第10話 影の温度
1992年秋、都内・赤坂の小さな居酒屋。
テーブルに置かれた焼き鳥の煙が、微かに立ちのぼる。テレビは消音のまま、ニュースキャスターの唇だけがうごめいていた。
並木真一は、目の前の男の表情をうかがっていた。十年来の付き合いになる議員秘書・児島義隆。与党医療族のベテラン議員に仕える、いわば懐刀だった。
「清栄技術振興会に、清栄バイオ協議会……。名前だけ見れば、とうの昔に消えたはずの清栄化学薬品だがな。去年から急に、パーティー券の購入額が跳ね上がってる。しかも、額面ギリギリまで。十口。代理購入も混ぜて、軽く百万は超えてる」
「パーティー券だけじゃ済まないだろ?」
「察しがいいな。講演謝礼、セミナー出演料、研究支援の寄付——名目はいろいろある。全部帳簿上は“合法”。だけどな、その金の行き先を辿っていくと……面白いルートが見えてくる」
児島は、グラスを持ち上げず、氷だけをじっと見つめた。
「表向きは、公益財団の『生命医科学イノベーション協議会』から金が出てる。大学や研究所への支援名目だ。だが、その財団の立ち上げ資金を出したのは、“未来医療パートナーズ”って合同会社。そしてその出資元が……」
「東新産業ホールディングス?」
児島はグラスのふちを親指でなぞりながら、うなずいた。
「お前、やっぱ鼻が利くな。そう、健生製薬の100%親会社だよ。そのホールディングスが出資して作った合同会社がある。“未来医療パートナーズ”とかいうやつだ。そこが基金を通じて、大学や研究所にカネを回してる。そして、その一部が……なぜか後援会に戻ってくる。不思議な話だろ?」
並木は沈黙したまま、グラスの氷を転がした。
やはり、裏がある。
制度の“内側”で、音もなく形を変えながら、政と官と企業のあいだを蠢いているもの。帳簿は整っている。名目も、肩書も、印鑑も、全部ある。それでも何かが腐っている。
そして児島はボソリと付け加えた。
「つまり——だ。最初から“目的ありき”で金が動いてる。そういうことだ」
並木のグラスの氷を転がす手が止まる。児島は声のトーンを下げ囁く。
「ナイセリルって薬知ってるか?」
「ナイセリル?… あぁ知ってる。こいつで健生は10年先まで盤石になるっていわれて話題になった新薬だよな。発売が90年だったか。確か一年で五百〜一千億の売り上げがあったらしいな」
それを聞いた児島は並木に体を寄せ、それだけじゃないという顔で続けた。
「あれは、まだKSP-045って番号だった頃、治験結果が出揃う前に、厚生省の内部で“承認準備”に入った。審査部門がフル回転した。資料が差し戻されなかった。あり得ないスピードだった」
「で、見返りが……これか」
「財団経由で、東都心医科薬科大学と、その附属研究所へ計2億。“ナイセリルの作用機序に関する共同研究”って名目だったな。その研究室の教授は、今じゃ薬事審査部会の専門委員だ」
並木は沈黙したまま、冷めた焼き鳥に手を伸ばした。
この街では、熱のないものが一番熱い。
「ありがとう。借りは返すよ」
店を出ると、秋の夜気がスーツの襟元から滑り込んできた。赤坂の街が、何も語らず、ただ音もなく揺れていた。
*
——翌日、国会図書館・資料閲覧室
新聞記者という肩書は時に役立ち、時に疎まれる。並木は黙々と、過去の議事録を繰っていた。
対象は、薬事法改正、医薬品の迅速承認制度、医療制度改革関連法案。1980年代末から90年代初頭にかけてのそれらの法案の裏に、ある“共通の議員”の名前が浮かんでくる。
与党・医療族の重鎮。その議員の政策秘書時代、早乙女貞一がインターンとして短期間関わっていたという記録も残っていた。
——やっぱり繋がっている。旧清栄化学、製薬団体、そして早乙女。
制度の変更は、常に“誰か”の意思で動く。
*
——明誠新聞社・資料調査室
「これ、今年度分の政治資金収支報告書。旧清栄化学と製薬業界団体の動きだけを抜き出したものです」
若い調査員が手渡した分厚いファイルを受け取り、並木は目を走らせた。
——パーティー券購入:計180万円
——講演謝礼:30万円(対象不明)
——後援会主催セミナー:清栄化学薬品名義で運営協力
記録に残っているのは、すべて“合法”の体裁を保ったやり取りだ。しかし、その背後にある意図は明らかだった。
「これは、“合法”という鎧を着た利益の供給装置だ……」
並木は呟いた。表向きは制度の範囲内での資金提供、だが本質は政治的便宜への見返りだった。
*
——某喫茶店・午後
「……今度は、政治部の記者さんですか」
並木の前に座るのは、元・健生製薬の社員、藤崎。旧清栄化学から多くの治験に携わっていた。
冴木良介の取材を受けた後、藤崎は一度表から姿を消したが、慎重なやり取りの末、並木との接触に応じた。
その声には、探るような緊張と、どこか諦めの気配が混ざっていた。
「藤崎さん、貴方が話してくれた“補足資料”と“照会番号”、冴木が実物に近い写しを手に入れましたよ」
並木は言う。
「僕はその“裏側”を追っています。その文書が通った背景、誰が“便宜”を通したのか。健生製薬の急成長、そして早乙女との接点……」
藤崎は逡巡しながら、静かに口を開いた。
「聞いた話ですが、当時、厚生省内で“疼痛領域に強く影響力を持つ人物”が裏で新たな薬剤の治験準備を進めている、と噂になっていました。イザナ草という植物に関係がある、とも……」
並木は表情を変えなかった。ただ、何かが静かに繋がっていく音を感じていた。
*
——夜の編集部・社会部フロア
冴木良介は、電話の受話器を肩で挟みながら、メモ帳に素早く文字を走らせていた。
『——おまえの方、どうだ』
受話器の向こう、政治部の並木の声は低く、しかし熱を帯びていた。
「パーティー券、後援会、講演料。全部つながってる。それを“合法”という言葉で隠してるということか…」
『良介、気をつけろ。これはもう、記者レベルじゃなく省庁の深部、政界の根に近いところに手を伸ばしてる』
冴木は少し間を置いてから、答えた。
「わかってる。でもここで引いたら、何も変わらない」
『なら、なおさらおまえ独りにやらせるわけにはいかないな』
少しの沈黙のあと
『覚えてるか…新人の頃、2人でよく飲みながら話してたよな。"日本のジャーナリズムを変えるんだ!"って』
受話器越しに並木が熱く語る…
「俺たちがやらなきゃ、誰がやるんだ?…だよな」
——たとえ影の温度が冷たくても、真実を温める手を離してはならない。
そのとき、記者という肩書きが、ふたりにとって何を意味するのかが、ほんの少しだけ明瞭に感じられた。
*
——2025年 春
深夜、編集長室。
並木は自席の脇に置かれた金属製の引き出しを開け、古びた黒い取材ノート、そしてノートPCを取り出した。
それは、冴木良介が遺した「世に出なかった記事」の断片だった。
社内のサーバーからは削除され、紙の原稿も“誤って処分”されたとされていた。
だが、良介はすべてを知っていたのだ。自分の取材が、どこかの誰かにとって危険な領域に触れはじめていることを…だから自分に託したのだ。
並木はノートの見開きに書かれたタイトルを見つめる。
《疼痛薬理研究合同プロジェクト・裏資料照合覚え——未送信草稿・私信を含む》
そこには断片的なメモと、良介の筆跡で走り書きされた言葉があった。
《誰かが見届けねばならない。この“無痛”の影に潜む熱を》
並木はしばらく黙ったまま、そのページを指先でなぞった。
「冴木……おまえが、ここまで辿り着いていたのに…すまない」
彼が不審死を遂げたあと、何度もノートPCの電源を入れては涙した。
託されたはずなのに、何も出来なかった自分を責めた。
『あとは俺に任せろ』
そう言った、良介の声は今でも耳から離れない——俺にもっと覚悟があれば…
デスクライトの下で、瑞月が持ち帰った封筒をじっと見つめる。
——万一の時は並木へ
「お前と瑞月ちゃん…ほんとよく似てるよ」
そして、ようやく並木は理解した。冴木が最後に守ろうとしたものが、何だったのかを。
そして自分が、何を託さねばならないのかを。
部屋の窓の外、ビルの灯がぽつりと瞬いている。
夜は静かだが、その奥にはまだ答えきれない闇がある。
……それでも。誰かが歩みを止めなければ、
あの影の温度に、再び火を灯すことはできるはずだ。
並木は封筒を手にすると、静かに立ち上がった。
——冴木、君の真実は、これからだ。
幻庭-神隠しの庭- 澪音(rain) @charboo05662
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