私と夫と今野の話
尾八原ジュージ
私と夫と今野の話
夫を無視し始めたきっかけは、もう忘れてしまった。おそらくちょっとした喧嘩だったと思うのだけど、まるで覚えていない。
とにかく徹底的に無視した。おはようもおやすみも返さない。予定された帰宅時間に玄関のドアが開いてもおかえりはもちろん無し。三和土の中央に置かれた革靴はどかすこともせず、踏んで出入りした。食事も洗濯も自分の分だけ、寝室は元々別にしていたから支障なし、話しかけられても何をされても、それこそ一度殴られたこともあったけれど、それも無視した。
もしも夫婦二人ぐらしでなかったら、ここまで徹底することはできなかっただろう。共通の友人知人がほとんどいないことも幸いしたし、お互いの実家と没交渉になっていたのも拍車をかけた。あらゆる要素が私の無視を徹底させ、そして去年のクリスマス頃からだったろうか、気がついたら夫の存在を認識できなくなっていた。
とりあえず、夫がこの家に住んでいることは確からしかった。三和土には夫の靴があり、それは朝に姿を消して夜には戻ってくる。夫の愛用のマグカップが位置を変えていることもある。バスタオルも洗濯しているらしい。近所の人にも目撃されている。ただ私だけが夫の存在を認識することができない。
とにかく、家にいるはずの夫が見えないのだ。勝手にテレビが点いたり、電灯が消えたり、風呂が沸いたりするのは、どうやら夫が操作しているらしいのだけど、肝心の本人を認識することができない。声も聞こえなければ、発生しているはずの物音も聞こえない。
私が無視をやめて、ひとこと夫によびかければ解決するのだろうか? でも、それもなんだか癪だった。そうしているうちに、「一人しかいないのに何で二合も炊いちゃったんだろ」と呟きながら、知らない間に炊かれていた米を自分が炊いたような顔をしてタッパーに詰めるのが、すっかり私の日常になってしまって、止め方がわからなくなった。
夫を無視しているため、当然ながら性生活がない。人肌恋しくなってきて、マッチングアプリで知り合った男性と付き合い始めた。
知らないうちに不倫をさせるのはまずいなと思って、付き合い始めの頃に、正直に事情を話した。
「私、夫を認識できなくなっちゃったんですよね」
すると、相手の男は言った。「そういうこともあるんですねぇ」
それから彼は私の手を握り、ホテルの部屋に入るまで、つないだ手を子供みたいにぶらぶら揺らして歩いた。
男は「
「かなさんの家に行ってみたいな」
今野がそう言うので、私はついうっかり彼を自宅に連れ込んだ。もうすっかり独身気分だったのだ。玄関を開け、三和土に男物の革靴を見つけ、あっそうだ夫がいたんだっけと思い出したけれど、もう手遅れだった。今野は男物の靴なんか見えていないしハンガーにかかったジャケットも勝手に回ってる洗濯機も熱々の電気ポットも気にしない様子で、家にずかずか上がってきた。
かつてなくおかしな気分だった。夫が家にいるのか、いたとして家のどこにいるのか、私と今野を見ているのかいないのか、私には一切わからない。わからないまま今野と一緒に風呂に入り、一緒にビール缶を開け、抱き合って私の寝室にもつれ込んだ。
それからというもの、今野は毎晩のように私の家を訪れるようになった。玄関を開けると、入ってすぐの姿見の前で私を抱きしめてキスをした。あんまり家に来るので、私は今野の部屋着を買って、私の寝室に置くことにした。なんてことないチャコールグレーのスウェットを、彼は喜んでよく着た。
そんなことをしているうちに三か月ほどが過ぎ、案外破綻しないものだと私は半ば感心した。でも崩壊は愚かな私が気づかないだけで、いつのまにか迫っていたのだ。
ある日私が家に帰ると、三和土に夫の革靴があった。
そしてその隣に、今野のスニーカーが並んでいた。
咄嗟に(あっ厭だな)と思った。そこは間違いなく私の自宅なのに、他人の家にうっかり入り込んでしまったような気さえした。
私が三和土に立ち尽くしていると、廊下とリビングを仕切るドアが勝手に開いた。開け放たれたドアの向こうに、下着姿の今野が現れた。どう見ても、リビングに隣接する夫の寝室から出てきた直後だった。玄関に立ちすくむ私と、今野の目が合った。
「あっかなさん、お邪魔してまーす」
今野はこともなげにそう言った。
今野は慣れた手つきで湯を沸かし、当たり前のように三人分のコーヒーを淹れた。紺地にサッカーチームのロゴが入ったマグカップを指さして、私は「だれの?」と尋ねた。今野はくだらないギャグでも聞いたみたいに、はははと軽やかに、そして無邪気に笑った。
その晩、私は今野と寝なかった。風呂から出て、当たり前のように私の寝室に入ってこようとする彼を「入ってこないで」と止めた。今野は(ちぇー)という顔をしただけで引き下がった。そしてリビングの隣、夫の寝室のドアを開けると、そこにまた当たり前みたいに入っていった。
それからというもの、今野は私の寝室に来なくなった。
代わりに夫の寝室で眠るようになった。私が買った覚えのない紺色のスウェットを着て家の中をうろつき、私に会えば「かなさんもコーヒー飲む?」なんて、まるで自分の家みたいに振舞うのだけど、私と恋人同士のようにふるまうことをスパッと止めてしまった。
夜、自分の寝室のベッドで丸くなっていると、今野の声が耳に届くことがあった。それはささやき声だったり、くすくす笑いだったり、ほとんど女の子の嬌声みたいな声だったりした。聴いていると心臓が冷たく痛んだ。私はかたく目を閉じ、寝床の中で息を殺した。
五月の半ばの、生ぬるい夜のことだった。接待を終えた私が酔っぱらって帰宅すると、当たり前のように今野が家にいた。
「おかえり、かなさん」
三和土には夫の靴と、今野のスニーカーが寄り添っていた。それを見た途端、なぜか突然いたたまれないような気分になって、この関係を壊してやろうと思った。私は靴を履いたまま今野の手を握って引き寄せ、キスをしようと顔を近づけた。
彼は露骨に顔を背けた。「駄目だよ、かなさん。おれ恋人がいるんだ」そう言いながら眉をよせ、純粋に困惑したような顔をした。
その途端酔いが一気に醒めて、どうしたらいいのかわからなくなった。わからなくなって、そのまま回れ右をして家を飛び出した。
行く宛もなくどんどん歩いた。静かな住宅街を、にぎやかなネオン街を、人の行きかう駅前を通りすぎ、へとへとになって、でも家には絶対に帰りたくなかった。適当なビジネスホテルに入って、味気ない直線ばかりの部屋で一晩過ごした。静かに目を閉じていると見知らぬ人が廊下を歩いたりドアを開け閉めしたりする音がかすかに聞こえ、それはまるで子守歌のようだった。その夜、私はひさしぶりに熟睡した。
翌朝はホテルから直接出勤した。仕事用のバッグを持っていたから、家に帰らなくても大きな支障はなかった。目まぐるしく働き、残業を三時間こなして、重い足取りで帰宅すると、家の中は真っ暗だった。三和土には私の靴しかなかった。
勇気を出して、数か月ぶりに夫の寝室のドアを開けた。新婚のときに買ったダブルベッドがあるだけで、あとはほとんど何もなかった。夫の服も本もそのほかの私物も、愛用のマグカップも消え失せていた。
私は今野に連絡をとろうとした。でもいつも使っていた彼のSNSのアカウントは削除され、電話は通じず、そういえば彼の家も出身地も下の名前すらも知らないということに今更気づいて、持っていたスマートフォンを取り落とした。ゴツンと手遅れの音がした。
数日後、夫から記入済みの離婚届が届いた。ほかにはメッセージのひとつもなく、味気ない茶封筒に入っていた。
私もそれに記入して、提出した。拒む意味が何一つなかった。証人の欄はすでに埋まっており、両方とも私の知らない男性の名前だった。もしかしたらそのどちらかが今野だったのかもしれないが、もうどうでもよかった。
私は単身者用のマンションに引っ越した。今では夫の顔も、今野の顔もよく思い出せない。
私と夫と今野の話 尾八原ジュージ @zi-yon
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