第15話 飲み会...タクシー...自宅...


―――社内の飲み会。


扉を開くと、熱気とざわめきが一気に押し寄せる。

奥に広がる空間には長いテーブルが並び、椅子が規則的に配置されている。

天井には暖色系のライトが吊られ、わずかに落ち着いた照明が場を包んでいる。

そこに大小さまざまな皿が置かれ、

揚げ物やサラダ、刺身が豪快に盛られている。

スタッフがテキパキとボトルを開け、グラスに酒を注ぐ。

ジョッキ同士が軽くぶつかる音、会話の中に混ざる笑い声。

年に二年あるこのイヴェントは、社内旅行と並んで、

大半の社員は「まあ、仕方ないか」と強制参加する雰囲気がある。


「いや~実はさ、俺の初恋は…」と突然始まる恋愛話もあれば、

「会社のシステム、こうすればもっと効率いいんだよ!」

と真剣に熱弁するエンジニア。

「お前はな、もっと積極的にいかなきゃダメなんだよ!」

と肩を抱えながらアドバイスし、

「俺が若い頃はな」と始まる長い話。

しかし途中で何を言ってるかわからなく―――なる・・。


空になったジョッキを見つけると、

「お、いいね! もう一杯いこう!」の声が飛び。

普段は真面目な経理の人が、突然、

「俺も昔はヤンチャしててな~」と武勇伝を語り始め。

「おつかれ~!」と何度も乾杯が繰り返され、

もはや何杯飲んだのか本人にも誰にも分からない。


そんな空気がおよそ苦手そうな、そう、普段こういう場には、

絶対に顔を出さない鹿子田先輩が、いた。


「・・・藤崎に・・・騙された・・・小日向君が・・・泣いて参加して欲しい・・・

って言うから・・・参加した・・・」


もちろん泣いていないし、そんなことなど一言もいっていないが、

総務部として同期の鹿子田先輩を、一度は参加させたかったらしい。

まあ、こういう飲み会はおおよそ次の日は休みなので、

ちょっと胸を撫でおろすところはある。


「・・・藤崎は・・・奥さんに尻に敷かれていて・・・、

その奥さんが・・・私の部下だった・・・から・・・一度藤崎を・・・、

食堂で・・・論破したことがある・・・ボルヘスが『幻獣辞典』の中で・・

ジンは五つの階級からなる・・・と言及したみたいに・・・」


―――とりあえず、大体分かりましたよ(←本当かよ)


どういう経緯があるのかは不明だが、

何となく察することが出来る。

昔の藤崎さんはそのことにちょっと色々あるのだろう。


「・・・・・・だから・・・小日向君を・・・隣にして・・・、

意趣返しを・・・したいの・・・」


しかし、菅野ではないけど、藤崎さんを完全に否定しないのは、

やっぱり、言っていることがそんなに間違いではないと、

癪だけど、お盆で四回ぐらいモグラ叩きしたけど、

やっぱりやっぱり、そう思ってしまうからだろうか。

世の中にはグレゾーンのまま、黒にも白にもなれない、

そういう何かを学んでいくこともある。


「……お酒・・・苦手・・・」


開始早々、鹿子田先輩は静かに宣言する。

まあ、飲み会に来ただけでも驚きなのに、

この場にいること自体に不満そうなオーラが漂っている。

不思議な現代空間を、寓意画のように考察す―――る。

アレゴリーは洞窟画や母音子音の出現以来、

われわれの表現とコミュニケーションの最も深いところで働いている、

編集的表現作用だ。


「鹿子田先輩、屋上でビールを一緒に飲んだから、

飲める人かと思ってましたけど、意外と飲めないんですね」

「対面式なら・・・飲める・・・でも人がいると・・・飲むとすぐ・・・、

眠たくなる・・・お酒は・・・心を乱す魔物の一つ・・・」

そう言って、ビールを一口だけ飲んだだけなのに、

その瞬間、眼がとろんとした。


「あれ、もう来てます?」

「……気のせい……」


しかし、ぼそぼそと独り言が増え始める。

どうやら、アルコールには弱いらしい。

「……この料理、美味しい……」

料理の感想をぽつりと漏らしている。

でも大学のサークルの飲み会に参加した時って、

俺も鹿子田先輩みたいな感じだった。


「……小日向君・・・お酒・・・強いの・・・?」


そういえば、屋上でそんなこと一度も聞かれたことなかった。

俺も鹿子田先輩について、聞かなかった。

そういう気なんて回りそうなものなのに、

ちょっとドキドキして舞い上がってたのかな、と思う。


「まあ、普通ですけど……」

「……なら・・・守って……」


興奮の誇張の不自然のきわまれり、といった台詞だ。

畳のスペースでは、靴を脱いでくつろぐ社員達が見えた。


「えっ?」

「……飲まされる……」

その言葉に一瞬思考が停止する。

いやいや、普段の鹿子田先輩は何処に行った?


ふっと鹿子田先輩が視線を向けている、

あれは、普段陽気な営業の部長さんじゃあーりませんか・・!

折角だし、だから飲もうよ、とてんやわんやに盛り上げている。

なるほど、飲み会によくいるタイプだ。

始末の悪いことに、その隣には菅野までいる。


大学を卒業した夜、コンビニでビールを買って公園で一杯飲んだ。

それは、俺が初めてビールを飲もうとした一杯で、忘れがたい一杯だ。

こういった飲み会というのは目的も何もなくて、

そこにある酔いと云うものは気安くて、多数の友人に取り囲まれて、

賑やかで後腐れなくて、おそらく悲しいほど弱いものだ。


「……あの人・・・一度参加した会社の旅行の・・・バスから・・・、

何から何まで・・・缶ビール差し出してきた・・・悪魔・・・」


多数決の論理、少数派でも影響力が強い人間がいるなど、

そこには様々な心理学がある

そしてヒーローはいつだって孤独なものである。

今日は鹿子田先輩の専属警備員になることにした。


「じゃあ、俺が適度に止めますね」

「……お願い……する・・・」

その一言が、妙に弱々しい。

普段とのギャップがすごすぎて、思わず苦笑してしまった。


飲み会も終盤に差し掛かる頃、鹿子田先輩の姿はと見ると、

既に半分意識が飛びかけて―――いる。

案の定というか、営業の部長と菅野が、

ワッハッハとか、お前等全然面白くねえんだよ、

アルハラだぞ、こら、鹿子田先輩のコップにビールを注いできた。

二杯の内の一杯は俺も飲んだが、もう一杯は無理して飲んでた。

カレーライスの付け合わせの、らっきょうを思い描く。

鹿子田先輩は普段飲まないらしいので、

ボディブローみたいに後々きいてくる。

酒について俺も色んな人から酒の席や体験談として聞いたものだけど、

ビールは一杯目だけが抜群に美味しく、

それ以外は飲まなくてよい、と。


それに厨房からは揚げ物の香ばしい匂いが漂い、

それと混ざる酒の香りが場を満たしている。

仕事を終えて疲れている上に、

こんな泥だか沼だかの場所にいれば、

酔いは加速するに決まっている。


「……眠い……」

視線が定まらず、時々テーブルの端をぼんやりと見つめている。

こういう状態の時の自分を想像する、

こういう時、世界が明るくて揺らいでいる状態だ。

洪水の中に身を任せながら浮かんでいる解脱しきった状態。

酔いがまわって汗腺のすべてが、じくじくと温もりを持て余し、

感覚の鈍麻が始まっている。

「鹿子田先輩、寝ちゃ駄目ですよ」

「……帰りたい……」

頬がほんのり赤くなり、普段より言葉がゆっくりだ。

自分の感覚判断だが、この状態は、

天井がくるくる回る状態の一歩手前のような気がする。

「じゃあ、そろそろ抜けますか?」


一応二次会に行くかどうかだけは決まっていて、

後三十分で移動するという運びで、

それ以外は自由帰宅である。

終盤なので、会話の熱量が落ち、

ジョッキを持ったままぼんやりする人が増える。

床の上には、こぼれた酒の跡がいくつか残り、

机の上には使いかけのナプキン。

そして食い散らかした痕跡は醜悪の極みだが、

それは酔いの後の凪というものだ。

ひび割れ、亀裂、矛盾という弱さをつないで秤にかける、

心の中の花も、葉も、朽ちて、裸になって、

繊細な神経を全部ありのままさらけだして、

グロテスクでも、そう、醜くてもそれが人間だ。

しかし毎回参加するたびに思うが、

急性アルコール中毒が出ないのが不思議だ。

店員に、タクシーを呼んでもらないかと聞くと、

そういうサービスもやってくれているようだった。

鹿子田先輩とは対照的に、俺は酔っていなかった。

頭の中に、きっちりとした回路ができあがり、

ランプのように、理路整然とした言葉が次々と点滅してくる。

おそらく、鹿子田先輩のことばかり考えていて、

上手く酔えなかったのだろうとも思う。


「……立てるかな……」

「先輩、そこからスタートですか?」

とはいえ、血中アルコール濃度は高いだろう。

結局、支えながら帰ることになったが、

個人的な経験から、女性社員にお願いして、

鹿子田先輩にはまずトイレに入ってもらった。

タクシーへ乗る前に、まず、トイレ。

気持ち悪いのなら、吐かせる、これ基本だ。

鹿子田先輩は飲み会では妙に頼りすぎるモードで、

この意外な一面は、俺にとっても驚きだった。

外の夜風が少し冷たく、酔いが覚めるかと思いきや、

鹿子田先輩はふらふらと俺に寄りかかってきた。

「眠い…」

という夢見心地の呟きを何度も繰り返しながら、

足元が覚束ない。

というところで、顔を真っ赤にした藤崎さんがスマホを取り出して、

撮影していた。そして酒の匂いまで伝わってくるような赤い声で、

「ひゃっほ~おおおおおおお」とか言っていた。

年上だけど、尊敬してるけど、この人、何してるんだろう・・・?





「……眠い……ふにゅう・・・」


プリントの点線部分を鋏で切っていくように、

飲み会の終盤から、既に意識が半分飛んでいた鹿子田先輩。

今更嘆いても仕方ないが、コップを黙ってじっと見つめていた時に、

水を飲ませればよかった。

酒は胃に染み込むと同時に虚脱感を与え、脳の一部分だけを覚醒させ、

さながら、間延びして、延長して、

世界を拡大させたような効果を与えてくる。

四肢がだらしなくなるのは、その為だ。

支えながら店を出て、少しすると、タクシーが来た。

「先輩、とりあえず座ってくださいね」

「……うん……」


もう三歳児並みの返事しか出来ないような気がする。

酒は毒薬だというけど、本当にその通りのような気がする。


法人タクシーは約三七万人。

個人タクシーが約四万六千人。

日本の労働人口が約六五○○万人だといわれ、

つまり、約一六○人に一人がタクシー運転手。


ドアを閉めると、外の喧騒が一気に遮断される。

車内は静かで、遠くから微かに響く街の音だけがかすかに聞こえる。

座席は柔らかいレザーで、夜の冷えた空気とは対照的に少し温もりを感じる。

フロントパネルのメーターが淡い緑色に光り、

運転手の手元には行き先を記した小さなスクリーンが点滅していた。

鹿子田先輩は窓際に軽くもたれながら、

外の街灯をぼんやりと眺めている。

低く響くエンジン音が、規則的な振動とともに車内を包み、

シートベルトのバックルが軽く揺れる音が、かすかに響く。

そしてタクシーの運転手が俺に視線を向ける。

「行き先は?」

と聞かれたので、咄嗟に自分の家の住所を答えた。

本来なら鹿子田先輩の家まで送るべきなのかも知れないが、

住所を聞くのも妙な気がしたし、

何より今の状態では説明できるかどうか・・・・・・。


ただ、送り狼になってはいけない、道を踏み外してはいけない、

それだけは自分にちゃんと言い聞かせた。


「……動かない……」

「先輩、もう完全に寝そうじゃないですか」


運転手はナビの画面を確認しながら、ハンドルを静かに切り、

小さくルームミラーを調整し、一瞬だけ視線を後部座席へ向けてきて、

交差点の赤信号が車内に薄く映り込み、淡い影を作り、

酔いのせいだろうか、一瞬白線が白蛇がのたくったようにも見えた。

大通りは、ここから見ると人ごみと車が幾層にも重なって見える。


「……ちょっと……休憩……」


その言葉とともに、鹿子田先輩は座席にもたれかかり、

俺の肩に頬を擦り寄せて来る。

ぬいぐるみだと想っているのかな?

窓の外に流れる街の灯り、

ネオンの色が硝子の表面を滲ませ、光の帯のように流れていく。

流れ星みたいだ。

タクシーの静かな走行音。

車内は穏やかで、どこか不思議な空気が流れている。

それにしても夜遅くだというのに、

沢山の車が黒い河のように流れている。



マンションのエントランスを抜けると、

足元のタイルが静かに反射する。

深夜のせいか、人影はほとんどなく、

エントランスのライトが淡く廊下を照らしている。

オートロックのドアが控えめな電子音を響かせ、

カードキーをかざして静かに開く。

エレベーターは、ボタンを押すと小さな電子音が鳴り、

ゆっくりと降りてくる。

部屋の前で鍵を回し、ドアが静かに開く。

マンションの内部は、一人暮らし特有の静けさをまとっていて、

気がつくと無力感が静かに音もなく、水のように部屋に満ちている。


―――“夜”が始まる、

朝でも昼でも―――周りがくすんで見えるような『夜』だ・・。

愁いに深く沈んだ宝石の星々・・。


到着した頃には、鹿子田先輩はほぼ夢の中だった。

アクセルを床まで踏み込まれたエンジンが回転速度を上げるみたいには、

もう、回復はしない、急潜行を何とか脳が堪えているだけだ。

「先輩、着きましたよ」

「……ん……んっ・・・」


自分もこれぐらいの酩酊状態になったことがあるので、

同病相憐れむの精神になる。

むしろ、嘔吐しないだけでも、

この飲み会は鹿子田先輩の勝利ではないか、と思う。

鹿子田先輩にはかすかに反応はあるものの、

意識は完全にぼんやりしている。

仕方なく、鹿子田先輩を支えるようにしてタクシーを降り、

料金を支払い、片方の腕を軽く回しながら、

ゆっくりと歩き始める。

「鹿子田先輩、気持ち悪くないですか?」

「……多分……」

「いや、多分じゃなくて……」


蹌踉けた瞬間、咄嗟に支える。

これ、俺も鹿子田先輩も酔っ払っていたら、地獄だな、と思う。

でも鹿子田先輩は、酔い以上に寝惚けた瞳で、

にまあ――っつ、と笑う・・。


バスのとまりますボタンを押そうとした自分より先に、

ピンポーンと鳴り響いて慌てて手を引っ込めるように、

鹿子田先輩のしどけない姿を見ている。


「……眠い……」

「後、もうちょっとの辛抱ですよ……」


何とかエントランスを抜け、自室のドアを開ける。

室内は薄暗く、いつもの風景が広がって安堵したいところだが、

そうは問屋が卸さない。

玄関には靴が二足ほど揃えて置かれ、

ドアマットの端に小さな折り目ができている。

傘立てには傘が一本、雑然とした雰囲気のまま残されている。

鹿子田先輩を座らせて靴を脱がせる。

何だか要介護者みたいだが、比喩でも、笑い事でもない。


そういえばこの部屋に入った女性は鹿子田先輩が初めてだ。

母親もまだ来たことがないのだと変なことを考えてしまう。

性はアメーバ状の掌で鼻孔や口を塞ぎ、窒息させ、

巨大な要塞が蟻で埋め尽くされるような絶望的な自己批判に変化する。


「先輩、とりあえずソファでいいですか? 水持ってきますね」


視線をゆっくり動かしながら、ぼんやりと天井を見つめる。

指先がソファの生地を無意識に触れていて、その動きが妙にゆっくりしている。


「……うん……」


シンプルなソファが中央にあり、

ローテーブルの上には読みかけの雑誌がある。

そのままソファへゆっくり座らせる。

座った途端、鹿子田先輩はすぐに眼を閉じる。

完全に脱力モード。

これはもう駄目だと思ったので、

そのままベッドに寝かせることにする。

朝目覚めたら、ここ何処だとなるのは見えていたので、

メモ帳を傍に置いて、落ち着いてください、

ここは小日向純の家です、と書いておいた。

昨日は酔っていたので、俺の判断で家まで連れてきました。

もし帰りたくなった時は声をかけて下さい、

もし俺が寝ていて起こしたくなかったら、

テレビでも、冷蔵庫でも、お風呂でも好きなように使って下さい、

ドアにWELCOMEと書かれているのはトイレです、

―――というようなことを書いた。


それからスパカモのクッションを鹿子田先輩に抱かせた。

パニックになった時に好きなものがあると、

ちょっとはマシになるんじゃないかというような判断だ。


それはいま俺が考えられる最大限の優しさだった。

鹿子田先輩は、幸せな夢を見ているだろうか?

でも、その寝顔は貴重な光景かもしれない。

そんなことを、俺は少しだけ考えながら、

ソファーへと戻り、静かな夜を迎えることになった。

もし俺の方が早く起きたら朝御飯を用意しようと思った。

鹿子田先輩はどんな夢を見ているんだろう、

流しにはコップがひとつ。

コーヒーメーカーの隣にはシュガーポットがあるんだ、

ソファー端にかけられた毛布が少しズレていて、

窓のカーテンがわずかに開いていて、

夜の街の光が細く射し込み、

外から聞こえる遠い車の走行音が、ゆっくりと過ぎていく。

昆虫の眼、猛禽類の眼、魚の眼・・。

柘榴の胤と、黄色い玉蜀黍の粒。

細胞が記憶しているものを裏返すように、

無表情の、本能的な生き物の顔を思い出す。

四角く区切られた映画の一齣のような日常は、

光の中に霞んでいて、どれほど焼いても刈っても、

根絶することのできない病のようにそこにある。

いまになって飲み会の席という動が、

自分の部屋という静に場所を置き換えることで、

急速に現実感を失ってゆく。

耳の奥に残っている、お笑い番組のような聴衆の笑い声。

生牡蠣を見るような、すべてが薄青く薄白い半透明さの室内。

膨大な選択肢を効率化する仕組みに、眼を奪われて、

実体のない風の尾ばかり掴もうとしてい―――た、

トランプの数字を重ねあうような風の夜、

こんな孤独が『スパカモラブ姉さん』に興味を持たせた。

読み終えた途端に消えてしまう、文字。

スクロールしても、フェードアウトしていく、

人類七十億の内の一人の何処にでもありそうな孤独の救済措置として。

おのずから溶けて流れてゆくような屋台骨、

行政手続きや住民サービス、金融サービス、学習や娯楽の場、

交通機関、散歩をするなら大きな公園が欲しい。

神経を張りつめて、尖らせて、

手当たり次第にセンサーに触れたものと、とっつかみ合い。


過去って一体何なんだろう。

古い写真の印画に似て、朦朧と浮かび、何だか泣きそうになる。

酔っ払っているなと気付くまでにそんなに時間はかからなかった。

お誂え向きの家具、サラリーマンとしての給料に見合った賃貸契約、

ただの四角い箱のような部屋だ、シンプルなデザインで、

機能的で、ここは塔の中だか、

煙突の中のような息苦しさを感じさせる。


悲劇と喜劇を俯瞰しながら、

響き合う世界の解像度。

青の耀く粒子で分か―――る、

薄い色素の中で分裂してゆく―――腐蝕の成分・・。


“発動と解除”だ、

『有効な解毒作用』は見つかるだろう―――か、

意志が人知れず動いたのを感じる、

何かもう一つ確かめなければいけない『風景』の中を・・。

―――スマホの通知音がした。


人生なんてまだ全然分からない。

そんなことが雪の冷たさみたいに背筋をひんやりさせる。

この夜はただの一晩のはずなのに、妙に長く感じる。

まるで、時間の流れが変わってしまったみたいなんだ。

全然ロマンティックではないんだけど、

鹿子田先輩がベットで寝ているんだなと思うと、

何故だろう、胸の奥が少し温かくなる。

自分はこんなに誰かと過ごすことを望んでいたのだろうか?

こんな感覚は、久しく忘れていた気がする。



―――この街は、眠りの森だ。


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