第5篇


 この日、僕は初めて母親に連絡も入れず、無断外泊を決めた。

 というより、気まずさがあったのだ。

 弟の安寧を守りたい。

 お父さんの不倫先を知られるわけにはいかない。

 修羅場は避けたい。

 そのために、鈴太の家の場所を教えない。

 そんな簡単な連想ゲームだ。消去法とも言うかもしれない。

 飯作る、と言っていた鈴太が用意したものは案の定というか、カップ麺だった。


「この味噌ラーメンに、かあちゃんのモヤシ炒めをのせて、ニンニクチューブをしぼると、うますぎて死ねる。それからコショウ少々」

「すごいライフハックだ……」


 素直にコイツの創意工夫と食い意地の逞しさを尊敬した。

 僕だって育ち盛りだ。こんなん好物に決まっている。


「ほかにもお前のお母さんの作り置き、あるんじゃないのか?」

「いーや? いつもいない時はこんなもんよ」


 僕らはずるずるとラーメンをすすりながら、熱々のスープに汗をかいた。


「響也のかあちゃんは凄いマメそうだよな。料理とか美味そう」

「まあ、そうかな」

「だって響也、明らかに育ちいいですう~無農薬栽培。みたいな顔してるもん」

「どんな顔だよ……」


 顔、という単語が、さっきの部屋でのことを思い起こさせて、余計に顔面が熱くなる。


「無農薬栽培じゃなくて、温室育ちって言うんじゃないのか。そういう時」

「あー世間一般的にはそうかも?」


 本当に……調子が狂うな。

 全部を腹の中に入れたら、中身の消滅したカップはスカスカに軽いもんだ。それを洗って分別しようとすると、鈴太が素っ頓狂な声を上げて制止した。分別してゴミ捨てるのは当たり前だろうが。


「メンドイじゃん!」

「慣れればなんてことないよ」

「ええ~……響也の城はゴミ箱何種類あんだよ」


 また妙なことを言い出したな。

 洗い場を借りて水を流しているから、よく聞こえなかったふりをして聞き返した。


「城?」

「ほら、前に言ってたじゃん? 自分の城が欲しいって」

「あ、ああ、よく覚えてるな……あんな独り言」

「まあ居住希望者なので」


 そんな市営住宅の抽選、みたいな城があってたまるか。

 カップの油分が落ちたので、水気を切ってプラスチックゴミ用に透明な袋を所望する。意外や、鈴太は台所の棚からちゃんとそれを持ってきてくれた。


「なんだ、プラ用ゴミ袋あるじゃん」

「パパが、こういうのはちゃんとやるもんだって」


 その瞬間――僕の中の、ナニカが完全に破壊された気がした。

 ラーメンで温まった自分の腹が憎たらしい。

 もしや、カップ麺もあの男がこの家族に買い与えた物なのでは――!?


「響也……!」


 狭苦しい気道をヒュー、ヒューと呼吸が通っていく。網膜が破裂しそうなほどに熱されていく。目玉が零れ落ちそうになる。吐き気を覚えて、口元を押さえた。


「響也、頼むから、落ち着いて……」

「……っ、ゴメン……! ごめん、ごめんなさい……っごめん、な……っ」

「ちがう! 響也は悪くない! オレが悪かった! ごめんッ!」


 ああ、崩れ落ちていく。

 夢想の城が――白い霧の中に建っていた、真っ白な城壁。

 アレだけが、僕の……――


「ごめん、響也……実はオレ、知ってたんだ」


 知ってた?

 なにを――まさか、あのことをか!?


「ッ、帰る……! 離せ!」

「だから、落ち着けって! 最後まで聞いて。お願い」

「何を話すのかわかってる! 聞く必要ない!」

「……っ、響也は何も知らないだろッ!」


 じたばたと暴れる僕は畳むように抱きすくめられた。

 鈴太の背中を渾身の力を込めて殴り抵抗するが、逆にぎゅうっと力を込めて抱きしめられ、息が出来なくなるんじゃないかと青くなる。


「離せってば!」

「嫌だ!」

「いい加減に……っ、ぅん!?」


 全生命力を込めたくらいの悲鳴を、いとも簡単に塞がれた。

 吐いた息が、異なる温度で気道に帰って来る。内臓が融解してしまう……でも、唇が閉じることを拒まれて、僕は喘ぐように鈴太の舌を受け入れた。


「……お、前、……ふざけんなっニンニク臭いだろうが!」

「それは、マジですまん」


 ぜえはあ、息を整えるのだが、一向に鼓動が収まらない。僕の心臓なのに、勝手に鳴り響くスピード狂みたいな特大のリズムが脳を揺さぶる。なんか、変だ。


「あんまり騒ぐとさ、安アパートだから迷惑かけちゃうんだよ、お隣さんに」

「あっ、ごめん……」

「いや……オレのせい、みたいなもんだし……」

「いやいや……本当に、迷惑かけて、すみません……」

「うん……いや、うん……」


 よくわからない空気感になっているのは、僕ら二人とも痛いほど理解していた。

 なのに、更にわからないことをしてくる鈴太は、真っ赤な顔をして、真っ赤な顔のはずの僕の手を握りしめ、自分の部屋につれて行った。そして、勉強会していたちゃぶ台ではなく、タオルケットの散らばったベッドに座らせた。


「落ち着いて聞いてほしいんだけど……」


 握られた手は二つに増え、やっぱり真っ赤な顔で横に座った鈴太は、ひどくまっすぐに僕の顔を見つめた。


「うん、もう大丈夫だから。ちゃんと、最後まで聞く」

「そ、か……うん。あの、まずはごめん……パパ――響也の、とうちゃんのこと」


 泣くつもりはなかった。

 もう、自分の中で決着はついていると思ったから。

 でも鈴太の手を握り返してしまっているので、頬を拭うことはできず、その手の上にぽたぽたと水滴が落ちた。


「お前は、悪くないよ。悪くない……アイツが全部おかしくさせたんだ」

「うん、そうだな。それでも、オレのかあちゃんは昔みたいな……今にも死にそうな顔をしなくなった……我が家の生活環境が大きく変わった。それは、響也もなんだろうけど……」


 そこで頷くべきかどうか迷って、開きかけた口をちゅっと吸われた。


「響也が受けるべきとうちゃんの愛情とか、財布面とかさ、……最初の最初はマジで知らなかったんだ。サンタさんってあるじゃん。うちには来なかったけど、毎日サンタさんみたいな人が来てくれるようになった、って嬉しかった。けど、響也がオレの向こう側に、違う誰かを見ているな、って気が付くようになって……それで、ああ、そうだったんだって全部分かった時に、響也……お前のことが守りたくて、喜ばせたくて、……好きになってた」

「たぶん、それは違う。罪悪感だろ」


 首を横に振ると、その顎を捕まえられた。くっ、と力の入った指は、思いのほか強くて、僕は鈴太の方に目線を固定されていた。


「違うのが違ったら――どうする?」


 開放されたと思ったとたんに、鈴太はその手で僕の肩を押して、天地がひっくり返った。

 ゆっくりと、もう幼くない横顔が僕の肩口に埋められる時に、隆起した喉仏が通過していくのを見た。


「……罪悪感、あったらこんなことしない。響也にも弟いたよな? オレにもいるけど、響也が弟のために我慢して耐えてたのは、なんか察してた……でも、それは響也だからだ。オレは響也のためなら、全部知らないふりして放課後も家に帰るまでの時間束縛するし、休み時間も誰とも喋らせたくない……オレはお前の思うほど、響也みたいな善人じゃないし可哀想なヤツじゃないから」

「ぅっ?」


 少しの痛みを首筋に感じた後、またゆっくりと鈴太は上体を起こした。


「だから、オレは響也の城には住まわしてもらえるかわかんない……それは、ちょっと怖い」


 僕は何が起きたのかわからずに、首をさすった。

 鈴太はまだ僕を見下ろしながら、僕の太腿あたりにどっかり座っている。


「あーっと……、変なタイミングでぶった切るんだけど、お前のかあちゃん、連絡しなくて大丈夫?」

「へ? あー……」


 だいぶ遅い時刻だし、外歩いてたら補導されるくらいには既に夜も更けているから泊まろうと思っていた。諸事情あってお母さんには連絡しないことには決めていたのだが。


「……――あ」


 鈴太は僕に気を使ったんじゃない、てことに遅れて気が付いた。

 この後起こることの、覚悟を試すためにそのセリフはあったのだ。


「うわ、響也顔真っ赤っか」

「う、うるさいなっ! 誰のせいで……」

「んーオレ?」


 変な含み笑いを漏らしながら、鈴太は僕の上からどいて、横にぼふっと倒れ込んできた。


「笑い方キショイな」

「へへへー……やっと響也がオレのことちゃんと見て考えてくれた? みたいな感じがして、なんかね、へへ」

「いつもちゃんと考えて勉強とか教えてるっての」


 僕らは寝転がりながら手をつないだ。


「ずっと真っ赤じゃん。かわい」

「ッ、顔見んな! ……電気消して」

「ん、わかったよ」

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