気がして振り返る。荷台に乗っている君の死体は、前カゴの君と目を合わせたような気がした。

「前も二人でこんな道を通ったよね」と君は言う。

「そうかな」

「そうだよ、あの時は冬だったけど」

「いや、一昨日じゃなかったっけ?」

 口にしてから思い出す。一昨日一緒に歩いたのは、別の誰かだった。いや、僕一人だっただろうか。ともかく、それは冬のことじゃない。

「あの日は暑かった」

「うん、とても」

「君のお陰で折り畳み傘を持って行ったから、濡れずに済んだんだよな」

「天気予報なんてあてにならないからね」

 君はいつも、天気予報を嫌う。でも十二星座の占いを見るためにはその前にある天気予報を見なければならないから、見る。今日の山羊座は、十一位だった。双子座は二位で、獅子座は七位。蛇遣い座は、いつになったら占いに追加されるんだろう。

「そう言えば、いつから君はラジオ体操をやめたんだ?」

「夏休みが終わってからだよ。スタンプも貰えないんじゃ、する意味ないじゃん」

「あれ、最後までスタンプシートを埋めたら何が貰えたんだ?」

「名誉とスプーン」

 途中で起きるのが億劫になって行かなかったけど、後悔をしなくても済みそうだった。どちらも、僕の生活には必要がない。

 ハンドルがやけに重たく感じると、一気に疲労が意識へと立ち昇ってくるから堪らない。殆ど引き摺るようにして自転車は進んで行く。君は自分の足で歩こうとはしない。

「何でこんなことしてるんだっけ」

「死体を運んでるんだよ」

 そうだ。思い出した。僕は死体を運んでいる。振り向くと、変わらず死体は荷台にくくりつけられたままゆらゆらと揺れている。

「なあ、何で殺したんだ?」

「殺したのは君でしょ」

「でも、死体を運ぼうって言い出したのは君だろう」

「退屈だったんじゃないの」

 確かに、宿題を終えた僕たちの夏休みは既に退屈へと移行をし始めていた。

 夏になると、退屈は勢いを増す。茹だったそれはやがて静かに腐敗臭を撒き散らすようになり、とてもじゃないが耐えられるようなものではなくなる。半年退屈が来るのが遅かったなら、僕はこんな労働をせずに済んでいたのだろうか。

 遠くで踏切が鳴っていた。この音を聞くと、僕はいつも灰色の郷愁を覚える。時間の有限性について知ることになる。

 そう言えば、洗濯物はちゃんと仕舞っただろうか。仕舞ったはずだ。バスタオルを畳んだ記憶がある。いや、違う。洗濯機を回し忘れていたんだ。柔軟剤が家になくて、買ってきてからと思ったまま洗濯物は洗濯機の中に軟禁されたままにある。

「そろそろ着る服もなくなってきたし、早く買ってこないと」

「分かってるよ」

「分かってないでしょ。それ、着てるの何日目?」

「これは、違うよ。昨日コンビニで買ったんだ」

 シャツに張り付いた汗がうるさかった。夜と体液に浸されたそれは、もう白じゃなくなっている。

 今年の夏服は、買っていたっけ。クローゼットの中が整理をされていないせいで、どれが新しいものでどれが古いものかが自分でもよく分かっていない。多分、今年も買ったんだろう。

 まだ死体が死体ではなかった頃のことを、思い出す。作り笑いが苦手で、僕はそのぎこちないお為ごかしが反吐が出るほど嫌いだった。

 何か伝えたいことがあったような気がする。伝えなければならないことが、あったような気がする。僕は振り返って「なあ」と死体に呼びかけてみた。そうすれば、思い出せるかもしれないと思ったのだ。

 けれど、言葉はそれ以上何も出てこない。死体は続きを催促するようなこともなく自転車の振動に身を任せて死体のように力無く揺れている。

 僕はいつ君と出会ったんだっけ。それとも、まだ出会っていなかったっけ。君も知らないのか、それとも機嫌が悪いのか、返答はない。

「夏が終わったらどこに行こっか」

「君はいつも未来の話をしたがるんだな」

「君はいつも取り返しのつかないことを取り返そうとしてる」

「初めて会った時から、何も変わってない」

「あの時も、死体があったっけ」

「あの時の死体を、今更捨てに行っているんだろ」

「自転車拾えてよかったね」

「全くだよ」

 これのお陰で僕の生活の質は随分と上がった。週末に生活用品をまとめて買うことが出来るようになったし、死体を遠くまで運ぶことも出来る。錆びれたチェーンも破れたサドル曲がったハンドルも、愛嬌だと思えるようになり始めていた。

 自転車が捨てられているのを見つけたのは、荷台の君だった。今でも、君が鳴らしたインターフォンの発する褪せた青が、鼓膜にこびりついている。

「……どうして死んだんだろうな」

「人はいずれ死ぬからね」

「本当に?」

「少なくとも、私はそう信じてる」

 オプティミストの言葉は信用ならない。そして、僕自身の言葉はもっと信用ならない。けれど人がいずれ死んでしまうということを信じるのは、あまりにも痛く、苦しかった。出来れば、いつまでも目を逸らしていたかった。

 まだ、死体が死体ではなかった頃のことを思い出す。腐敗臭を放っていなかった頃のことを、思い出す。

 いつも被っていた古びた野球帽。現実を見ないように深く被っていたせいで、目を上手く思い出すことが出来ない。振り返ってみるけれど、死体は瞼を下ろしていて、その眼球を見せてはくれない。それは、世界における永遠の神秘となったのだ。

 君の言う通りだ。僕はいつも、取り返しのつかないことを取り返そうとしている。でも、それなのに思い出せるのは未来のことばかりで、過去は掴もうとした途端に解けて、形を失ってしまう。

 僕は分からない。

「何が分からないの?」

 それすらも分からない。

「冗談でしょ」

「冗談だよ」

 僕は分かっている。本当に分かっているかは分からないけど、分かったつもりになっている。

 風の中に甘ったるい匂いが混じっていた。多分、君のせいだろう。僕は鼻呼吸をやめて、口呼吸をする。べったりとした温度が口腔内を這いずり回る。

 無性に喉が渇いた。無色透明の冷たさが欲しい。色も味もいらない、純粋な液体が欲しい。

 けれど、どれほど目を細めても人工的な灯りは見えない。自動販売機もコンビニエンスストアも見当たらない。唾を飲み込んで、気分を紛らわせる。余計に渇きが激しくなっただけだった。

 手のひらの感覚がなくなってきた。足にはじんじんとした痺れが伝う。君は眠たそうにカゴに収まりながら、荷台で重力とダンスしている。

 お前たちが羨ましかった。叶うことなら、真夜中の夏をぼんやりと揺蕩いたかった。だから僕はハンドルから手を離して、自由を獲得する。世界で最も静かな四秒間が、流転する。

 何もかもが地面に投げ出された。僕は暫くの間空に浮かぶアルデバランを観察してから、月と目が合うことに苛立って身体を起こす。僕は月を憎悪していた。妹を殺したのは、月だったのだから。

「何してんの」と君は言う。不貞腐れた顔で僕を睨む。

「水が欲しかったんだ」

「なら川に飛び込んで死ね馬鹿」

「もう死んでるよ」

「もう一回死ねってこと」

 君は冗談ではない、紛れもなく確かな憎しみ抱いているけれど、怪我があるようには思えない。いや、右膝と左膝を擦りむいているのか。痛みと熱の丁度境目にあるような赤が皮膚の下に走った。確かに、これくらいの痛みは憂鬱よりも先に怒りを生み出すものだ。

 立ち上がろうとして手で地面をつくと、ぐにゃりとした地面が歪んで再び転ぶ。薄気味の悪さを覚えながら再び身体を起こし、振り向くとそこには死体があった。

 死体。死んだ人間。

 紛れもなく、それは死んでいる。

 どうやら荷台から振り解かれてしまったらしいとようやく気が付く。それは象徴として、胎児のように身体を丸めている。僕は先ほど誤って掴んだ二の腕の部分にもう一度触れてみる。二の腕は、ぐにぐにとしていた。腐り始めているのかもしれない。

「起きろよ」と頭蓋をノックする。死体は寝たふりを決め込んでいる。僕は嘆息を吐いて、死体とともに散らばったビニール紐を拾うことにする。

「ねえ、どうして君はいつもガラクタを拾うことに執着しているの?」

「それだけが実現可能な、自己存在の肯定だから」

「ガラクタは捨てられることが憐れみだと思わない?」

「それは適切に捨てられる場合に限られるよ。そして大抵の場合、適切に捨てられることはない」

 スペースデブリが分かりやすい例だろう。人類は未だにガラクタの適切な処理方法を発明していないように思える。そんなだから、僕は僕が向かうべき場所を知らない。僕は末路をずっと探している。

 ビニール紐を手繰り寄せた後で、僕は立ち上がって君に手を差し伸べる。本当は嫌だけれども、こればかりは二人でやらなければどうしようもない。

「ん」と言って、立ち上がる。いつぶりだろう、二足歩行をしたのは。そうして立ち上がった君は、足の裏で僕を蹴った。

 死体の上に落下した後で、バランスを崩して地面に横たわる。無防備を見逃すこともなく、そのまま何度も踏みつける。

 何度も、踏みつける。

「なにっ、転んっ、でんだっ、よっ」

 泥の味がした。死体と目が合った。踏みつけられるたびに心臓が跳ねる。血液が脈動する。

 いつかも全く同じことがあった。あの時は歯が欠けたし、何より噛みつかれた。暫く、噛まれた痕が消えなくて、お風呂に入るたびに痛みが染みた。蹴られて踏まれるだけなら、そんな痛みは有り得ないからいい。

 知ってるかな。痛みってゲシュタルト崩壊を起こすんだ。ずっと同じものが脳内でリフレインされ続けると、だんだん意味が解けてきて、身体が在るということだけが残る。そして、それすらも超えると、やがては身体の輪郭すらもぼやけ始めて、世界と一体になっていく。目が潰れそうな優しい光が見えて、手が届かないことを知りながらも手を伸ばすことしか出来ない。

 痛みとは、そういうものだ。

 謝っても意味はない。頭が割れそうなくらい痛い時、猫が鳴いているだけでも殺したくなる時ってあるように、今の君に何を言ってもその怒りが収まることはない。君はそんなことはないと言っていたけれど、そんなことがあることを僕は今までの経験から知っている。

 口の中に鉄の味が広がり始めたところで、ようやく足蹴は止んだ。驟雨のようなものだ。一度止んでしまえば、なんてことはない。立ち上がって、僕たちは随分と久しぶりに目線を合わせる。

「自転車を抑えるのと死体をくくりつけるのだと、どっちがいい?」

「抑える方」

「オーケー」

 僕は自転車を起こし、スタンドを下ろして自立させる。君は面倒くさそうにハンドルとサドルを持って、自転車を支える。

 死体を抱き起こして、荷台に置いた。上手くバランスを保たせながら、手足をビニール紐で固定する。どうせ、死んだのだ。どうして死体というものはもっとコンパクトになってくれないのだろうか。

 何とかくくりつけ終えると、君はすぐに手を離してカゴを掴む。僕が咄嗟に自転車を支える手に力を込めると、君はえいっとカゴに飛び乗り、再び倒れそうになる。

「じゃあ、行こっか」

「まだ行くのか?」

「もうすぐなんでしょ」

「うん」

「なら行かないと」

 自転車を押す。ゆっくりと僕たちは進み始める。倒れた時にどこかが歪んだようで、進みづらくなったような気がする。あるいは、死体が重たくなったのかもしれない。

 河べりに沈んでいた空き缶が、今日は干からびて転がっていた。艶やかな銀色に、僕は一瞬だけ「骨」のことを思い出す。果たして僕は、上手く埋めることが出来たのだろうか。よく覚えていない。鈍色の残像が脳裏に響いているだけだ。

「君のせいだったね」

 僕のせいじゃない。

「本当に?」

 恐らくは。

 思い出さなければならないことと忘れたいことが多すぎるせいで、僕には朝焼けと夕焼けの違いがよく分からなくなっている。価値観の境界が融解してしまっている。

「やり直す気はあるの?」

「ないよ」

「どうして?」

「疲れたんだ」

「そっか」

 君は眩しそうに、痣のついた腕で目を覆う。死体のように白い顔が、死体のような呼吸をする。

「もしも、やり直したいって言ったら、君は私のことを許してくれる?」

「許さないさ」

 それは僕のためじゃない。君が殺した死体のために、僕は君を許さない。あるいは、僕は僕の殺人を正当化するために、君を許していないだけなのかもしれない。

「……もう、いいかな」

「歩くのをやめたいってこと?」

「あと、五十歩くらいでいいと思うんだ」

「じゃあそれくらいでいいんじゃない?」

「ああ」

 一、二、三、四、五、六、七、八。あれ、幾つまで数えたっけ。数えなくてもいいか。五十歩らしい場所で止まれれば、それでいい。

「もうそろそろかな」と荷台の君が笑う。

「もうそろそろだよ」と僕は頷く。

 死にかけの蝉が鳴いていた。だから僕は夏が嫌いだった。この季節は、死の匂いが染みつきすぎている。

 もう、五十歩歩いただろうか。まだ、少しだけ足りていない気がする。あと十歩だけ歩こう。そうしたら、終わってもいい。

 十歩歩いたはずだった。十歩ではなかったかもしれない。ともかく、目的地へと辿り着いた僕は足を止める。

 そこはあまりにも「それらしい」場所だった。僕たちのために誰かが用意していたのではないかと疑いたくなるほどに、死体にはうってつけの暗闇だった。

「降りて」と言うと、君は空を抱きしめようとするみたいに両手を広げる。僕は溜め息を吐いてから君の手を引っ張って、カゴから取り出してやる。君は満足そうに笑った。

 僕と君の力学が失われたお陰で、自転車と死体は倒れていく。僕たちはその自由落下を見送ってから、押し花のようになった死体を侮蔑する。

 僕たちは揃って屈み込んで、土に指をかける。世界に傷跡でもつけようとするみたいに、僕たちは爪を立てる。

 真夏だというのに、地面は冷たいばかりだった。冷たくて、痛い。死体によく似ている。それとも、死体が土に似ているのだろうか。

 土は嫌いだ。その匂いが懐かしさを呼び起こすから。

「君は嫌いなものが多いね」

 僕は嫌いなものが多いんじゃない。世界が嫌いだから、そこに帰属するお前たちのことも嫌いなだけなんだ。

「でも、私は世界が好きだけどお前のことが嫌いだよ」

 そうだろうな。僕が君のことを殺したんだから。

 幸いなことに、僕もまた君のことが嫌いだった。嫌い同士であることは、両思いであることよりもよほど喜ばれるべきことだろうと僕は思う。

 爪の間に土が入る。拭えない異物感を殺したくなる。それでも、手を止めるわけにはいかなかった。静寂が反響して、うるさかった。

 虫を指先で潰して、根っこを引きちぎり、爪が石を叩く。そんなことをずっと繰り返す。手の感覚は麻痺をし始めて、僕という人間と分離していく。それはもはや、掘削を繰り返すためだけの道具だった。

 爪が割れる。指先に傷が出来る。生温さが唐突に指先に伝って、血が流れていることが分かる。けれど、闇の中で血も土も変わらない。等しく、無意味なだけだ。

「どこで間違えたんだと思う?」

「間違えることを諦めた時」

「うん、そうだったんだろうな」

 はじめから、何もかもが間違っていた。正しくなることなんて不可能だった。だから、間違い続けるべきだったのだ。そうしていれば、まだ価値があったのに。まだ、認めてもらえたのに。

 長い時間をかけて、僕たちは穴を掘った。死体を埋めるにはぴったりな穴を。それとも、僕たちが掘るまでもなく初めから存在していたのだろうか。

 君は満足げにその穴を見下ろして、そして死体を蹴落とす。予想以上に死体は重たく、二、三度蹴り上げなければ穴には這入ってくれなかった。蹴ったつま先が、鈍い痛みを訴える。

 土の中はひどく冷たかった。世界から隔離された冷たさという意味で、ここは宇宙と同じなのかもしれない。そう言えば昔、宇宙飛行士になりたかったのだ。今ようやく思い出したような夢だったけれど、それでも本当になりたかった僕が過去にはいたのだ。

 それは君の妹を殺した月のせい?

 そうかもしれない。ただ、過去の感情の証明なんて誰にも出来ない。

 教えてあげようか? 君がどうして宇宙飛行士になりたかったのか。

 いや、いらないよ。

 僕は穴の中から空を見上げる。宇宙から宇宙を見上げる。そこには月があった。星があった。暗闇と光があり、生と死が点在していた。

 これでよかったと思う?

 これでよかったんじゃないかな。

 死体の温もりが肌を通って魂に伝う。虫が、耳たぶの上を這った。君が僕を見下ろしている。

 だから、僕は君を見下ろしながら口を開こうとした。いつか言えなかった言葉を、ようやく思い出しつつあった。

 本当に死んでるのかな、と君は呟く。

 死んでるよ、と僕は答える。

 世界は駆動を放棄した。風は失われ、河の流れは止み、夏と夜は永遠に続いた。僕と君と死体は腐敗しないままで、自転車だけが目に見えないくらいゆっくりと錆びていた。

 私たち、幸せになれるかな。

 なれないといいね。

 にっこり笑って、そうして僕は、君は、あの子は。

 君は何も言わなかった。僕は何もかも言わなかった。

 多分、泣きたかったんだと思う。

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夏憂い。 しがない @Johnsmithee

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