第4篇
□ ◇ □ ◆
「テスト範囲がわからない?」
毎度毎度、懇切丁寧に勉強を教えてやっている僕に、その範囲まで教えてくれと?
「だって、授業中寝てたんだもん。聞き損ねた」
鈴太の机の上に広がった寝涎。休み時間もそろそろ終わって次の授業が始まるというのに、鈴太は今さっき僕が起こしたのだった。
笹川鈴太……お前という奴は。
「馬鹿なの?」
「そんな馬鹿なオレに教えてくれ」
大きなため息を吐いて、僕はポケットからティッシュを差し出した。
「とりあえず、
「おお、さんきゅ」
コイツ、僕がいないと生きていけないんじゃないか?
本当に大丈夫か?
なんとなく、理科室の金魚の姿を重ねた。
「そんな顔すんなって。一応やる気はあるから!」
「態度で示してくれよ」
「ええ~……そっか」
何故そこでシンキングタイムに入ってしまうんだ。
どこか掴めない鈴太の態度は、僕を狂おしくさせる。
「じゃあさ、今日、オレん
「は?」
どうしてそうなるんだ……。
そうは思うのに、僕は放課後、笹川家の玄関に立っていた。
「お、おじゃまします……」
「はーい、おいでませー」
スリッパとか無いけど。と言いながら、鈴太は僕を置いて行こうとするので、焦って廊下を追った。
いや、馬鹿は僕の方だろ!
お父さんの不倫先の本丸に上がり込んでしまうなんて!
「あの、さ……鈴太のお母さんは? 挨拶した方がいいよね……」
玄関で鈴太が目を離した隙にさっさと黙ってでも逃げ帰れば良かったと後悔する僕に、カラカラと笑って言いのける。
「あれ、言ってなかったっけか。今日はかあちゃん、弟と実家帰ってるんだ」
「そ、そうなん、だ……」
その場に崩れ落ちるかと思うくらい、ホッとした。
それはもう心底。
だから気が付かなかった。
この時、鈴太がどんな表情をしているかを――。
笹川家は古めのアパートの一室にあって、戸建てとは違う雰囲気が僕をそわそわとさせる。壁のすぐ向こうに他人の家庭があるのがなんだか変な感じだ。
意外だったのは、居間が片付いていたこと。とても男兄弟を一手に育ててきた母親の家だと思えない。
……というのは偏見かもしれないが。かといって閑散として物が無いわけではない。テレビラックの中には、懐かしい少年向けアニメのシリーズが飛び飛びの巻数でしまわれていた。
「オレの部屋こっち」
「あ、うん……おじゃまします」
「おじゃまします何回言うんだよ」
「べ、別に……何度言ったっていいだろうが」
いつもとはボケとツッコミがあべこべになっている。
ボケたわけじゃないんだけど。鈴太といると、本当に調子が狂う。
「えっと、なんだっけ、それ。借りてきた……猫? 合ってる?」
「合ってる……って、誰が!」
「あはは、お可愛いこと」
僕は顔が熱くなるのを感じた。
鈴太の部屋はというと、奏矢の部屋よりも汚い……。
学校のプリントや小テストがそのまま床に放ってあったり、いつのどちらの物かわからない靴下が色とりどりに落っこちていたり、逆さまにページを保持している漫画、その他。
おいおい……小学校の教科書が何でまだ積み重なっているんだ。
「掃除しろよ!」
「大丈夫、暮らせるから」
「そういう問題じゃないだろ……まったく」
ようやく、ちょっとだけ調子が戻った僕は、算数の教科書を拾う。
パラ見すると、見覚えのあるものが出てきた。
「これ……僕の字だよな」
算数は九九のページ、このあたりから鈴太に勉強を教え始めたんだった。
そこにはいわゆる落書きが書かれているのだが、「ありがとう」「どういたしまして」のつたないひらがなが並んでいる。
「懐かしいだろ?」
「まあ、うん」
僕の字の方が「どういたしまして」。
鈴太の字の方が「ありがとう」。
どんな流れでそんな文字の応酬になったのかは覚えていないけど、妙な安心感があった。
あの頃はまだ、僕の家にお父さんがいた。
どんな顔でどんな話をしていたっけ。
「おーい? もしもーし?」
視界にでっかく素早い残像が現れて、僕ははっとした。
「やめろ」
鈴太の掌を押しのけて、にやにやしてるそいつの足元に学校カバンをどさりと置いてやる。大袈裟に痛がっているのが小気味いい。
あんな罰せられるべき大人に僕の思考を奪われる時間が勿体ない。
そんなことよりも僕たちは、大きく、強く、まっすぐに育つために時間を使うべきだ。そう、笹川鈴太も。
「まさか、ほかにもテスト範囲知らんなんて教科ないよな」
「さすがだな、探偵さん。小説家にでもなったらどうだい? あとは日本史と家庭科」
「馬鹿野郎」
はたしてこの場合、鈴太はあの男の犠牲者なのか?
それとも、あの男に救われた者なのか?
僕らは隣にいるようで、対岸にいる。
でも僕は、人生の途中で仮初の父親的存在を得た笹川鈴太を羨ましいとは思わない。
対岸は対岸だ。別の国みたいなもので、こんな感じのアパートのように同じ建物の中にいるけど、仕切りをされた別の家みたいなもの。そうだ、まさに別の家庭問題だ。
ちらちら目に入って来るあの男がこの家族に買い与えた物が、どうしても僕の苛立ちを刺激してくる。
思考が堂々巡りする。
もう考えるのを止めろ!
あの男はもう僕達の家庭には帰ってこない!
頭の中の叫びが大きすぎて、自分の耳から漏れ出すんじゃないか。と思った時だった。
「……響也、急に呼んだの、迷惑だったか?」
「え、どうした」
僕が顔を上げると、鈴太は教科書も見ずにこちらを覗きこんでいた。
「そんなことないけ、ど、ち、近いなお前……」
仰け反って避けようとするが、肩が触れて、シャープペンを握る手首に鈴太の手が熱くて、目を見開いているうちに、今度は僕の頬につんつんした硬質な髪の毛が。
「な、に?」
そうこうしているうちに、柔らかな頬と頬が合わさって、どちらの体温とも知れない感触が僕の神経を支配した。脳処理がフリーズしたように動けないでいると、頬に触れたものがすりっと滑って、次に押し付けられたのは、たぶん冷たい鼻先。
数秒のことだったと思う。けれど、隣のたったひとつの存在感が、それを永遠に近い何かにさせる。
コイツは、僕に何をしようとしているんだ?
思考の隙間に挟まった疑問が、バクバクと心臓を叩く。
「りょ、りょう、た……?」
「…………――オレ、響也に嫌われたくない」
ぽそり。
ほんのひとつまみくらいの音量で、確かに聞こえた。
「りょ、」
「オレ飯作って来るわ! あー腹減ったなあ!」
ぱっと圧縮された時間が回り始めた。
マジで、なんなんだ。
なんだったんだ?
鈴太はどたばたと足音を鳴らしながら、自室を出て行ってしまった。
取り残された僕という疑問符の塊。
――って、僕もここでごはん食べることになってないか?
「お、おい! 鈴太ぁ!?」
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