切開室の燐寸凡夫

加賀倉 創作【FÅ¢(¡<i)TΛ§】

或る医者の内省

 部屋は薄暗い。

 それはいつものこと。辛うじてあからむのは、四角木枠よつかどきわくの方角。そこにめ込まれた硝子ガラスのプリズムと、この切開室せっかいしつ半端はんぱ隔絶かくぜつするのは、絹肌きぬはだとばり。真中を縦一閃たていっせんが切り裂くようにして、肉色にくいろ円環えんかんが、私のいる側──深淵しんえんに向かって、追及ついきゅう血眼ちまなこのぞかせる。決して目はれない。だから私の目は軽くきついて、しばしの焦点の闇黒あんこくを耐え忍ばねばならない。

 正直つ簡潔に換言かんげんするならば、わたしは、どす黒い心の臓に、視覚剥奪しかくはくだつの罰を受ける心地ここちがした。

 後には執刀手術のたぐいひかえている……



***



 先の手術でわたしが横たえた患者は、まだ末期状態ではない。

 ただし、肩甲骨けんこうこつとそこを取り巻く肉色に、石灰質せっかいしつ癒着ゆちゃくしていた。付け焼き刃の知恵をたずさえた患者いわくそのために、ズキリ、という耐え難い炎症のむしばみが、三六五日二四時間うごめくのだという。ただ、わたしが切開してしかるべき処置をほどこしてやったので、一時、それもむだろう。しかし預言よげんする、患者は、また、む。


 わたしは疑惑の黒鴉くろがらすだ。羽織はおるは白いきぬだが、ずいにある本質は、真黒だ。何せ先の執刀しっとうは、患者の本来の生存に不必要だったのだから。

 というのも、わたしは肩関節かたかんせつの違和感を訴える患者に、反芻動物はんすうどうぶつちちを勧めたのだ。「榮養があるから」と言って。乳、あれは成分表示の虚飾レッテルの上という限りでは、榮養満点えいようまんてんの燃料液のようである。がしかし、リンが過剰なのは看過かんかできぬ問題なのだ。それを朝夕あさゆう常飲じょういんしてみよ。長い、長い月日つきひて、それは宿痾しゅくあと成り変わる。明らかに白状すると、乳がもたらした燐酸りんさんカルシウムが、何を隠そう、わたしのき取った石灰質の正体なのだ。


 わたしは凡庸ぼんような医療である。悪魔崇拝すうはいの書物の楔形くさびがたが、この朱肉の脳皺のうじわという脳皺に、決して消えぬ活版印刷かっぱんいんさつ烙印らくいんよろしくきざまれている。

 仕方がない。それが仕事ビジネスというものだ。仮初笑顔かりそめえがおの定期便たる契約相手が、安定平穏へいおんの医院経営には欠かせない。そのために処置、処方するは、大手術の布石ふせきとなる小手術、次なる対症療法薬たいしょうりょうほうやくのための毒薬である。私は、根治こんちの文字を、ただの二文字を、悪魔崇拝の書物のどこにも、見たことはない。黒鉛グラファイト藁半紙セルロースで、写経しゃきょう同然に何度も書き写したのだから、見落とすはずもない。それに同朋どうほうの凡夫もそうに違いない。根治の二字熟語を含んだ書物を愛読した医師がいるならその者は、世にも稀有けうな神獣──聖人君子せいじんくんしというやつである。その者はわたしのような悪魔人間の敵であるから、その者に紹介状の渡らぬように努めねばならない。悪魔崇拝の書物にはそのようにも書いてあったことは記憶している。

 わたし──この燐寸マッチほどにちっぽけな骨組ほねぐみ凡夫ぼんぷの、常習じょうしゅうの罪はやしない。なぜならば相手は全て、無知であわれな素人である。御託ごたくつむぎで懐柔かいじゅうするにはもってこいの凡夫ぼんぷ以下の凡夫である。つまりは年中わらにもすがる想いの、物乞ものごい同然。それに私が日夜にちや、隠れみののようにまとうこの白衣が、絶対効力の免罪符めんざいふとして機能する。つまりは患者は、潔白けっぱくよそおうもずいまで黒い悪魔の存在に気づかず、潜在意識から丸きり、権威を盲信もうしんしているわけである。そうだ、悪魔崇拝の書物の第一章──〈〈人體じんたいの真理〉〉最終ペイジには、赤色骨髄せきしょくこつずい黄色骨髄おうしょくこつずいとにまつわる記述があるが、〈黒色骨髄こくしょくこつずい〉、という障壁的加筆しょうへきてきかひつるやもしれぬ。さすれば尚更なおさら、小腸──万物ばんぶつもとたる赤血せっけつ無核球むかくきゅう産生工房さんせいこうぼう──へ辿たどり着くのが、困難極まることだろう。


 ほんのわずかな罪悪感から来る脳内反芻のうないはんすうに、疲れてしまった。それは、どんな診察や切開よりも、わたしを疲弊ひへいさせる。わたしはそれを、悪魔に魂を売りきれない凡夫の、未来永劫みらいえいごう無期懲役刑むきちょうえきけいであると理解している。

 わたしは気晴らしのために、白衣ののうの内側へ、烟草たばこ——そういえばかつてはそれを『たばこ』と漢字表記したか——の一本を求める。もみくしゃの紙袋パッケイジから抜きん出た白筒しらづつ。そこに、どこからともなくともり出た、燐寸マッチで、火葬場かそうばの作業員よろしく事務的に着火ちゃっかする。灰になった筒の先が骨粗鬆症こつそしょうしょうを思わせる。気づけば、切開室が、濛々もうもうしらむ。鼠色ねずみいろ靄靄ヴェイルくわたしは、天界より逃げし雲間くもまのプロメテイウスである。もちろん、いかれる最高神ゼイウスは、不在である。

 おのれ神棚たなに上げて言うが──


 この世には、なんと莫迦ばかの多いこと。


   〈了〉

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