第7話:栄華の果て
小説:栄華の果て
第七話:再生への道
専門クリニックの扉は、想像していたよりもずっと重く感じられた。明子に付き添われ、俺は震える手でその扉を開けた。待合室は静かで、俺と同じように何かを抱えた人々が、それぞれの思いを胸に座っているように見えた。
最初に面談してくれたのは、穏やかな物腰の初老の男性医師だった。俺は、明子に促されるように、訥々と自分の状況を話し始めた。薬物に手を染めた経緯、栄光への渇望、孤独感、そして今の絶望。言葉にするのは辛かったが、誰かに正直に打ち明けることで、少しだけ肩の荷が下りたような気がした。
医師は、じっと俺の話に耳を傾け、時折頷きながら、優しい声で質問を重ねた。
「神宮寺さん、よくここまで来てくださいました。一人で抱え込まず、話してくれてありがとう。あなたは病気なのです。意志の弱さや性格の問題ではありません。そして、病気は治療することができます」
その言葉は、俺にとって大きな救いだった。「病気」――その一言が、俺を縛り付けていた罪悪感の鎖を少しだけ緩めてくれたような気がした。
医師は、今後の治療方針について丁寧に説明してくれた。薬物依存からの離脱プログラム、カウンセリング、そして必要であれば入院治療も検討するという。道のりは長く、険しいものになるだろう。しかし、医師の「必ず回復できる」という力強い言葉は、俺に勇気を与えてくれた。
その日から、俺の治療が始まった。最初の数週間は、離脱症状との戦いだった。激しい頭痛、吐き気、悪寒、そして何よりも耐え難い薬物への渇望。何度も挫けそうになった。こんな苦しみを味わうくらいなら、いっそ…と、暗い考えが頭をよぎることもあった。
そんな時、俺を支えてくれたのは明子だった。彼女は毎日クリニックに通い、俺の手を握り、励まし続けてくれた。時には厳しく叱咤し、時には優しく寄り添ってくれた。彼女の存在がなければ、俺はとっくに治療を投げ出していただろう。
カウンセリングでは、自分の内面と向き合う作業が続いた。なぜ薬物に頼ってしまったのか。俺が本当に求めていたものは何だったのか。幼少期の経験、プロ野球選手としてのプレッシャー、栄光と挫折。カウンセラーは、俺の心の奥底に隠された傷やトラウマを、一つ一つ丁寧に紐解いていった。それは痛みを伴う作業だったが、同時に、自分自身を理解するための重要なプロセスでもあった。
クリニックには、俺と同じように薬物依存と戦う仲間たちがいた。グループセラピーでは、互いの経験を語り合い、励まし合った。彼らの苦しみや葛藤に触れることで、俺は一人ではないと感じることができた。そこには、プロ野球選手だった俺も、ただの薬物依存者の一人として存在していた。肩書きや過去の栄光など、何の意味も持たない場所だった。
脅迫してきた男たちのことは、明子が弁護士に相談し、対応を進めてくれていた。幸い、彼らは金銭目的のチンピラのような連中で、警察沙汰になることを恐れてか、弁護士が介入するとすぐに手を引いた。もちろん、口止め料を払う必要もなかった。佐伯の行方は依然として知れなかったが、今は彼のことを考える余裕はなかった。
チームとの関係は、まだ白紙の状態だった。監督は時折、明子を通じて俺の様子を気にかけてくれているようだったが、復帰については何も言及されなかった。当然だろう。俺が犯した過ちは、それほどまでに大きいのだ。
数ヶ月が経ち、俺の心身は少しずつ安定を取り戻しつつあった。薬物への渇望は薄れ、夜も眠れるようになった。鏡に映る自分の顔には、まだ疲労の色は残っていたが、以前のような生気のなさは消えていた。
ある日、明子がクリニックの帰り道、俺に小さなバットとボールを買ってきた。
「少し、身体を動かしてみない? 無理のない範囲で」
彼女は、そう言って微笑んだ。
久しぶりに握るバットの感触は、どこか懐かしく、そして温かかった。公園の片隅で、明子が投げるボールを軽く打ち返す。カツン、という鈍い音。かつての快音とはほど遠い、ささやかな音だった。しかし、その音は、俺の心に確かな希望の響きをもたらした。
「…ありがとう、明子」
俺は、汗を拭いながら言った。彼女は、何も言わずにただ微笑み返してくれた。
再生への道は、まだ始まったばかりだ。失ったものを取り戻すことはできないかもしれない。それでも、俺は前を向いて歩き続けなければならない。明子と共に。そして、いつかまた、誰かのために、自分自身のために、胸を張ってバットを振れる日が来ることを信じて。
栄華の果てに見えたのは、絶望だけではなかった。そこには、人の温かさ、愛、そして再生への微かな光があったのだ。その光を頼りに、俺はもう一度、自分の人生を投げ出さずに、一歩ずつ進んでいく。
(続く)
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