第8話:新たな一歩
小説:栄華の果て
第八話:新たな一歩
クリニックでの治療プログラムは、着実に進んでいった。グループセラピーでは、自分の弱さや過ちを正直に語ることで、仲間たちとの間に信頼関係が芽生え始めていた。彼らの体験談を聞くことは、時に胸が締め付けられるほど辛かったが、同時に、自分だけが苦しんでいるのではないという連帯感が、俺を支えてくれた。
カウンセリングも、より深いレベルへと進んでいた。俺がなぜあれほどまでに「カキーン!」という快音に、そして栄光に執着したのか。それは、幼い頃からの承認欲求の強さ、そして常に誰かに認められることでしか自分の価値を見いだせなかった心の歪みに起因していることが明らかになってきた。父は厳格で、褒めることなど滅多になかった。野球で結果を出すことだけが、父に、そして周囲に認められる唯一の手段だと信じ込んでいた。その歪んだ成功体験が、プロの世界でのプレッシャーと結びつき、薬物という安易な逃避手段へと俺を駆り立てたのだ。
過去の自分と向き合う作業は、まるで膿を出し切るような苦しさを伴った。しかし、それと同時に、少しずつ心が軽くなっていくのも感じられた。明子は、そんな俺の心の変化を敏感に感じ取り、静かに見守ってくれた。彼女の変わらぬ愛情と信頼が、何よりも大きな力になっていた。
ある日、クリニックの帰り、明子がふと口を開いた。
「龍さん、もしよかったら…少年野球のチームで、ボランティアのコーチをしてみない?」
思いがけない提案だった。俺は、一瞬言葉を失った。
「俺が…コーチを?」
「ええ。監督さんが、知り合いのチームを紹介してくれたの。子供たちは、元プロ野球選手に教えてもらえるなんて、きっと喜ぶわ」
正直、迷った。野球から離れたいという気持ちと、やはり野球が好きだという気持ちが、心の中でせめぎ合っていた。子供たちに、今の俺が何を教えられるというのだろうか。しかし、明子の期待に満ちた眼差しを見ていると、断ることはできなかった。
初めて少年野球のグラウンドに足を踏み入れた時、懐かしい土の匂いと子供たちの賑やかな声が、俺を迎えてくれた。最初は緊張したが、子供たちの純粋な笑顔と野球へのひたむきな情熱に触れているうちに、自然と心が解きほぐれていくのを感じた。
俺は、自分の経験を元に、バッティングの技術や練習方法を教えた。かつて自分が追い求めた「カキーン!」という快音ではなく、基本に忠実なスイング、ボールをしっかりとミートすることの大切さを説いた。子供たちは、目を輝かせながら俺の言葉に耳を傾け、懸命にバットを振った。
その中に、ひときわ小柄な少年がいた。彼はなかなかボールにバットが当たらず、悔しそうに唇を噛んでいた。俺は、かつての自分を重ね合わせるように、彼に近づき、優しく声をかけた。
「大丈夫。焦らなくていい。大切なのは、諦めないことだ」
そして、彼の小さな手を握り、一緒にスイングのフォームを修正した。
何度か練習を繰り返すうちに、ついに彼のバットがボールを捉えた。カツン、という小さな音だったが、ボールは内野を抜け、外野へと転がっていった。少年は、満面の笑みを浮かべて俺を振り返った。
「コーチ! 打てたよ!」
その瞬間の彼の笑顔は、俺がこれまでどんなホームランを打った時よりも、輝いて見えた。胸の奥から、温かいものが込み上げてくるのを感じた。それは、誰かに認められることとは違う、誰かの成長を喜び、そこに貢献できたという、ささやかだが確かな充足感だった。
「良かったな。ナイスバッティングだ」
俺は、少年の頭を優しく撫でた。その時、ふと気づいた。俺は、薬物に頼らなくても、心の底から喜びを感じることができるのだと。
ボランティアコーチの活動は、俺にとって大きな転機となった。子供たちと触れ合う中で、俺は野球の楽しさを再発見し、そして何よりも、自分自身の存在価値を、これまでとは違う形で見いだすことができた。
もちろん、薬物依存からの完全な回復には、まだ時間がかかるだろう。時折、過去の栄光や薬物の誘惑が、悪夢のように蘇ることもあった。しかし、今の俺には、明子がいる。そして、俺を信じてくれる子供たちがいる。彼らの存在が、俺を暗闇から引き戻してくれるのだ。
ある日、練習の帰り道、明子が俺に言った。
「龍さん、顔つきが、とても良くなったわ。昔の…ううん、それよりもっと素敵な顔をしている」
彼女の言葉に、俺は照れくさそうに笑った。
栄華の果てに待っていたのは、破滅だけではなかった。それは、新たな自分を見つけるための、長く険しい道のりの始まりだったのかもしれない。失ったものは大きいが、得たものもまた、決して小さくはない。
俺は、もう一度、自分の足でしっかりと大地を踏みしめ、一歩ずつ前に進んでいく。その先にある未来が、どんなものになるのかは分からない。だが、今の俺には、確かな希望の光が見えている。それは、かつて追い求めたスポットライトのような強烈な光ではない。しかし、心の奥を温かく照らし続けてくれる、優しく、そして力強い光だった。
(了)
栄華の果て! 志乃原七海 @09093495732p
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