第2篇


  □ ◇ □ ◆


 小学四年生にも関わらず、僕――和村響也わむら きょうやは聡すぎた。

 いつも母親の顔色を伺いながらおっかなびっくり暮らしているからだろう。いつからか他人の考えていることを先読みすることが得意になっていた。


 残念なことに、自分の父親が鈴太の母親と不倫しているとあの日確信して以来、僕の生活が劇的に変わる……なんてことはなかった。


 それは、僕が幼く、何の力も持たない子供だったのも大きな理由の一つだ。


 あれから少しばかり成長したが、それでもまだまだ大人の力が必要で、学校という社会は絶大で、その小さな箱庭でしか生きられない。まるで、理科室の水槽の中で、人知れず口をパクパクさせている金魚のようなちっぽけな存在。それがこの僕だ。


「ねえーってば」

「なんだよ。答えは教えないぞ」


 中学二年に上がっても、鈴太は僕とつるんでいた。

 それに、放課後補習の小テスト常連だった。今日は化学の補習だ。


「金魚にエサあげたい」

「理科係の仕事だからダメ」

「ケチ」


 僕は理科科目担当の先生に託された、フレーク状の観賞魚用餌の蓋を閉めた。

 十三リットルの水槽に一匹しかいないくせに、僕が降らせた餌をパクパク喰らう金魚は城を持っている。といっても、アクアリウム用の飾りだ。掃除を頼まれた際持ち上げてえらく軽かったので驚いたが、それでもこの金魚にとっては大切な居場所らしい。アーチの下が心地良いようで、よくそこにいるのを見た。


「いいよなコイツは……僕も城が欲しい」


 ぽそりと口走ってから、しまったと振り返る。

 鈴太はにんまりと唇を歪めて、こちらを見ていた。

 どうせ、億万長者にどうやってなるか、だとか、よっ王様、などとくだらない茶々を入れるに違いない。あの頃の薄幸さはなりを潜めて、鈴太はクラスでも有数のお調子者へと成長していた。


「オレも響也の城に住みたい!」

「は?」


 そう来たか。


「そのこころは?」

「テスト勉強に付き合ってもらう」

「城に住む奴が、義務教育のテストくらいで躓いてるんじゃない」

「えーっ」

「そもそも城に住む人間というのは、領地や民を守るために強く、爵位のある奴でないと」

「あーじゃあ俺だめじゃん」


 自分でもやりすぎなくらい正論で返したのに、鈴太は素直にへこんでいた。ちょっと弱気になったり不安になると、鉛筆の端をかじるという変な癖があるのだが、今かじっている。ほねっこをに噛みつく犬みたいで面白い。


 鈴太が小テストに集中し始めたのを見届けてから、僕は準備室へ入った。化学実験室の黒板横の扉をくぐると、すぐ隣が準備室なのだ。

 遠くから運動部の掛け声や、吹奏楽部の練習の音が聞こえるのも同じだ。でも別世界に来たみたいに静謐で、薄暗い。フェルメールの絵画のように。

 僕は餌の容器を古い棚の奥にしまって、おもむろに部屋を見渡した。


 ここには僕しかいない、一時的な城だ。


 いや、隣から鈴太が走らせる鉛筆の音がするから、この世界には僕と鈴太しかいない。

 午後の日差しの中に舞い散る埃がきらきらしている。

 教室に備え付けられた時計が分針を震えさせ、時の流れを新鮮に感じる。

 家に帰ったら、こんなに息は吸いやすくない。

 もっと、もっと……泥の中にいるみたいに、僕を活かすはずの酸素は僕を試し、もがく気も失せるほど身体は自己の意志に反する。

 

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 

 世界は僕に生きる大地すら与えてくれない。

 二つの足裏は沈むのみだ。


「できたーーーーっ」


 鈴太の声ではっとした。僕はいつのまにか実験台の陰に隠れるようにして座り込んでいた。


「響也あー先生呼んできてー!」


 僕たちの城門が開く音がする。


「わかった。帰る支度して待ってて」

「おっけー!」


 何食わぬ声色で、隣の教室に返事を飛ばした。実験台に寄りかかるようにして立ち上がる。

 僕だけの永遠の城なんて、夢のまた夢だ。

 それは白昼夢のように、実際どこにも無いものなのだから。

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