第2話

 空ちゃんは、臭くて汚いと言われて、男子たちにいじめられだした。休み時間になると空ちゃんを取り囲んで、髪の毛が臭いとか服が汚いと大きな声で騒ぎながら鼻をつまむふりをしたり、髪の毛をひっぱったり。


 いくら空ちゃんが不潔なのが本当でも、いじめは悪いことだから、わたしは注意して止めさせた。


 でも、空ちゃんも、臭いとか汚いと言われて泣くくらいなら、ちゃんと清潔にすればいいのに。もしお母さんがお仕事で帰りが遅いんだとしても、そんなの、空ちゃんが不潔にしていていい理由にはならないと思う。もう四年生なんだから、お母さんがいなくたってお風呂くらい自分で沸かして入れるはずだし、服だって、自分で洗濯機で洗えるはずだ。わたしだったら、そうする。


 だいたい、男子たちは、よくあんな汚い髪の毛に触る気になる。わたしなんか、隣に座っているだけで、フケがこっちまで飛んできそうで嫌なのに。空ちゃんは、髪の毛をちゃんと洗ったり梳かしたり出来ないなら、あんなふうに長く伸ばしていないで短く切るか、せめてゴムで結べばいいのに。そうすれば、少しは臭くないし、フケも落ちないだろう。


 そう思ったから、空ちゃんに、「髪の毛、結んどいたほうがいいよ」と言って、予備に持っていた髪ゴムをあげた。どうせ三年生の時に買った子どもっぽいやつで、新しいのを買ってからは、ずっと使ってなかったから。大きなプラスチックのボンボンなんて、わたしにはもう幼稚すぎるけど、空ちゃんにはそれくらいがきっとお似合いだ。


 空ちゃんは、ものすごく喜んだ。どうせあまり使ってないものをあげただけなのに、そんなに喜ばれると、自分がすごく良いことをしたみたいで、悪い気はしなかった。わたしも空ちゃんの隣に座っていてフケや臭いがこっちまで来ると嫌だから、空ちゃんが髪を結んでいてくれたほうが、きっと少しは助かるし。


 そうしたら、次の日、空ちゃんは、髪の毛をとっても変な風に結んできて、わたしに向かってにかっと笑って、嬉しそうに「みゆちゃんとおんなじ」と言った。ものすごくムカついた。そんなんで、わたしの髪型を真似したつもりでいるの? 左右の結び目の高さがぜんぜん違って、あちこちから髪の毛がはみ出してぼさぼさしてて、髪の毛の分け目にはフケがべったりとこびりついてて、すごく汚らしくてだらしなくてみっともないのに。髪の毛を高い位置で左右二つに結ぶのは、とても難しい。わたしは何度も練習して、自分で上手く結べるようになった。それなのに、空ちゃんは、あんなへんてこな髪型で、わたしと同じなつもりなんだ。わたしは、空ちゃんなんかに真似をされたくない。同じだなんて思われたくない。


 翌日から、わたしは髪型を変えた。


 それでも、それからも、男子たちが空ちゃんを囃し立てたりするたびに、わたしは注意して追い払った。そのせいで男子たちからうっとおしがられて、わたしまで一緒に嫌な目で見られた。だから、夏休みに入って、やっと空ちゃんのお守りから解放された時には、本当にほっとした。



 それなのに、夏休みのある日、わたしが友だちと歩いていると、空ちゃんとばったり会ってしまった。空ちゃんは、わたしを見ると、それは嬉しそうに、にかっと笑って、誰も一緒に来ていいなんて言わなかったのに、勝手に後をついてきた。


 その日、わたしたちは、駅前のファンシーショップに行くところだった。可愛い文具やアクセサリーがいっぱいのその店は、わたしたちにとって、ちょっと特別な場所だった。中学生のお姉さんたちも買い物に来るその店に入り浸ることは、わたしたちおしゃれで大人っぽい女の子のステイタスの証だったから。その、わたしたちの聖域に、空ちゃんなんかに入り込まれたくなかった。ダサくて幼稚な空ちゃんは、あの店にふさわしくない。


 わたしたちは、目と目で相談しあって、駅とは反対のほうに歩き出した。空ちゃんに、あの店について来られないように。


 空ちゃんは、みんな無視して相手にしないのに、どこまでも後をついてきた。「ついて来ないで」と言っても、聞こえてないみたいにへらへらと笑って、二メートルくらい後ろをついてくる。まるで汚い野良犬みたい。


 わたしたちは意地になってどんどん歩き続け、とうとう市街地を抜けて、山の上の小さなダム湖にまで来てしまった。さすがの空ちゃんも不思議に思ったらしく、無邪気に、「ねえ、どこに行くの?」と訊ねてきた。真夏の日射しの中を歩き続け、疲れて不機嫌になったわたしたちは、誰も返事をしなかった。


 空ちゃんは一人で勝手にしゃべりだした。


「ねえ、みんな、行くとこ決まってないなら、これからお空のおうちに遊びに来ない? 涼しいし、冷たいジュースもあるよ。ゲームがいっぱいあるから、何でも貸してあげるよ。みんなにも魔法で羽をつけてあげるから、そしたら飛んでいけるよ。ちゃんと飛べるように、あたしが飛び方、教えてあげるから。ほんとだよ、簡単だよ……」


 その、しつこく追いすがる舌足らずな声と、際限ない作り話のあまりの幼稚さ、空気を読まない自分勝手なおしゃべりが、ぎりぎりまで高まっていたわたしたちの苛立ちに火をつけた。


 あの時、なぜ、あの場所であんなことが起こってしまったのか分らない。わたしたちには、誓って、空ちゃんに危害を加えるつもりはなかった。空ちゃんを危険な目にあわせようとしてわざとあの場所に誘い出したりしたわけじゃなかった。ただ、空ちゃんがいつものように空を飛べると嘘をつき、いつものようにみんながその虚言を咎めた、ちょうどその時、ダム湖を遥か下に見下ろす小さな赤い橋にたまたま差し掛かっていたというだけ。


 橋の上でみんなに嘘つきと責め立てられた空ちゃんは、「嘘じゃないもん、ほんとに飛べるもん!」と叫んで、止めるまもなく赤い欄干に攀じ登り、いきなり宙に舞ったのだ。


 わたしたちの目の前で、翼のように両手を広げた空ちゃんの小さな身体が、一瞬、青空に浮かんだ。


 直後に、湖面で水音が上がった。わたしたちは悲鳴を上げて欄干から下を覗き込んだけれど、そこにはもう、空ちゃんの姿は無かった。水面で溺れかかってバシャバシャもがいている姿を予想したのに、そこにあったのは、輪を描いて広がる水の波紋だけ。


 夏の日盛りの橋の上、照りつける日射しがふと陰り、蝉時雨が糾弾のように降り注いだ。



 わたしたちに何が出来ただろう。わたしたちは、みな、ほんの十歳かそこらの子どもだった。周囲に他の人影も民家もなく、あの頃はまだ、今のように子どもが携帯を持ち歩いていたりはしなかった。わたしたちに何が出来ただろう。――わたしたちは、ただ、恐くなってその場から逃げ出したのだ。



 息を切らせて逃げ帰った町外れで、わたしたちは足を止め、わたしはみんなに、今日のことは誰にも言うなと告げた。


 わたしたちは何も悪いことをしなかった。わたしたちは誰も空ちゃんに飛び降りろとか死ねとか言っていない。これまでだって、男子たちがしていたみたいに空ちゃんを小突いたりしていじめたことは一度もない。わたしたちは、ただ、嘘を注意しただけ。嘘をつくのはいけないことだと教えてあげて、止めさせようとしただけ。それは正しいことのはず。空ちゃんのためにもなることのはず。それなのに――何も悪いことをしていないのに、今日のことを大人に言ったら、きっと、わたしたちが叱られる。


「誰かに話したら、仲間外れだからね」


 そう宣告すると、みんな青い顔で頷いた。わたしたちが空ちゃんと一緒にいたのは、たぶん、誰も見ていない。見ていたとしても、その後でわたしたちが一緒にダム湖に行った事は誰も知らないから、道で会ったけどそのまま別れたと言えば大丈夫――。




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