第3篇


  □ ◇ □ ◆


 玄関のドアの閉まるカチャリ、という音が、心臓の音と馴染まなくなったのはいつからだろう。ローファーを脱ぐと、逃げ場がなくなる気がするんだ。

 僕は息を潜めたいのに、言わなければいけない言葉のために、短く息を吸った。


「ただいま、お母さん」

「おかえり、響也。ちょうどご飯ができたの、温かいうちに食べて」


 お母さんは顔も見せずにキッチンから叫んだ。


奏矢そうや! お兄ちゃん帰って来たから、いっしょにご飯食べな!」

 弟の名前をその場から階段に向かって放つ。それからあわただしく調理器具を流しにぶち込む音がした。

「じゃあ、あとよろしくね、お兄ちゃん・・・・・

「うん、大丈夫。いってらっしゃい」

 まるで僕と入れ違いに、お母さんは玄関でケンケンをしつつパンプスを履いた。そして僕はキッチンに入り、今日の献立を理解し、皿を出し、よそい、テーブルに運ぶ。毎日やっていることだ。

「いってきまーす」


 この言葉は誰にも言っていない。ただ放物線を描いて、カチャリ。ドアの閉まる音がするだけ。

 慌ただしい空気が霧散すると、ようやく食卓に平穏が戻る。空気と光が流動性を取り戻す。


「兄ちゃん、おかえり」

「ただいま。奏矢、ごはんたべよ」

「うん!」


 弟はとてもいい子だ。

 僕もいい子になろうと努めてはいるが、弟にはかなわない。次男の勘は、長兄の僕には備わらなかった。

 四人家族のテーブルで、僕たちはたった二人で食事を始める。

 話すことは他愛もないことだ。

 通学路でのこと。友達のこと。体育の授業で跳び箱の段数が最高記録になったこと。

 僕はそのひとつひとつに丁寧に相槌を打ち、内容を掘り出していく。

 弟はまぶしいくらいの笑顔でたくさん喋る。

 その度に僕は、その日のベッドで思うのだ。


「いつ、弟に話せるようになるかな……まだ小学五年生か……」


 もっと大きくなってから?

 いや、小学校を卒業する頃には――?

 中学に上がる頃には、もう自分で分かっているかもしれない……。

 そもそも弟には僕の憂慮を背負わせるべきではない。

 もやもやと考えうる限りのすべての案を洗い出すが、結局答えは出ないまま。僕はひとり、それを抱くように眠りについた。

 これがもし暖かくて大きくて……そうだな、鈴太のような存在なら――、


「――……何で、鈴太?」


 僕は寝返りをうって、昼間の鈴太の顔を振り払った。

 鈴太にお父さんのことを話したら元も子もないないだろうが。何を世迷いごとを。

 自分が救われることよりも、弟を守らなければ。

 僕のような憐れむべき男にさせないためにも――。

 さあっと頭が冴えてから、温い眠気が僕を襲った。

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