狂気猫

秋犬

あなたはずっと、わたしのもの

 カン カン カン


 透明な音がフローリングの上に零れて、それからころころと消えていった。青色のビー玉は戸棚の隙間に入ってしまい、二度と取れない。


 あーあ、やっちゃったと彼女は伸びをして、薄いカーテンの向こうの世界を眺める。月の光も霞むような大都会の灯りが彼女の家に優しく差し込む。午後十時。人間の世界ではそう呼ばれている時間が、彼女は好きだった。


 この世界のことを彼女はよく知らない。気がついたらこの部屋にいて、外の世界を眺めていた。太陽が昇ると空は青く輝き、夜になると街灯とビルが明るくざわめく。少しだけ青くなった部屋の中で、彼女は愛しい人の帰りを待つ。


「ただいま」


 温かな声と共に帰ってきたのは、ここで暮らしている人間だった。彼女は人間が好きだった。何故なら人間はおいしいものをくれて、人間がいるときはいつでも遊んでくれるからだった。しかし、人間は空が青い時はあまり部屋にいない。空が暗くなって、街の灯りがより一層賑わう頃、やっと人間は部屋に帰ってくる。


 彼女は人間がくれたおいしいものを食べて、人間と遊んだ。人間が来ると部屋は明るくなり、真昼のような眩しさを覚える。ころころと転がるような目で、人間は愛おし気に彼女を眺める。


「大好きだよ」


 人間は彼女を抱き上げ、そう鳴いた。これは彼女に対する親密な態度の表れである。彼女は人間に抱かれたままになった。これを光栄なことであると、彼女は人間を思いやった。夜が来て、朝が来て、人間はいつでも彼女を優しく抱いた。人間の手で弄ばれながら、彼女は人間を愛するようになった。


 ある日、暗くなっても人間が帰ってこなかった。朝が来て夜が来て、それでも人間は帰ってこない。彼女は人間がやってくる扉の前で、人間を待ち続けた。人間はいつも帰ってくるとき「ただいま」と鳴いていた。だから彼女も「ただいま」と鳴いてみようと練習を繰り返した。それから、「大好きだよ」も伝えようと思った。彼女は扉の前で何遍も何遍も鳴いた。それでも人間は帰ってこなかった。


 もう何日も人間は帰ってこなかった。彼女はおいしいものを探した。人間がおいしいものをしまってある場所は知っていた。しかし、勝手に食べると人間は悲しそうな顔をしたので彼女は人間の許可を得ておいしいものを食べていた。ところが今度ばかりはそう言ってもいられない。彼女は人間が帰ってきたら悲しむだろうと思い、棚にしまってあるおいしいものを少しずつ食べていった。それでも人間は「ただいま」と鳴いてくれるだろうか。彼女は不安になっていった。


 一週間ほどして、扉が開いた。彼女は精一杯「ただいま」と鳴いた。


「やだお母さん、お兄ちゃん猫飼ってたよ!」

「あら、あの子何も言わなかったから」


 知らない人間が二匹来た。彼女は一生懸命「大好きだよ」と鳴いた。


「あーあー、勝手に餌食べちゃって……仕方ないか」

「どうするこの子。里親とか探さないとじゃん」

「全く、この忙しい時に猫なんて残していって」

「それより年金手帳と、あと何だっけ?」


 人間たちは何事かを言いながら、部屋の中を荒らし始めた。彼女は人間の持ち物を勝手に持って行くなと警告した。


「ちょっと、この猫先に何とかしよう!」

「ケージ買ってこなきゃ。とんでもない出費ね」


 それから彼女は、人間たちの手によって狭い檻に入れられた。おいしいものはもらえたが、あまり食べる気はしなかった。彼女は人間に会いたかった。人間のいない世界にはいたくなかった。


 ――ねえ、あの人はどこなの!?


 彼女は人間たちに鳴いてみせた。しかし人間たちはお構いなく、彼女の与り知らぬことを延々と繰り返している。人間が大事にしていた紙や機械をいじり、そして彼女の入った檻を持ち上げて部屋を出た。彼女がこの部屋に戻ることは二度となかった。


***


 彼女は来る日も来る日も人間を待ち続けた。あの温かい手で撫でてほしかった。柔らかい声で「大好きだよ」と鳴いてほしかった。檻ごと部屋から出された彼女は、いろんなところを転々とした。


 最初はいろんな人間がいる家。小さい人間が彼女を触ってきて不快だった。「うちはペット禁止だから」という言葉を散々聞いた。歓迎されていないことは彼女でもわかった。


 次は年を取った人間の家。年を取った人間は彼女を可愛がったが、おいしいものはくれなかった。年を取った人間の出すまずい飯を食い続け、彼女は心まで貧しくなった気がした。この人間もそのうちいなくなり、また彼女は檻に入れられて違う場所へ移された。


 それからいろんな場所を渡り歩き、最終的に彼女がやってきたのは仲間がたくさんいるところだった。そこは、たくさんの人間に触られるためにあるところのようだった。


「かわいいでちゅねー!」

「きゃーこっち向いた-!」

「よく慣れてますね」


 毎日が騒々しかった。彼女は人間たちに撫でられながら、本当はあの人間に撫でてほしいのにと思い続けた。


 ――ただいま。


 彼女はそう鳴いた。そう鳴けば、あの人間が迎えに来るような気がした。それでも人間は帰ってこない。望みを失った彼女は人間に向かって鳴くのを止めた。


「この子愛想悪いね」

「それも含めて御猫様だから!」


 人間たちは好き勝手鳴いていた。彼女はただ大好きな人間の思い出に浸っていたかった。それでも乱暴な人間が彼女に狼藉を働いた。無理矢理身体を撫でられたので、彼女は悲鳴をあげて抵抗した。


「いてっ! こいつ噛みやがった!」


 彼女は身を守るために必死で戦った。この人間たちが、全部いなくなればいい。ここにいる仲間も、自分を置いていなくなった人間たちも、みんなみんな、いなくなればいい。


「やめろ! 暴れるな!」


 彼女は何匹かの人間に取り押さえられ、檻に入れられた。


 ――もう何も信じない。


 ただあの人間に会いたかっただけなのに。「大好きだよ」と伝えたいだけなのに。どうして人間は身勝手に彼女を扱うのか、理解できなかった。触ろうとする人間の手は全て払った。人間は檻越しに彼女においしいものをくれるだけになった。彼女は全く幸せではなかった。


***


 それから彼女は、ずっと檻の中で過ごすことになった。悲しくて、おいしいものも食べられなくなった。動けなくなってみすぼらしくなった彼女を人間たちは別の場所に追いやった。もう彼女はどこかへ行くのには慣れていた。彼女はどこへ行っても愛されなかった。


 たくさんの人間が彼女の前を通り過ぎた気がする。それでも彼女は誰にも心を開かなかった。あの人間がよかった。あの人間の手のひらの上からおいしいものをもらいたかった。あの人間になら、尻尾を触られてもよかった。あの人間の足の間で眠りたかった。あの暗い部屋で、あの人間の帰りを待ちわびたかった。


 ――ただいま。


 時々彼女は虚空にそう鳴いてみる。会いたい、あの人間に会いたい。どんなおいしいものも、楽しそうなおもちゃも、上等な寝床も、何もいらなかった。あの人間のところへ行きたい。そしてこう伝えたかった。


 ――大好きだよ。


 大好きって、何だろう。愛するって、どんな気持ちだろう。とても身体が温かくなって、ふわふわした良い気分になれるってことだよね。それはとても素敵なこと。だけど、彼女には愛する人がいなかった。愛する人がいなくなったら、愛はどこへ行くんだろう。彼女はそんなことを考えるようになった。


***


 彼女が最後にやってきたのは、たくさんの檻がある家だった。そこは仲間がたくさんいた。仲間は常に飢えていて、たまに出されるまずい餌でも喜んで奪い合って食べた。食べるものがない者は家を走り回る虫や鼠を捕まえて食べた。鼠の奪い合いをしている仲間を見て、彼女は怖気が走った。


 檻から出た彼女は、真っ先に強い仲間に押さえつけられた。それは痛いような、心地よいような不思議な感覚だった。彼女はあの人間のことをずっと考えていた。その不思議な出来事からしばらくして、彼女は檻の中で子を産んだ。腹の中から自分と同じようなモノが出てくるのが薄気味悪かった。しかし、子を育てない道理はない。彼女は乳を与え、乏しい餌を奪い食らった。


 もう誰も彼女を「可愛い」とは呼ばなかった。もちろん「大好きだよ」という声もかけない。彼女は子のために必死で生きた。栄養が乏しいせいで、何匹も子供が死んだ。死んだ子に虫がつき、それを見て飢えた仲間が子を食らった。ここは恐ろしい世界だと彼女は思った。


「ああ、また産んでやがる」


 ある日とうとう彼女の子供を人間が見つけた。彼女は子供を守ろうとしたが、人間に強い力で檻から引きずり出されて床に叩きつけられた。彼女が起き上がる前に、子供たちは全部人間に取られてしまった。泣き叫ぶ我が子を物のように扱う人間が憎らしかった。子供たちは布の袋に詰められて、どこかへ持って行かれてしまった。彼女は生きる気力の全てを失った。


 ――あの人のところへ行きたい。


 目を閉じれば、あの人間の顔が思い浮かんだ。


 私を愛して。

 優しく触れて。

 愛しい愛しい私の恋人。


 それから彼女は動けなくなった。人間の働いた乱暴のせいで、身体がおかしくなってしまった。彼女はもうじき本当に動けなくなるような気がした。怪我のせいではない。心が死んでしまったのだ。心が死ねば、直に身体も死ぬ。それは人間も彼女も同じであった。


 仲間が周りに群がってきた。誰も彼女を心配していなかった。もし彼女が死んだらここに置いてあっては邪魔になる、という誰もが自分勝手な心配をしているのだと彼女は思った。


 ――普通の幸せが欲しかった。


 彼女は目を閉じた。暗い瞼の向こうに、暗い部屋があった。時刻は午後十時。一日が終わって、夜がこれから始まる時間。彼女は薄灯りの差し込むカーテンの前で、人間を待っている。温かな手で撫でてもらうために。


「ただいま!」


 彼女にはそう聞こえた気がした。だから彼女も鳴いた。


 ――おかえり。


***


 彼女も誰もいなくなったあの部屋は、しばらくそのままにされていた。しかし、とうとう人間たちの手によって片付けられることになった。


「あら、こんなところに青いビー玉」


 空っぽになった戸棚を移動させた人間が呟いた。


「綺麗ね。誰にも見つからないで、勿体ない」


 もう1人の人間も呟いて、ビー玉を拾い上げてポケットへ入れた。もうビー玉はどこへも転がっていくことはなかった。


〈了〉

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狂気猫 秋犬 @Anoni

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