第3話
翌日、行方不明の空ちゃんの捜索で、町は大騒ぎになった。捜索が続く間、わたしは夜毎、怖い夢を見た。蒼褪めたずぶ濡れの空ちゃんが髪から水を滴らせて湖から這い上がってきて、「みゆちゃんがやりました」といいつける夢を。
空ちゃん、出てこないで。このまま、みつからないで。空ちゃんがみつかったら、きっと、あの日の事がバレる。わたしは良い子でいられなくなる――。
わたしは毎晩、布団の中で震えて祈った。
けれど結局、空ちゃんは発見されないまま、わたしたちが疑われることも一切無いまま、しばらくして、空ちゃんのお母さんは、ひっそりとどこかに引っ越していった。
その頃、大人たちの噂話で、空ちゃんのお母さんの帰りが遅かったのは仕事のためではなく男の人と会っていたかららしいと知った。あの日も、日付が変ってから帰宅して、翌朝遅くなってはじめて空ちゃんがいないのに気がついたらしいと。空ちゃんは、毎晩のように遅くまで放っておかれて、一人でカップ麺や菓子パンを食べていたんだと。
だからといって空ちゃんが不潔にしていたり嘘をついていい理由になるとは思わなかったけれど、先生が空ちゃんを可哀想だといった意味と、空ちゃんが作り話の中でお母さんのことを『本当のお母さんじゃない』と言った気持ちは、少し分かった気がした。
それからわたしたちは、空ちゃんについては一切口にしないまま普通の日々を送り、やがてわたしは、空ちゃんのことを、自分の空想の産物だと思うようになっていった。
空ちゃんは本当に、空の国から来た天使だったのかもしれない。そういえば、あの日、夏の光の中で宙に浮かんだ空ちゃんの背中に、一瞬、薄汚れた白い翼が見えたような気がする。あの日の湖面に一面に映っていた夏の青空――あれは空ちゃんの『お空の国』で、本当は天使だった空ちゃんは、そこに向かって、背中の翼でまっすぐに羽ばたいていったんだ。湖に落ちたのではなく、空に帰っていったんだ。
もしかしたら、わたしは、その光景を本当にこの目で見たのじゃなかったか。天使の姿に戻った空ちゃんが背中の翼を羽ばたかせ、湖面の青空に向かって飛び去ってゆく光景を。
白い翼は、少し黄ばんで汚れてはいたけれど、夏の光に誇らかに輝いていた。舞い散った細かい羽毛が白い花びらのように空ちゃんの周りを取り巻いて、一心に羽ばたく空ちゃんは、夢のように綺麗だった。湖面に向かって投げ込まれた、空色のリボンの白い花束のよう。リボンの尾を引いて花束が落ちてゆくのを見るように、わたしは、故郷に向かってみるみる遠ざかってゆく空ちゃんを、なすすべもなく立ち尽くして見送ったのではなかったか――。
そう思うと、その光景が確かに自分の目に焼きついているような気がした。
だけど、そんなわけがない。天使なんて、本当にいるわけがないのだから。だったら、あれは何だったんだろう。わたしが見た、あの光景は。見るはずのないものを見た――だったら、それは、きっと夢だったんだ。あるいは、空想の光景か。
あの頃、わたしは子どもだった。子どもはよく、本当のことと自分の空想をごっちゃにしてしまうものだ。見てもいないものを見たと思い込んだり、夢と現実の区別がつかなくなったり、空想のお友達を持ったり。
だったら、きっと、その『空ちゃん』という子は、わたしの空想のお友達だったんだ。自分のクラスにある日突然天使が転校してきて、また空に帰っていったなんて、いかにも子どもが考えそうな他愛のない作り話だ。『空から来た空ちゃん』だなんて、名前まであまりに安直すぎて子どもの思いつきっぽいし、その子がいつも空色のワンピースを着ていたなんていうのも、出来すぎていて嘘くさい。そう、空ちゃんなんて子は、最初からいなかったんだ。何もかも、子どもだったわたしの罪のない空想ごっこだったんだ――。
春の遠足が終わってから転校してきて秋の運動会を待たずに去ってしまった空ちゃんは、学校行事の写真にも一切写っていなかったから、そんな風に自分に思い込ませるのはたやすかった。
やがて大人になったわたしたちは、散り散りに町を出て行った。そうして、わたしは、空ちゃんのことを忘れて暮らしてきた。――郷里の母からの電話で、あのダム湖で子どもの古い白骨死体が発見されたという噂話を聞くまでは。
子どもの骨は、湖底に沈んで立ち枯れた木の枝にひっかかっていたのだという。
「可哀想に、木の枝に引っかかってしまって浮かび上がれなかったのね。苦しかったでしょうね、寒かったでしょうね、ずっと一人ぽっちで寂しかったでしょうね」という母の言葉が遠く聞こえ、心の奥に封印されてきた空ちゃんに纏わる記憶のすべてが一気に甦った。
その夜、夢を見た。
白くふやけて膨張した天使の腐乱死体が、暗緑色に濁った水の中で、木に引っかかって揺らいでいる。ぼろぼろになって水流に靡く空色のワンピースの背中には、擦り切れた羽毛を僅かに残す折れた翼が、半ば千切れて、ぶら下がっている。魚につつかれて破れた皮膚の、ふやけたところに小さな巻貝が群がって、眼球が喰い荒らされた後の眼窩の縁からイトミミズのような赤い蟲が蠢きはみだして涙のように一筋零れ落ち、天使は空ろな口腔を開け、わたしに向かって、にかっと笑いかけるのだ。昏い口腔の中には、白茶けた小蟹が――。襲い掛かるような腐臭に息が詰まる。
目が覚めても、腐臭は消えなかった。一人暮らしの高層マンションの部屋に、腐臭が満ちている。ああ、バスルームだ。蓋をしたバスタブの中に腐臭を放つ湖水が淀み、天使の腐乱死体が手足を不自然に捻じ曲げて浮かんでいる。蓋を開けたら、きっと、水面をびっしりと覆う不潔な羽毛と長い髪の毛の間から、水に晒されて色が抜けた生白い顔が、わたしを見上げて笑うのだ――。
バスルームから、時おり、ちゃぷん、と、微かな水音がする。バスタブの縁から、抜け落ちた黒髪と羽毛が混じった腐った水が流れ落ちて床に溜まってゆくのが脳裏に見える。バスルームの前を通るのが怖くて、わたしは部屋から出られない。もうずっと、奥の寝室のドアを締め切って、窓際のベッドで頭から布団を被って震えている。今、バスルームで、かさり、ぽたり、と音がした。バスタブの蓋の隙間から小さな蟹がかさこそと這い出して、床に転がり落ちたのだ。蟹の後を追うように、白く膨れ上がった血の気のない指が蓋の隙間から伸びて、のろのろとあたりを探る。ゆっくりと蓋が持ち上がる。腐った天使が、水を滴らせてバスタブから生まれ出る。ずるり、ぴとり、べちゃり……小さな濡れた足音が廊下を近づいてくる。この寝室のドアの向こうに、溺れて腐った空ちゃんが、空ちゃんが、空ちゃんが……!
ドアの下の隙間から、腐臭を放つ水がちょろちょろと流れ込む。ドアが軋む。腐臭がわたしを包む。ああ、ドアが、開く――
逃げ道は一方向だけ。気がつくとベランダの柵を乗り越えて、わたしの身体は宙に舞っていた。あの日の空ちゃんのように。
青空に浮かんだまま、わたしの時が止まった。目の前に、腐った天使が浮かんでいる。ぶよぶよと膨れて溶け崩れた顔に空ろな笑みを浮かべ、あどけなく小首を傾げて手を差し出す。
――やっとあそびにきてくれたね ずっとまってたんだよ だいすきなみゆちゃんにいちばんにきてほしかったの これからほかのみんなもむかえにいこうね――
差し伸べられた腕から腐肉がずるりと剥け落ちてわたしの顔に滴り、死んだ子どものつめたい指が手首にからみついた。
腐乱天使 冬木洋子 @fuyukiyoko
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