星の下、憧れの背中を追って

花見こころ

星を見る、君と

 走る、走る──。


 太陽が落ちて影が地球を覆った深夜零時。そんな時刻に息も絶え絶えになりながら、大人の腰ほどの高さの少年が町を走っているのはおかしい。

 つまるところ、これは家出だ。


 何故、どうして──。


 そんなの彼自身にも分からないし、説明した所で誰かに理解して貰える筈がない。

 そういう自分だけの、自分にも味方をしてくれないような負の感情が、積もって、溢れて、少年は逃げ出してしまったんだ。


 走る、走る──。


 無我夢中で、どこへ向かうのかなんて分からなくて、とにかくどこでも良いから逃げたくて。

 疲れきった彼は結局、公園のベンチの下に隠れた。



 ──虫も生きられなくなる冬の夜。彼は長袖一枚の暖かさにすがり付く様に身を丸める。


 そうして影に身を潜めた彼は誰にも見つけられない。警察だって、家族だって彼を見つけられない。普通に生きてても影の様な彼は、こんなにも簡単に独りになれてしまうのだ。


 ──いつだってそうだった。


 目を向けて貰う為に、振り向いて貰う為に、彼にとっては分かりやす過ぎる態度を取った所で、誰もそれに気づいてはくれない。


 今日だって、彼は誰にも認識されず一人になる。筈だったのに──


「どうしたの?こんな所に隠れて」


 ──その日だけは、彼の心に声が届いた。


「こんな所にいると、お母さんが心配しちゃうよ」


 自分と同い年の女子が、しゃがんで少年に優しく語り掛けている。


 ──初めて会うわけではない。


 でも、それほど言葉を交わした覚えはない。正直名前だって覚えていない。

 訳が分からなかった。どうして見つけられた?そもそもどうして──


「あなたこそ、こんな時間に一人だと親が──」


 そう言いかけて、彼は言葉を止めた。


 彼女の後ろで隠れる様にこちらを見つめる大人──恐らく彼女の母親にあたる人物がここに居ることが、彼の言おうとする事が的外れである事を証明していたからだ。


 ──だとしても。


「どうして、僕を──」


「ねえ、どうして泣いているの?」


 少年の言葉を遮る様に、質問を被せる彼女。


「……え?」


 何を言って──と彼は口にしかけて、気づいた。


 ──自分の声が、震えていることに。


 冬の凍える肌に、染み渡っていくこの暖かい感触は、涙以外の何物でもない。

 ならばこの震える声も、涙声以外の何物でもない。


 少年は視界を遮るそれを強引に服の袖で拭いながら、優しく少年を見下ろす彼女の目を見上げて言った。


「どうして僕に、声をかけようと思ったんですか」


 真夜中、公園の下で涙を流す誰かがいたとして、声をかけようと思うだろうか。

 怖いとは思わなかったのだろうか。親に頼もうとは思わなかったのだろうか。


 ──そういった意図の質問だったのだが。


 彼女は質問の答えが、というより──質問そのものが分からないといった様子で首を傾げた。


「困っている人がいたら、声をかけるのが当然じゃない?」


 ──嗚呼。


 そうだった。この人は、少年とは根本的な部分が違うのだ。


 何もかも逃げて影に籠る彼と違って、彼女はこんな夜すらも似合わない存在なのだから。


「ねえ、どうしてあなたはこんな所で、一人になっているの」


 嫌味はなく、純粋にそんな質問をする彼女に、少年は教えるように首を横に振った。


「どこにいても僕は一人だから、僕は誰もいない場所にいるんです」


「?──人がいる所に行けば、一人じゃなくなるんじゃないの?」


「ッ──人が沢山いる場所にいたって、誰も僕を認識しなかったら、一人と変わらないんですよっ」


 なんの悪意もなく神経を逆撫でする彼女の言葉に、少年は遂に怒気を放ってしまう。

 だが彼女はそんな彼の様子をまるで気にも止めず、純真にも偽りにも見える笑みを浮かべて言う。


「そっか──じゃあ、一緒だね。私も、独りだから」


 ──彼女の優しい嘘に、それでも心を楽にしてしまう自分が嫌だった。

 他の誰でもなく、彼女がそれを言う事は、嘘であると分かりきっていたのに──。


 彼女は手を差し出す。


「だから、一緒に帰ろうよ。それで、独りなら私と──」


 その時の彼女の言葉に、優しさに、どうしようもなく依存してしまったから。

 彼女の呪いに、どうしようもなく救われてしまったから。


 少年は、今でも──。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




 香住透は劣等生だ。


 誰かにそう言われた訳ではない。そんな事を面と向かって言われる筈がない。だが香住透という男子高校生を表すのに、これほど適した言葉はないだろう。


 何をするにしろ他人に劣り続けてきた。


 勉強も運動も遊びも真面目に取り組めた試しがない。何もしてこなかった負の因果が今ある全てだ。




「いやいや、東京橋の上で人工灯に照らされながらのプロポーズの方が絶対いいでしょ!」


「いやいやいや、山奥星空の下の告白の方が尊いに決まってるじゃん!」


「いやいやいやいや!」


 教室の中央で、なにやら女子達が議論──と言うには大袈裟な内容を語り合っている。

 その内、なにやら誰かと星空を眺めたいらしいロマンチックなガールが、彼の小学校からの知り合い──星野優華だ。


「山奥なんて危ないでしょ。そんな場所にいたいけ女の子連れてく男なんて絶対ろくでもないって!地雷だって!」


「橋の上で告白も絶対狙いすぎだって!そもそも東京の夜景見ながら何話すの?人工灯綺麗だな~って話すの?ロマンがないじゃん!」


 白熱していく議論を、香住透は自席の机に頬杖を突きながら横目に眺める。


 ──星野優華は彼の幼馴染みでありながら、彼とは正反対の人間だ。


 文武両道。喜色満面。器用万能で世渡り上手。誰よりも優しく、誰よりも生きるのが上手い、存在するだけで自分も周りも明るくする福の神の様な女子高生。


 同じ環境で育って、どうしてここまで差が開いてしまうものかと思う。


 浅学非才な香住透は、存在するだけで暗い空気が漂う疫病神の様な男子高校生だ。

 何をするにしろ仏教面で、真面目なのかと思えば単に楽しむ気がないだけで、場に馴染む事も場より秀でる事も出来ない。


 才能もなければ努力をする気力もない、本当にどうしようもない人間だ。


「……確かに星見も良いかもね、ちょっと感情的になりすぎたかも」


「うん、私も……東京の夜景ってきれいだもんね!ロマンチック!」


「そう!ロマンチックッ!」


 熱が冷めたのだろうか。ひとしきりの議論を終えて笑い合う様子の女子二人を、香住透は妬ましげに眺める。

 


 人の価値には差があるのだと認めることが出来たのは、彼に物心というものが生まれてそうかからなかった頃だ。


 最初の内はきっと、その背中に追い付こうと必死になっていた。だけど取り返しのつかないくらいに差が開いて、自分と彼女は根本から違うのだと自覚ができてしまってから、彼は彼女に追いつくことを諦めた。


 せめて違うなりに自分らしさを尊重できる精神力があれば良かったのかもしれないが──彼はどうしようもなく、生きるのが下手くそなのだ。


「優華は凄いね。優しくて明るくて、みんなを笑顔にできる。でも、僕は……」


 心臓が鳴っている。

 どうしてこんなに苦しいんだろう。


 人の良し悪しなんて比べても仕方がない。そんな言葉さえ自分に唱えれば、それだけで完結するのが『劣等感』の筈なのだ。


 無駄に悩んで布団に潜って、意識を落とし朝になればいつの間にか忘れている様な、そんなしょうもない感情の筈なのに──。


 せめてこの整理しきれない感情を、余すことなく吐き出させたなら良かった。

 或いはこの感情が溢れてしまう前に、何かと理由を付けて彼女を遠ざけられれば良かった。


 ──十年前に彼女が掛けた呪いが、それを許さない。


 優しい彼女が掛けた呪いが、中途半端な彼をどこまでも絡み付ける。


 ならばこの感情は誰に向ける訳にもいかず、彼だけの中で向き合い続けなければならないのだ。



 穏やかで響く声が彼の鼓膜を揺らす。

 整えられた髪や肌が眩しく照らされていた。

 肩まで掛かる髪が似合う目鼻立ちを持ち、自分の自尊心を疑う暇もなく、晴れ渡る様な笑みを常に浮かべ、周りも笑顔に出来る様な彼女が、


 羨ましかった。

 妬ましかった。

 憎らしかった。


 彼女の性別を手に入れて、

 彼女の声を手に入れて、

 彼女の肉体の全てを手に入れて。


 彼女の努力や苦しみ、喜びや怒り、悲しみや痛みから生まれたその全ての感情を理解できたのならば。


 知りたい──。

 知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい知りたい。

 あなたの全てが知りたい。あなたの全てを理解したい。あなたの全てを手に入れたい。



 星野優華の全てが、透は羨ましかった。




○○○○○○○○○○○○○○○○○○○○




 身も心も削る様な冷気が湧いてきた十一月上旬。


 制服着用中の学校帰り、懐かしい公園のブランコに身を揺らしているのは、透と優華の二人だ。

 ブランコは二つだけなので、幼児用の遊具を高校生二人が占領している絵面になるかもしれない。


「はあ~さむさむ……透はテストどうだった?」


 ブランコと同時に身も震わせながら、優華は横目に透を見つめ問いかける。その視線と問いに若干気圧される物を感じながら、


「……親を、泣かせました」


「ああ……まあそんなもんだよ~、私の親も泣きはしなかったけど、だいぶ怒ってたし……」


 躊躇いがちに紡いだ透の言葉に、優華は苦汁を飲ませてしまった様な表情をしながらも、即座に空気を入れ替える為にフォローの体勢にジョブチェンジ。


「でもでも、あれはテストが悪くない?みんなちょっと泣きかけてたって!思春期高校生泣かせにきてるって!」


 表情豊かに必死に弁明を繰り返す優華の様子に、感傷で固まりかけてた透の表情は綻んでいく。


 人生の分岐点に立たされた時、失敗も笑いに昇華して前を向ける人間と、立ち上がれず後ろを向いてしまう人がいる。


 きっと優華は前者なんだろうなと、本能的に分かってしまう。


 二人のブランコがぎこぎこと音を鳴らす。


「みんな頑張ってたよ。後悔なんて必要ない──でも、もう二学期も終わりか~。あと一年半で卒業だよ?どう思う?」


「……辛い、ですかね」


「ね~」


 突如鋭さを増す冷風。それに再び身を震わす優華。


「うぅ~さむさむ」


 自身の首に巻いたマフラーを縋りつく様に両手で握り込む優華。


 ちなみに優華の巻いているマフラーの色は赤、透は白である。彼はそこに白い手袋まで着けているわけだから寒さはあまり感じないが、優華の手は瀕死の様に震えている。


 優華は横目に透の掌を見て、目を細める。


「手袋ズルい。一枚貸して」


 妬む様な目つきで言う優華。一枚、という言葉の通りケチ臭く片手の手袋だけ外して渡そうとすると「まってまって!」と慌てた様子で制止される。


「冗談だよ!流石にこの真冬に手袋持ってきてないとか自己責任だし!というかここで君の手袋奪ったら私悪者過ぎるし!」

 

「でも、寒いんじゃ……」


「そりゃめちゃくちゃ寒いよ冬だもん!でも家帰ったらホットヒーターとにらめっこするしハンドクリーム塗りたくってゴッドハンドするから大丈夫!お願いだから自分大切にして!自分の事もっと可愛がってっ!」


 押し返される様に手袋は再び透の手にはめられてしまう。


 ──また空気の読めない言動をしてしまったのだろうか。


 本当に自分の程度の低さに嫌気がさす。

 どうしてもっと面白くなれないのだろう。どうしてみんなと同じ様に、同じ事を楽しめないのだろう。

 

 ブランコの軋む音と冬の寒さが、そんな感情を際立たせてしまう。


 ──ああ、そうだ。


 十年前のあの日にも、この孤独を突きつける寒さに襲われたのだ。

 そこで、この人に──


「優華さん……十年前の事、覚えてますか」


「うん、覚えてるよ。警察来て大騒ぎだったもん。まあでも、一番最初に見つけたのは私なんだけどね!」


「……どうして僕を、探そうとしてくれたんですか?」


 あの日の事は後に詳しく親から聞いていた。


 夜まで帰って来ない透を心配して母が警察に捜索願いを出したこと。それでも見つからず焦った母が近所の住人にも手伝いをお願いしたこと。

 深夜からの捜索を受けてくれる人なんてほとんどいなくて、その中で一家だけ手伝いを受け入れてくれたこと。


 母親は優華の両親に何度も礼を言って、今では家族ぐるみで一緒に旅行に行ったりするくらい仲が良くなったが、それでも理由は教えてくれない。


 優華は「はあ~」と、自身の両手に息を吐きながら答える。


「だから、それに関しては何度も言ってるじゃん?困ってる人が居るって知ってて、助けず見過ごすなんて人間失格じゃん!地獄に落ちちゃうじゃん!」


「そういう問題じゃ……そもそもなんで僕のいる場所が分かったんですか」


 どうして透があの公園にいた事が分かったのか。警察すら迷ったのに、迷わず彼を見つけられたのか。


「だって昔から透くん、あの公園にいるの知ってたもん」


「……知ってた?」


「うん。なんでみんなが使う公園じゃなくて、あんなに寂しい公園にいるんだろっていつも思ってたけど……その印象が強くて覚えてた。だから、知ってる私が助けに行かず誰が行くんだ~ってなったわけよ。どう、カッコいいでしょ」


「……いつも、見てたんですか?」


「うん。覚えてない?いつも隣でブランコ乗ってた子いたでしょ?髪型変えちゃったから忘れられたのかな~」


 ボブカットの髪の先端を触る優華。その横で透は額を指で押して回想する。


 ──確かに、見たことがある。


 いつも透よりも先にブランコに乗っていた女の子。公園の寂しさを掻き消す明るさを見て、彼はあの時も、夜が似合わないだろうなと思ったのだ。


 長髪だったから気づかなかったなんて言い訳にしかならない。あれほど印象的な子だったのに、どうして忘れてしまっていたのだろう。


「それにしてもあの時の透くん、身体ちっちゃく丸めて涙目で上目遣い……捨て犬みたいで可愛かったな~」


「そんなに詳しく状況説明しなくて大丈夫です、恥ずかしいです」


「でもでも、実際あれからめっちゃ透くん私と関わってくれるようになって、本当に子犬みたいで可愛かったんだよ!でも──最近はあんまり、ああいう感じで関わってくれなくなった気がする……」


 名残惜しむ様に眉を寄せる優華。透はその表情から逃げる様に、目を逸らした。


「ねえ……最近の透くんどうしたの?辛そう……」


「……辛いことなんて、みんな多かれ少なかれあるはずです。ちっちゃいことまで気にしてたらキリがないです」


 少なくとも自分が抱えるこんな感情なんて、本当に苦しんでいる人からしたら、あまりにも我が儘で、ちっぽけで──


「やっぱり……変わっちゃった気がする」


「……それは」


 当然の事だ、としか言えないだろう。


 透と優華は、初めからかけ離れた存在で、対等になれると思い上がるのが間違いで、大人になってきてようやくその事に気づけただけなのだ。


 だけどそれを口にしてしまえば、本当に彼女を突き放してしまう様な気がして、それが怖くて──透は、押し黙った。


 押し黙る透の様子に、優華は俯く。


「……昔だったら、こうじゃなかった」


「……うん?」


「昔だったら、こういうこと言われたらもっと言い返してたよっ!それは違うって、僕はこう思ってるんだって!なのに……」


 その時、透は優華の表情を見た。見てしまった。


 ──悲しみ、焦燥感にも似た表情。


 それを見てしまった時、彼はどうしようもない感情を奥歯で噛み締めた。


「優華さん」


 立ち上がり、歩く透。その言動に「帰っちゃうの?」と問いかける優華。

 数歩進んで、振り返り、しっかりと彼女の目を見る。


 ──ああ、やっぱり。


 彼女にこんな表情をさせるなんて、らしくない。


「今度の冬休みに、星を見に行きませんか」


 だからこそ、透は覚悟を決めなければいけなかったのだ。


 ──ありのままを、全て受け入れる覚悟を。




☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆




「綺麗……」



 鬱蒼とした山奥、木々の開けた場所に二人は立っている。

 夜空の星々を、目を輝かせながら眺める優華と、物憂げに眺める透。


「ほらね、やっぱり山場は山奥なんだよ桜ちゃん。人の明るさよりも自然、空気!星っ!」


「……優華さん?」


「あぅ……凄いよね!綺麗だよね、うん……」


 鼓舞した様子の声に透が反応すると、気まずそうに目を逸らす優華。ここに来てから優華の様子がおかしいが、それも当然なのかもしれない。


 深夜零時の田舎、村すら近くにない山奥。

 そんな場所に女子と二人きりになっているのだ。警戒される事も、不安にさせる事も分かりきっていた。

 それでも彼がこの場所を選んだのだって、訳がある。



 田舎の山奥は、建物の明かりすら射し込まない。この場所を照らしてくれるのは、上空に浮かぶ星々の光だけだ。

 上を向けば、目を凝らす必要もなくそれは見えてくる。数えきれない光が黒で覆っていた空を彩っている。


 故郷の近くだから、というのも理由の一つではある。でも一番はやはり、この景色を優華と二人で眺めたかったからだ。

 

「覚えていますか、優華さん。僕が逃げ出したあの日、貴方と二人で初めて眺めた景色も、この夜空だった」


「──うん」


「静かな公園で、二人でブランコに乗って空を眺めて、僕は初めて星が綺麗だと思えたんだ」


 ──ずっと、宙に浮いた気分だった。


 苦しさも、悲しさも忘れたくて。焦りとか恐怖に浮かされて、透が足元ばかりを気にしていたあの時。

 初めて、宙に浮いててもいいんだと、思わせてくれた光景だ。


「悲しいことも、辛いことも、忘れなくていいんだって。そう思うと、すごく楽になれたんだ。──それもこれも、星と、優華さんのおかげなんだ」


 地に足が着いているかばかりを気にしていた彼に、優華が上を向く勇気を与えてくれた。

 暗がりから抜け出す事ばかりを考えていた彼に、星が暗がりの中で輝く美しさを教えてくれた。


 輝く一人が、輝く星々が、透に希望を与えたのだ。


「それから僕は毎晩、たくさん星が見える場所を探した。星がなるべく近くに──あるように見える場所を」


 ──公園のブランコの上で見れる景色に満足していれば、それで良かったんだ。


 強欲な彼は、空に手を伸ばし続ければ星に手を届かせられる気がして──分不相応にも、その輝きに憧れてしまった。


 家出の件であれほど怒られたにも関わらず、親が寝た深夜零時に、秘密で家を抜け出し星を探した毎日。

 街灯の少ない場所に。警察に見つかりにくい場所に。


 今思えば馬鹿らしいとしか言えないが、透は毎日、夜空に手を伸ばし続けていたんだ。



 透は笑った。自嘲気味に。本当にどうでもいい事を、どうでもいい事と受け入れるために。


「普通に考えれば分かる事なんだけどさ──星に、手が届く筈がないんだよ」


 当たり前の事だ。小学生にだって分かる事だ。


 何百光年と離れた先にある星が、ただ見えるというだけで、光が届くというだけで、手が届くわけがない。

 そんな当たり前の事に、彼は最も星が近く感じられるこの山奥で手を伸ばして、ようやく気づけたんだ。


「結局、僕はずっと……夢と理想を履き違えてたんだ」


 爪先を立てるだけじゃ届かない世界がある。そんなの子供にだって気づける筈の事だった。


 希望や憧れの対象すらも、身の程を弁えなければいけない。そんなの当然の事なのに。



 ──どうしてこんなにも、悲しいのだろう。


 現実を知って、憧れが妬ましさに変わって。

 その劣等感すらも噛み砕いて、飲み干して、身体を壊して、それすらも耐えられる様になるのが大人の筈なのに。


 それを悲しいと思うのは、大人になりたくないからだろうか。


 もう、純粋に憧れを抱けたあの頃には戻れないのに。それが分かっていても尚、彼は子供である事を望むのだろうか。

 消した筈の憧れはいつの間にか、過去の自分自身に向かっていたのだろうか。

 

 優華は悲観に暮れる透の顔を横目に見ながら、首を軽く傾げた。


「──そうかな」


 彼女は上空──星々の方向へ手を伸ばしながら、愛おしむ様に目を細め、包み込む様な声で言う。


「でも、届きそうだよ」


 透は首を横に振り、同じく夜空を眺める。

 

 ──幾つもの光が密集し輝く姿は、確かに手が届かせられそうに思えてしまって。期待してしまって。

 だけど分かっているんだ──そう思わせてくれる存在が、どれだけ自分とかけ離れた存在なのかを。


「届きそうに、見えるだけ。僕なんかが、届く世界じゃない」


 希望を持つことも、誰かに希望を与えることも出来ない。そんな掌で、憧れに届くわけが──


「じゃあ、一緒に届かせようよ」


 目を見開き、透は再び彼女を見た。


 ──夜空へ首を向ける彼女の瞳は大人の様なのに、あの頃の彼の輝きを持っていた。

 彼が逃げ続けた答えを、既に得ている彼女の瞳──それを見るたびに込み上げてくる感情を、透は必死に抑えた。


 本心ではとっくに気づいていた。

 透は全然、大人になんかなれていない。



「優華さん」


 振り向く彼女。煌めく瞳から、思わず目を逸らしそうになる。

 星が遠くへ行く筈がない。自分が遠ざかってしまっただけなのだ。

 

 光を見つめれば、光も自分を見てくれる。


 ──憧れが、背中を照らしてくれる。


「僕は、あなたの事が……」


 誰よりも綺麗な髪が、

 誰よりも綺麗な肌が、

 誰よりも綺麗な声が、

 誰よりも強く在り続けられるその姿が──


 自分が欲しいと願う何もかもを持つ彼女が羨ましくて、自分がどうしようもなく惨めで。

 その感情から目を逸らす為に、彼女に理不尽な感情を向け続けてきた。

 その度に脈打つ心臓の鼓動が、彼に逃げるなと言っていたんだ。


 ──本当は、透は分かっていたのだ。


 苦しさの正体が、何なのかも。

 それでも関わり続けてしまうのは何故なのかも。


 腫れ上がる嫉妬心も劣等感も、理不尽に憎み遠ざけたくなる感情も、高鳴る心臓の痛みも、その全ての感情が──。



「好きなんだ」



 言ってやった。

 伝えたかった全ての想いを、一言に込めて。


 胸が千切れそうなほど重くのし掛かっていた感情は、一度吐き出されれば驚くほど軽くなる。

 喉を詰まらせていた言葉も、形にすれば何が引っ掛かっていたのかすら分からない。


 俯くと、拠り所を失った様に震える足と、心臓の鼓動に意識が向いた。

 落ち着かせる為に胸に手を添え、小刻みに息を吐く。


 ──これでいいのだ。


 彼女がどんな返答をするのかは分からない。だが、きっと透が望む答えは返って来ない。それほど世界は彼に都合良く出来てはいない。


 中途半端な優しさなんて要らない。いっそのこと彼女を恨めるくらいに、どうしようもない言葉と態度で突き放してくれた方が嬉しい。


 そうすれば、透に掛けられた十年間の呪いも解けて、彼女が当たり前に歩む幸せの道を彼は邪魔をせずに済む。


 そうして透は誰かと比べる事なく、彼女は彼に濁らされる事なく、お互いに幸せに──。


 ──本当にそうなのだろうか。


 彼女がいなくなれば、透は幸せになれるのだろうか。

 誰に対して劣等感を抱く事もなく、自分の現状に満足できる道を歩めるのだろうか。


 ──きっと違う。


 彼女が居ようが居まいが、きっと透はまた誰かと比較して、苦しみ、悩む。

 それでも彼女がいたから、彼は耐え続けられたんだ。


 ──彼女がいなくなったら。


 鼓動が響く。息が荒れる。足先は依然として震え続けている。

 軽率だったと、今更になって自分の発言に彼は後悔する。


 分かってる。これは壊すのではなく再形成だ。でもそれは成功する確率すら分からない。

 失敗したら何もかもが崩れる。十年間、彼女が透に掛け続けてくれた呪いすらも──。


 ──嫌われたくない。




「私もだよ」



 反射的に顔が上がる。彼女の瞳と目が合った。


 ──光を反射する瞳は僅かに潤んで、その中に彼を映していた。

 目尻を垂らして、口角を上げて、自分の魅力と他者の求めるものを完璧に理解したような笑み。


 ──ズルいと思った。


 そんな表情が、透に出来る筈がない。


「あっ……」


 胸中から込み上げ、鼻先まで擽る熱が、遂に耐えきれず瞳から解放される。

 そうして、本当に軽くなった胸中から込み上げてくる感情は羞恥心だった。


 脆く頑固な鎧が剥がされ、自分の全てが晒される様な感覚。

 きっと見るに堪えない顔をしている筈だ。熱を帯びた鼻先は赤く染まり、表情も歪んでいるだろう。


 それでも彼女が優しい笑みを浮かべ続けてくれるのが嬉しくて──彼の瞳は更に熱を帯びる。


「あぁっ……」


 いつの日か出さなくなっていた感情は、いつの日かと同じ形で吐き出される。


 吐き出す事で嫌われるのが怖かった。

 何もかもを諦めて、堪える事を当たり前にして、吐き出し方すら忘れてしまえたら良かったのに。

 ──彼女が十年間、それを許さなかった。


 湿った頬を袖で拭う。無駄に頑固な彼は、このまま惨めな顔を隠し続けたいと思った。


 だけど、これだけは言い続けたかった。



「好きだ」


 一言。


「好きだ、好きだ、好きだ」


 足りず、何度も、何度も。

 変わらず浮かべ続けてくれる笑みが、透を安心させる。


 ──十年前の夜、優華は同じ笑みを浮かべて、透を『友達』と呼んだ。


 彼女が呪いを掛けた日、彼の痛みは始まっていた。透は恋をしてしまったのだ。



「好き、なんだ……!」


 ──上空に浮かぶ星々に、手が届いたのなら。

 憧れと現実は違う。でも現実という言葉はどこまでも都合がよくて、憧れを語ることがどれだけ勇気のいることなのかを思い知った。


 願う事の何が悪いというのだ。


 空を仰ぎ、星に手を届かせようと爪先を立てる人を誰が否定できるというのだ。


 どれだけ遠い世界でも、手を伸ばし続けたい。

 憧れに届きたい。

 憧れを憧れと、胸を張って言える自分で在りたい。



 彼女が優しく透を包み込む。寄り掛かり涙も止めず胸に顔を埋める彼の頭を、彼女は優しく撫でる。頭に触れる掌の感触が暖かくて、透も震える両手を彼女の背中に回しながら、思う。


 ──例え手が届かなくてもいい。

 進む彼女の背中を、永遠に追いかけ続ける結末でも構わない。


 掌の暖かさが痛みを生むのなら。

 その痛みすらも愛せるように。



 ──この苦しみが恋ならば。


 僕を一生苦しませて欲しい、と透は願った。

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