第9話 蠢く構造
——1992年七月上旬、霞が関・厚生省庁舎
照り返す陽光の下、冴木良介は霞が関の歩道を歩いていた。ジャケットの下で汗が滲むが、彼の足取りは止まらない。
今日こそ、核心に近づく。
情報提供者の藤崎から受け取った小さなメモ——そこには、厚生省と企業の間でやり取りされた“薬事申請補足資料”の照会番号が記されていた。明誠新聞の資料調査室を通じて調べた結果、それは実在していた。しかも、正式な文書として厚生省の医政局から発出されたものだった。
冴木の脳裏には、あの藤崎の震えた声が蘇る。
——「早乙女という男の名前が、厚生省側の文書に直接入っていたんです。まるで、企業が作った資料を省の看板で再発行したようなかたちで。」
早乙女貞一。厚生省医政局の若手課長補佐。年齢は三十そこそこながら、その名はすでに政官界で囁かれていた。冴木はその姿を、何度か記者会見の壇上で見たことがある。切れ者然とした物腰と、ひときわ冷静な眼差し。それは記者たちの間でも、何か妙に「浮いた」印象を与える存在だった。
今日、アポイントは取っていない。だが、真正面からぶつかるつもりだった。
厚生省の入館を済ませ、医政局の受付に向かう。窓口の事務官に名刺を差し出し、記者証を示す。
「明誠新聞の冴木と申します。医政局の早乙女課長補佐に、お話を伺いたいのですが。」
事務官は軽く驚いた表情を見せた。
「アポイントは……?」
「ありません。ただ、重要な補足資料に関する事実確認です。時間を取っていただければ、五分でも構いません。」
数分のやりとりの後、幸運にも応接室に通された。官僚の多くは、唐突な取材を煙たがる。だが、早乙女は違った。
応接室のドアが開き、涼しげなスーツ姿の男が現れた。
「明誠新聞の冴木さんですね。お時間、少しだけなら。」
目元に笑みを浮かべながらも、どこかこちらを値踏みするような視線。
冴木は礼を述べ、単刀直入に切り出した。
「お忙しいところ恐れ入ります。医政局から発出された“薬事申請補足資料”の照会文について伺いたい。文書番号は──」
そう言ってメモを差し出す。
早乙女は、それを手に取り、僅かに目を細めた。
「……懐かしい番号ですね。これは確か、3年前の疼痛薬理関連の申請資料だったと記憶していますが。」
「ええ。その文書、企業が作成した補足資料が、厚生省名義で発行された形になっていたという指摘があります。照会事項として送付された中に、御名の記載もあったと。」
一瞬、沈黙が流れた。
早乙女は静かに息を吐き、手元のメモを机に戻した。
「記者さん、こういう資料というのはですね、正式な決裁を経て出されるものです。私個人の名前が入っていたとしても、それが何か特別な意味を持つわけではありません。」
「では、企業側が作成した案をそのまま“省の照会文”として流用した事実については?」
「その種の調整は、日常的にあります。技術的助言や用語整備を企業に求めることもあれば、逆に民間からのフィードバックを反映することも。行政と現場のあいだには、建設的な“連携”が求められているのです。」
建設的な連携。冴木は、その言葉の選び方にぞっとするものを覚えた。
「ならば、なぜそれが正式な手続きを経ずに進められた形跡があるのか。医師や研究者の間でも、急な審査通過に不審の声が上がっています。」
「記者さん、誤解のないように。医政局の役割は、過度な規制で現場の足を引っ張ることではありません。我々は、医学の進歩と安全性のバランスを考えながら、制度を運用しているのです。」
穏やかな口調の中に、硬い壁のような意志があった。
——この男は逃げない。だが、絶対に本音は明かさない。
良介は、最後の一手として切り札を出す。
「……私は、この照会文の原本と、企業側が作成したドラフトとの照合を進めています。仮に文面の一致が確認された場合、厚生省が企業に代わって申請内容を“清書”していたことになります。省としての見解を、後日、正式に伺います。」
早乙女は、その言葉に対し、少しも表情を崩さなかった。
「どうぞ。調査にご協力できる範囲であれば、いつでも。」
わずかに笑んだまま、早乙女は立ち上がった。
「では、今日はこの辺で。私はこれから会議がありますので。」
冴木は無言で頭を下げた。
応接室のドアが閉まる音が、ひどく重く響いた。
*
——その夜、明誠新聞本社・政治部フロア
「……やっぱり、あの男か。」
並木真一は、冴木の報告を受けながら、机に身を預けて呟いた。
「あの男、製薬団体の政治連盟と連んであれこれやってたみたいだが、ここでもか……政官界ではちょっとした異端児扱いだった。“頭が切れすぎて、上に煙たがられてる”とか、“将来の医政局長候補”とか。」
冴木は静かに頷いた。
「藤崎の話、そしてあの文書。表には出ないが、この男は確実に何かを“通して”いる。制度の枠の外側で。」
並木は目を細める。
「じゃあ、俺は政治部の線から行く。厚生族の議員や、審査会に顔の利く有力者たち──奴の“後ろ盾”を洗ってみよう。」
さらに並木は続けた。
「それと……旧清栄化学薬品。こいつは政界、特に厚生族とズブズブの関係がある。俺の方でも、何人かの秘書筋にあたっている。もう少し時間をくれ」
良介は並木の肩を叩きながらボソッと呟く。
「旧清栄と、照会文の背後にいる早乙女──全部、どこかでつながってる気がする。」
二人の前にあるのは、巨大な構造だ。官僚と企業、政治と金、見えない糸が絡まり合っている。
その結び目に、いま、ふたりは手をかけ始めていた。
明誠新聞、社会部と政治部——ふたつの矛が、静かに交差した。
その先にあるのは、ただの行政の瑕疵ではない。制度の「構造」そのものが蠢いていた。
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