第8話



 ノグラント連邦共和国南部クレマール。


 国土を斜めに縦貫する大山脈の麓、美しい湖畔の街として知られている場所だ。

 山の麓であることから冬はかなりの積雪量があるのだが、訪問者は多い。

 クレマールは夏の避暑地としても名高いものの、冬にも観光客を集めるものがあった。


 ――音楽である。


 元々は夏以外は閑散としていた田舎町だったのだが、七十年前ほどのクレマール市長が冬にも観光客を呼び込もうと美しい景観の中に当時最新鋭の歌劇場を作り、そこで冬になると大々的な音楽祭を催すようになったのだ。

 元々楽器作りの工房などが多かった土地柄から、市民もこの音楽祭を非常に大切にし、州全体で盛り上げていったことから、今では一月に開催されるクレマール音楽祭は若手音楽家のコンクールや、多くの有名楽団の演奏が週替わりで行われ、夜はオペラにバレエと多様な音楽を二週間にも及ぶ間楽しめる為、世界中からこの時期観光客が訪れるのだという。

 

 シザは首都ダルムシュタットから四時間列車に乗って降り立つと、駅からすでに大きな湖が見えて、湖畔の周囲に薄い市街が並び立ってるのが見えた。


 同じ列車から降りた人々はすぐに改札口に向かって歩き出したが、シザはプラットフォームの端まで歩いて行ってそこから見える市街の景色を十分ほど眺めた。

 

 養父の虐待で閉ざされた少年時代を過ごしたシザは大学に通うまでノグラント連邦共和国メルトラから出たことが無かった。

 大学に通うようになって首都ダルムシュタットまでは出て来るようになったが、他の街は行ったことが無い。

 

 まだ冬の季節。


 湖畔の街には凍えるような風が吹いていたけれど、見知らぬ街の風景は何とも心惹かれて、そこからしばらく動くことが出来なかった。

 コートから手紙を取り出す。

 それは表面上は【ダルムシュタット国立大学交流プログラム】と簡単に書かれた案内状だった。

 中には滞在場所となる、どうやら城らしい住所と地図が書かれている。

 しかし未だにそこに行って何をすればいいのかというものがシザは見えて来なかった。

 教授の話では会場に行けば案内係もいるので、話を聞いてみればいいと言っていた。


 何よりも強調していたのは、

 交流会を好きなように活用して欲しいということだった。

 集まって来るのはどうやらダルムシュタット大の様々な学部から推薦された学生らしいし、彼ら個人個人がすでにどの程度顔見知りなのかは分からないけれど、

 別にそこへ集まって何かをしなければならないわけではないことだけは確かだった。


 シザは今、あまり人と交流する気分ではなかった。


 会場に行けば宿泊することも出来るとのことなので、そこをホテル代わりにして今回はクレマールの街を見てみようかな、と考える。

 教授たちがこのシンジゲートで何を得ようとしているのか、いまいち見えて来なかったので、もしかして自分に求められていることでは無いのかもしれないが、元より誰かの評価を得たいために参加しているわけでは無い。


 シザには人生の導きがない。


 だから手探りでも自分で道を歩んで行かなければならない。

 名門のダルムシュタット国立大には、勉強をする為に入った。

 そこを卒業すれば、何も持っていない自分の経歴にも一つ箔は付くからだ。

 

 卒業するまでに学び尽くそうとは思っているが、要するにそれ以外のやりたいことがシザには何も無い。


 彼はつまり、シンジゲートに参加してそういうものを見つけられれば、という考えを持って来たのである。


 だが猛烈にそれを探す気もない。


 ユラの顔が過る。


 ……そもそも人生において「これだ」とか「この人だ」と思えるものとの出会いなんて、 そんなにどこにでもゴロゴロと転がっているものではないのだ。


 見つけられたら幸運だが、

 見つけられない可能性だってあるだろう。

 いずれにせよ、どちらでもシザは構わなかった。


 天を仰ぐと白い息が空に溶けて行く。


 ユラとの別れの時は近づいて来ているのだ。


 それだけは強く、感じていた。



 もし本当の両親が生きていたら、

 弟の未来にも関われたと思うけれど、

 薄い皮を剥げば、養父ダリオ・ゴールドと自分は、虐待して来た者とされた者でしかない。

 ユラを溺愛する養父が彼の未来にシザが関わり続けることを、良く思うはずがなかった。

 このまま大学を機に疎遠になり、

 それぞれ別の場所で生きて行くというのが一番の望みだろうし、お互いにとっていい。


 ユラは養父を実の父のように慕っていたから、

 シザと養父であれば、彼は養父を選ぶはずだ。

 いや、そうした方がいいとシザも思っている。


 シザに関わることでユラは少年時代、養父の暴力に怯えるシザに同調し、怖がっていた。


 自分は音楽でも彼と語り合えないし、

 だからといって他の何か取り柄があるわけでもなく、

 凡庸なつまらない人間でしかなかった。

 ユラの側にいても、

 彼を安心させたり幸せになど決して出来ないだろう。


 それならユラは、彼を尊重して愛してくれる養父母と共にいて、

 幸せになった方がいい。


 縁が薄くなって行けば、

 縁の薄い兄のことなど、きっと忘れていける。


 自分はユラにとって、辛い過去と結びついている。

 

 ……離れた方がいいのだ。


 街を眺めていると、ふと一際煌びやかな区画があった。

 携帯を取り出し、地図で調べてみると、



【ガレリア劇場】と出て来た。



◇   ◇   ◇



 知識として、こういった場所はドレスコードがあることは分かっていたので、なんとなく街を歩きたかったついでに訪れただけだった。

 場所を確認すれば後日行けると思ったし、今日はこのまま街を少し気ままに歩いてみたかったから。


 ガレリア劇場はクレマール最古の劇場だと説明には出て来たが、

 実際目の前まで来ると豪華で、神殿のような外観だった。

 最古の劇場と言えども規模はクレマール随一であり、内部も時代に沿って改装され、

 音響設備はノグラント連邦共和国でも有数だと書かれている。


 きっとこの様子では内部も凄いだろうし、

 ここで行われる公演などは見ごたえがあるに違いなかった。


 一瞬、ユラを連れて来てやりたかったな、と思った。


 ユラは養父母に大切にされているけれど、あまり外に出されていない。

 ユラ自身も確かにあまり外界に出たいという欲求を持っていない、内向的な少年であるということも理由なのだが、外界がどんなものかそもそもあまり知らないのだ。


 世界には色んな場所があるとユラがもっと知れば、

 行ってみたいと願えるはずだし、そこへ赴けばもっと彼の世界は広がって行くだろう。


 だからユラは非常に優れた音楽の才はあるけれど、

 こういった公の劇場に行って音楽や芸術に触れたことは、あまり無いのだ。

 家で聞いたり、テレビで見たりはするけれど。


 今は丁度クレマール音楽祭の真っ最中であり、多彩なジャンルの演目が毎日朝から晩まで行われていることがよく分かる。

 パンフレットが置かれていたので、一枚手に取った。

 今日はこれからオペラ【ジュリオ・チェーザレ】が公演されるらしい。

 劇場は面白い作りになっており、本館は神殿のように階上にそびえ立つが庭園は地上より下の階下に作られていて、地上からその美しい様子がよく覗き込めるようになっている。


 すでに今夜の公演を見に集まった人々が庭園に入っており、

 掲げられたクラシックスタイルの明かりに照らされ、

 華やかな夜会の雰囲気は道行く人々を楽しませているようだった。


 狭い世界に閉じ込められて生きて来たシザにとっては、

 別世界のような光景だ。


 だけど、今いる世界でも居場所を見つけられずにいるシザは、

 到底自分に関わりのない世界でも、冷たくは映らなかった。


 どこに行けばいいのかなど分からない。

 

 ただ、ここではないどこか。


 パーシー・エバンズは法曹界で生きるつもりはあるかと尋ねて来た。

 彼は自分を見込んでくれているという。

 いまいち信じることは出来ないが、しかしそんな冗談を言って戯れる人物でもない。

 

 彼の自宅で見た、家族写真を思い出した。


 強い家族の結束。

 幸運への祝福。

 名門から、迷いなく法曹界に身を投じ、二十年尽くした。


 人間の罪を裁量する、過酷な仕事に従事しても、

 パーシー・エバンズは未だに母校に戻り後進を教え育て、導くという情熱を持っている。


 養父とはいえ、父親に虐げられて生きて来て、

 なんとなくその時をやり過ごし、

 糾弾も出来ないまま今現在、奇妙な平穏を共に過ごす関係になった。


 猛烈に怒ることも出来ず、

 自分を大切にも思えない。


 情熱がないわけではない。


 自分の命よりも、愛するものはあった。


 ……だがそれは口に出せない想いだから。

 出せば、最愛の人を苦しめることになる。

 我を貫けば、罪にも等しい。


 つまり、ある意味で自分は今、罪と罪でないことの境界線に立っているのだ。


 そんな人間が法曹界に関わることが出来るとは思えなかった。


 何かを見つけ、

 何かに出会うべきだということは分かっていた。


 だからこの地にやって来た。


 見つかるかどうかは分からないし、

 何一つ手がかりもない。

 

(でも元より失うものもないから)


 別に恐れる必要はないのだ。

 手にしたパンフレットを見ると、明日はオーケストラの演奏があるようだ。

 それを見に来てみようかなとぼんやり考える。

 今日はなんとなく、このまま夜の街を散策してみたい。

 

 パンフレットを鞄にしまおうとした時だった。



「あなた、ダルムシュタット国立大の交流プロジェクトでこの街に来たのね」



 突然後ろから声がして振り返ると、

 一人の若い女が立っていた。

 鮮やかなブルーの美しいドレス姿で、波打つ豊かな亜麻色の髪は一部結い上げ、あとは背中に優雅に流している。


 格式ある大学には通っていたので、大学でも交流会や学部での夜会なども行われるため、ドレスアップしている女性が特別珍しかったわけでは無かったが、一瞬目を留めたのは目立つ容姿をしているシザでさえ、彼女を美しい人だなと思ったからだった。


「ごめんなさい。今たまたま鞄の中が見えてしまって」


 彼女は悪戯っぽく言うと、自分の手にした小さな鞄から案内状を出して見せた。

 それはシザが持っている案内状と同じだった。


「約束をしていた人にすっぽかされてしまったの。

 電話も繋がらなくて。

 貴方もオペラを見に来たの? 

 誰かと待ち合わせ?」


 そう聞いては来たが、女はシザが待ち合わせていないことは分かっていたようだ。


「いえ僕は……偶然通りかかって、……それにこの格好じゃ入れないと思いますから」

「あら、それくらいなら平気よ。ここは貴方が思うより格式張ってないから。

 今日はフィレンツェのオペラ団が来てるの。絶対聞きたくて。

 ね、いいでしょ?」

 随分強引に手を取られた。

 だが女はまるで子供のように目を輝かせて覗き込んで来る。


「でも、今からじゃチケットは……」


「あなた、何も知らないのね」


 女は声を出して笑った。

 そのまま「来て」とシザの手を引いて歩いて行く。

 今夜はオペラなど聞くつもりはなかったのに、

 聞きたくないと無性に思うほど強い想いもなかったことが祟って、

 引っ張られるまま入口まで来てしまった。

 名前も知らない女と腕を組み、劇場へと続く花で飾られたゲートをくぐる。

 女は自分とシザの案内状を受付係に見せた。

 

 すると、受付係はそれを確認すると「ああ」というように微笑み、芝居がかった仕草で通してくれた。


「はい。シザ・ファルネジアさん」


 女は建物の中に入ると、案内状をシザに返した。

 笑っている。


「交流会の案内状があれば、街のどんな施設も好きに入れるのよ。

 聞いてなかった?」


「……直接ここに来て、ヴェルヌーク城にはまだ行ってないので」


「誰か約束があるなら別にいいけど。

 何も無いなら今夜は私に付き合って。

 隣にいてくれるだけでいいから」


 女の黒い瞳が尋ねて来る。

 言い表しがたい気持ちだったシザは、

 言葉で答えず、小さく頷いた。


 女は瞳を輝かせて「ありがとう」ともう一度手を取って来た。


「大学が押さえてる桟敷があるのよ。

 だからそこで見れるの。いい席だからすごく楽しみ。

 あなたオペラはよく見るの?」


「いえ……」


「それなら尚更、今夜は楽しまなくちゃね」


 知り尽くしたように女は劇場の階段を三回ほど上がって行くと、

 通路を進み、

 桟敷の番号を確認して、カーテンを開いた。

 ゆったりと座れる椅子が二つ用意されていて、

 テーブルには美しいデカンタとグラスが置かれていた。


「さぁどうぞ」


 案内人のように女はシザを招き入れると、すぐに椅子に座った。

「ワインは?」

 躊躇いもなく言われたので、シザは目を瞬かせる。

 女はくすっと笑ったようだ。


「水を入れましょうね」


 自分の部屋のように手慣れた様子でいくつかあるデカンタの中から選び取って、

 グラスに冷水を注ぐ。


 オペラグラスなども備え付けの引き出しに入っていて、

 本当にすぐにでも鑑賞が始められる雰囲気だ。


「あなた、学部は?」


「……法学部です」


「法学部ならパーシー・エバンズ教授の講座?」

「はい」

「そうなの。私は学部違うけど、教授の特別講座受けたことがあるわ。

 あの時は私が友達に付き合って。

 法学なんて絶対退屈だと思ったけど、エバンズ教授の講義はすごく面白かった。

 法学ならパーシー・エバンズが一番よね」


「……あの、貴方の学部と名前は」


 その時、ゆっくりと階上の明かりが絞られて行った。

 女が声を潜めて囁いて来る。


「今日の舞台、貴方が面白いと思ったら、教えるわ」


 どんな理由だよ。


 そう思ったが、女は本当にワクワクした様子で幕が上がるのを待っている様子だったので、シザは混乱の時間が過ぎると、まあいいかと思ってしまった。



(何かを見つけたい)



 ユラの顔が思い浮かんだ。


 

 ――あの輝きに負けない星を。



 あの頃の自分は、必死に探し続けていた。



【終】

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