第16話 傍にいて
―――『企画・開発部門』
いつも通りの朝、いつも通りの日常。
今日は、洗濯機が暴走したあの日みたいに、鹿子田先輩はまだ来ていない。
それは決して大きな変化ではないけれど、
それでも、確かに何かが欠けていると感じる空気を胡麻化せない。
企画・開発部門のフロアに入ると、
コーヒーの香りが漂い、コピー機の動作音が軽く響く。
いつもと変わらないはずの光景なのに、
見慣れたデスクの一つが、妙に静かだ。
会議室、それは七人ルールだ。
それから一人が増えるごとに生産性が、
一〇パーセント落ちてゆくといわれる。
ちなみに四〜六人なら、八〜一五平方メートル、
一〇~ニ〇人なら、二〇~六〇平方メートル。
プリンターの横に誰かが本を置いてくれないし、
デスクの上にカフェラテを置いてくれないから調子が狂ってしまう。
最近はずっと鹿子田先輩ばかり眼で追ってしまう。
周囲にいる煽り役の菅野、ライバルの篠崎、後輩の柚木、
そして、昔の鹿子田先輩を知る藤崎さんなんかのせいで、
決定的な心境の変化が起きている。
いまでも隙あらば、『スパカモラブ姉さん』の、
アカウントをチェックするけど、
いまだに―――決定的な証拠を得ていない。
しかしこれは、嘘だ。
鹿子田先輩に、アカウントを教えてとは言わず、
率直にあなたが『スパカモラブ姉さん』ですかと聞けばいい。
逃げられないような証拠並べて、論破する方法だってある。
でも、いまは知りたくない。
心の何処かで、もうそれはあまり重要ではない。
それが変化というもの―――だ。
「なあ、鹿子田先輩見たか?」
「いないの?」
何でみんな気付かないんだと思うが、鹿子田先輩というのは、
上司ではあるけれど、上司らしくなく、どちらかといえば、影が薄い存在なのだ。
でも自分にとってはあれほど個性的な人はいない。
いつもより少し広く感じる通路。
机の上にあるはずのファイルが、静かに佇み、
視線を向けると、誰かが無意識にその席を見ている。
棘波とデルタ波が交互に現れ、
大量の情報にオーヴァーヒートする・・、
突然廃墟の街のようにあらわな傷口を見せてくる、
ブレーキング・ポイント。
「外出の仕事でも入ってるんじゃない? 急な出張とか?」
「興味なさそうだな」
「だってあの人が普段何してるかわかんねえもん。
いつの間にか現れるし現れたと思ったら消えるし―――」
みんなは知らないのだ。
鹿子田先輩が昔はものすごく気遣いをする人間だったことなど。
オフィスの空気は、決して乱れていない。
むしろ、いつもよりスムーズに動いているようにさえ思える。
部品のネジやボルトに過ぎず、俺達は代用品のきくもの。
プロジェクトの進捗確認で、
誰かが「ここ、鹿子田さんに聞いてみる?」と言いかけて黙る。
机の端に置かれたメモを見て、
「これ、昨日のうちに準備してたのか……」
と気付くけど、そんなことに気付くのはいつも俺だけだ。
資料の確認で、いつもの鋭いツッコミがないまま、
妙にすんなり決裁が通る。
これが社会で、それを引っ繰り返すと―――そこが、会社になる。
風に飛び散る藍の飛沫。
あるいは遠く離れてゆく水平線。
でも多分誰に聞いても似たような反応されるだろうから、
こういう時は『スパカモラブ姉さん』に頼ることにする。
おっと、更新してる。
『熱が出て無事死亡、さすがに三十九度もあったら脳燃焼室、
出社できないので部長に連絡販売事業部』
韻を踏みまくっている(?)
三八.五~三九.五度は高熱の部類に入る。
強い倦怠感、食欲不振、発汗が増え、こまめな水分補給が必須で、
解熱剤を使うか、病院へ相談する。
素人判断だが、子供の時の風邪でもこれぐらいになったものだが、
ウィルス系であれば分からない。
―――などと、解釈を加えながら、自分でもハッとする。
いやもう、お前明らかに鹿子田先輩が、
『スパカモラブ姉さん』だって気付いているじゃないか、と。
黄色い皮膚の下に犬の欲望を匿しながら、
飴色の蠅取り紙の向こう側に消えていく。
ただ、お前どう考えてもそうじゃないと言いたくないだけなんだ、
どうして―――そうだ、どうしてを認めて一歩進もう。
鹿子田先輩がどうして自分のことを好きなのか分からないから。
あまりにも無意識レベルの確認をしていて自分でもびっくりする。
知性とは情念の夜光虫の一面を持つ。
人は無限とか、際限がないもの、知覚できないものに、
畏怖の感情を持って―――いる・・。
交差点の雑踏が犇めき合い、
信号と共に動き出す―――時の・・、
永遠に続くような悲しみへの戸惑いは、
問いの入り口・・・・・・。
「でも鹿子田先輩大丈夫かな、SNSの投稿を見る限り、
一人暮らしっぽいし、心細いんじゃないだろうか」
と思っていたら、
『後輩君に会えないの確定して超ブルーバード症候群、
早く熱落ちてかみさま』
とか書いている。
キャラが違いすぎるんだよな、こんなに分かり易かったら、
恋をしていると想ったり、告白をしたりとトントン拍子に進んだろうか。
(でもそれは多分違うだろう、それは嘘だ・・・)
(結果的にそうだったとしても、
するべきことを先延ばしにしているだけだ・・・・・・)
表情に硬い芯が入る。
ようやく心が決められた気がした。
そして総務の藤崎さんに根回しをした上で、
(個人情報をほいほい教えてくれるかも知れないが、
ワンクッション作る、)
住所を聞き出して、鹿子田先輩のマンションの前に立っていた。
安室奈美恵のツアーファイナルに壁に聴診器当てて、
参戦するファンのように、
これって立派なストーカーじゃないかなという気もするが、
余計なことは考えないようにしよう。
あとはもう、穴の中に落ちてゆくような時間。
あとはもう、声の中に落ちてゆくような時間。
外の空気はいつもよりひんやりしている。
季節の変わり目で、ビルの隙間を通る風が乾いた音を立てる。
秋の昼下がりの静かな時間帯、周囲には人の気配がなく、
建物の外壁に柔らかく光が反射している。
インターホンを押すと電子音が短く響くが、すぐには応答がない。
数秒の静寂。そのあと、小さく、
「……はい」とかすれた声が聞こえる。
「小日向です」
と言うや否や、バタンと何か盛大に倒す音が聞こえて、
ドアが静かに開いた。
パジャマ姿だった。
『顔』が見えた瞬間に、
(了解可能な変異を受け入れた―――んだよ・・)
空気が少しこもっているのがわかる。
髪は少し乱れ、目元がぼんやりしているだろうか。
「……ごめん……風邪……」
と鼻声気味で小さく言って、ゆっくりと頷いた。
何もお構いできないけど中へ上がってと言うので、
室内に入ると、普段より静けさが際立っている。
カーテンは半分開いていて、昼の光が淡く差し込んでいるが、
室内の空気は少し重く、体調不良の気配がそのまま部屋に滲んでいる。
ローテーブルの上には、飲みかけのスポーツドリンク。
ベッドの端に置かれた毛布は少しずれていて、
使いかけのティッシュの箱がある。
俺はスポーツドリンクや、経口補水液、
おかゆと、スープと、ゼリーなどの入った袋を差し出した。
「……ありがと……」と言葉が落ちるように続いた。
熱で弱っているだろうと思ったので、
余計なことは言わないようにしようと最初から決めていた。
薬のパッケージが開いたまま、ソファーに置かれている。
三十九度だと知っているので、病院へ行き、
そのままさっきまで眠っていたんじゃないだろうかと推察した。
カンニングであるが、はたしてどうだろう、
言葉の少ない鹿子田先輩に慣れている俺なら、
少ない情報でも、そうかも知れないというだけで、
同じような推察に至るかも知れない。
だから『スパカモラブ姉さん』なのだ、と思う。
心に引っ掛かっているのは、いつもそれだ。
俺は鹿子田先輩に一枚のメモ用紙を差し出した。
電話場号やメールアドレスの書かれた紙だ。
鹿子田先輩はスマホを取り出して入力しだした。
何も言わないのでちょっとビックリした。
「もし困ったら、いくらでも頼ってください」
「―――という・・・パティーン・・・(?)」
「・・・・・・パターン、です、あと、普通でいいですよ」
三十九度という情報や、
インフルエンザとかコロナを疑いたくなるような状況で、
俺も一歩踏み出さなければいけないと思ったのだ。
鹿子田先輩が食堂で見せてくれたデモンストレーションのように、
あるいは、飲み会の夜に俺の自宅に泊まった時に感じた、
あの気持ちがいまでも忘れられないように。
「鹿子田先輩、俺は帰った方がいいですか、
それとも、傍にいた方がいいですか?」
「・・・・・・それは・・・小日向君の・・・スケジュールで・・・」
俺もきっと逆の立場なら絶対にそう答える気がした。
心の一番暗い回路に、溶岩のように流れる。
「でも俺は鹿子田先輩に聞いているんです、
鹿子田先輩、俺すごく考えたんです、
俺は鹿子田先輩が好きなんだと思うんです」
そう言うと、鹿子田先輩がキョロキョロした。
いや、どこかにカメラある罰ゲームじゃないんで―――(?)
鹿子田先輩は自分の額に押し当てて、
これは駄目だこれは駄目だ、と呟く。
コミカルな一挙手一投足。鹿子田先輩的ダウナー。
波のように駆けてゆく為のストップモーション。
「ついに・・・幻覚を見始めた・・・救急車呼んで・・・」
「現実ですよ、俺、また一緒に屋上でお酒を飲んだり、
夜のコンビニへ一緒に行って、
夜の公園でブランコや滑り台をして、
会社のコピー機の隣に本を置き忘れて、
デスクの上にカフェラテを置く女性がいいんです。
それに、初音ミクをお嫁さんにする人もいる、
Vチューバ―を恋人にしたり、アニメのキャラを嫁という人もいる、
そしてスパカモを抱き締めながら朝起きてきて、
名前つけるような女性もいる、
そしてその人のことが心の底から好きなんです」
そう言うと、鹿子田先輩は顔を真っ赤にした。
風邪の時にちょっと刺激が強すぎただろうか。
だが、いつも会社へ持ってくる鞄を引き寄せると、
鍵を取り出して差し出してきた。
―――手を伸ばして触れようとしても、
擦り抜けない、触れられる、もう一つの可能性――。
背負わなくても―――いい。
寄り添わなくても―――いい・・。
「風邪引いちゃいけないから・・・三十分ほどでいいから・・・、
鍵は郵便箱で・・・返してくれたらいいから・・・」
「―――はい」
鍵を手にした瞬間、室内の空気がわずかに変わった気がした。
背景や顔という枠組み・・。
“様々な可能性が互いに結びつくこと―――は、
漠然とした時間だけど・・ね―――”
空気と光の澄んだ夕方という豪華な壁掛けの中、
彼女の中の小さな壁が崩れ、
箱庭から外の世界が見える。
“人は勝手だから、疎外感が道徳を作ったのさ、
そういうルールは生きた現在の間しか機能せず、
その上、その参加や連携で確実に間違ってしま―――う”
でも、その小さな言葉が、こんなにも響く。
世界中はまだ、そのことにきっと気付いていないのだ。
「傍にいて」
―――その小さな一言で、始まるのだ。
欠ける朝と満ちる夜 かもめ7440 @kamome7440
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