第8話 闇の片鱗

——1992年、六月下旬。東京・世田谷区

私立・光泉医科大学附属病院


昼下がり、梅雨の合間のじめついた空気が、病院の玄関ホールに満ちていた。受付の奥には長椅子に腰かける外来患者たちが列をなし、ナースステーションでは看護師のやりとりが小刻みに交差している。


冴木良介は、肩に記者証の入った名刺ホルダーをかけながら、ロビーの一角で控えめに周囲を見渡していた。


──この病院には、“あの”プロジェクトに関わった医師がいる。


手帳には、告発状に記されていた一つの名前がメモされている。

「中原秀則。光泉医大・神経内科講師」

疼痛の研究では一部で知られた若手研究者で、近年、製薬企業との共同研究にも名を連ね始めていた。


良介は案内板の横で立ち止まり、ナースに声をかける。


「すみません。神経内科の中原先生に、お時間いただけないかと思いまして……明誠新聞の者ですが。」


ナースは怪訝そうに眉をひそめた。


「……ご予約はされてますか?」


「いえ、急なことで申し訳ない。研究に関するご相談です。診療でお忙しければ、お時間をいただけるだけで結構です。」


名刺を差し出すと、ナースはそれを一瞥し、やや警戒した様子で奥の内線に手を伸ばした。


数分後、神経内科の端の一室に案内された。簡素な医局の一角。壁には医学誌の抜き刷りが無造作に貼られ、デスクの上には英語論文のコピーが積み上がっている。


やがて、白衣姿の男が入ってきた。痩せ型で、眼鏡の奥の目元に疲労が滲む。


「……中原です。新聞の方だとか。今日は外来が詰まっていて、あまり時間は取れませんが。」


「恐縮です。冴木と申します。少しだけ、お話を伺えれば。」


良介は腰をかけながら、まず世間話のように切り出す。


「最近、“疼痛”の研究が注目されてますね。中原先生も、数年前に学会でご発表をされていたとか……たしか、慢性疼痛患者への新規治療アプローチについて。」


中原は軽く頷いた。


「ええ。神経生理と薬理の狭間にある領域でして。ですが、世間的な“注目”とは裏腹に、研究費の継続には苦労しています。」


「……民間資本が入ると、少し事情も変わってくるのでは?」


良介がそう水を向けると、中原の表情がわずかにこわばった。


「それは、どういう意味でしょう?」


良介は名刺入れからもう一枚のカードを抜き、そっと机の端に置く。

「疼痛薬理研究合同プロジェクト」関係者リスト

そこに、小さく“光泉医科大学”の名も載っていた。


「このプロジェクトについて、先生がどうお考えかを伺いたいんです。特に、審査通過の過程に不審な点がなかったか。」


中原は一瞬だけ言葉を失った。そして、椅子に深く背を預けると、静かに口を開いた。


「……私は、審査の中身までは知りません。ただ、当時、事務局側から“形式面はすでにクリアしている”という説明がありました。現場の医師が口を挟むような話ではなかった。」


「それでも、何か違和感を覚えたことは?」


中原は迷った末、苦い表情を浮かべて答えた。


「……治験開始の数週間前に、一部の薬剤情報が差し替えられました。理由の説明はありませんでしたが、薬効の試験対象が“痛覚神経系”から“自律神経系”に微妙にズラされた。」


「ズラされた……?」


「たぶん、審査を通りやすくするためです。倫理審査で問題視されるリスクを避けるために。あくまで憶測ですが。」


良介はメモ帳に一言一句を書き込みながら、静かに頷いた。


「……ありがとうございました。今日のところは、これで充分です。」


立ち上がりかけたところで、中原がふと、声を潜めて言った。


「……先生、あなた、気をつけた方がいい。」


良介は動きを止めた。

"先生"……警告の意図か。この仕事に就いてそろそろ十年、"丁寧な言葉の裏にある毒"は何度も聞いている。すかさず、その意図を探る。


「……何かあったんですか?」


「以前の製薬企業担当者は、倫理を気にして医師とも率直に話す人だった。だが、三ヶ月前、急に交代させられた…理由は知らないが、今の担当者は無機質で、話が通じない。上から…何か変化があったとしか思えない。」


「その以前の担当者の名前は?」


「藤崎という方でした。ずっと私たちとも協力的で、倫理委員会の運営にもよく顔を出していた。でもある日突然、現場から姿を消して……そうしたら退職していたと」


「退職理由はご存知ですか?」


「公式には“体調不良による退職”ということですが、裏では――彼が“省の意向に逆らった”という噂も…まあ、あくまで噂ですけど」 


良介の胸に、ひやりとした風が吹き抜けた。

今この取材が踏み込もうとしている領域の深さを感じずにはいられなかった。



——都内の喫茶店。午後二時過ぎ。


店内には落ち着いたジャズが流れ、ガラス越しに午後の陽が差し込んでいる。冴木良介は、向かいの席に座る男の様子をうかがっていた。


藤崎慶一。四十代半ば。よく言えば神経質、悪く言えば猜疑心の塊のような目をしていた。


「……俺はもう、会社を辞めて十ヶ月になる。今さら名前が出るようなことには関わりたくないんですよ」


最初の一言から警戒心を隠そうともしない。だが、良介は焦らずに答える。


「存じています。ですが、あなたが関わっていた“疼痛薬理研究プロジェクト”、あれが承認を受けた過程で、通常では考えられないスピードが記録されている。事実を追いたいだけです。誰かを断罪したいわけじゃない。」


藤崎はしばらく黙ってコーヒーをかき混ぜていたが、やがて重い口を開いた。


「……あのプロジェクトは、初めから“枠”が決まっていた。厚生省の審査も、倫理委員会の意見も、全部既定路線だったんです。私が担当していたのはその調整──いや、“帳尻合わせ”と言った方が正確でしょう。」


「枠、というのは?」


「承認が“通る”ことが前提だったんですよ。臨床実験の設計や、協力医師とのやりとりも……実質的には最初から筋書きが決まってた。私自身、それを後で知って愕然としました。」


「誰が、その筋書きを?」


藤崎は言い淀んだ。が、やがて肩を落とし、静かに呟いた。


「……厚生省の医政局に、“早乙女”という人物がいまして。」


良介は、すかさずメモ帳を広げた。


「官僚ですか?」


「ええ。当時、医政局の“課長補佐”という肩書だったかと。まだ三十そこそこの若手でしたが……信じられないくらい影響力を持っていた。“早乙女が動けば、審査は通る”。現場では、そう言われていた。」


良介は、思わず眉をひそめた。


「……官僚が、製薬企業の審査に影響を?」


藤崎は頷く。


「直接、会ったことはありません。でも彼の名前が入った文書は何度も目にしました。たとえば、ある時──本来は企業側が提出すべき“薬事申請補足資料”を、彼の名前を冠した“照会事項”という形で厚生省から送り返されてきたことがあった。」


「つまり……企業側が作った“回答案”を、省の公式文書として出してきた?」


「……ええ。あれを見たとき、正直ゾッとしました。もう、どっちが行政でどっちが民間なのかわからなかった。」


藤崎の声は、かすかに震えていた。


良介の胸に、鈍い痛みのような感情が走る。


——この男が、裏側を動かしている?

並木が言っていた"若手のホープ"とはこいつのことだったのか。


「藤崎さん、資料は……その“薬事申請補足資料”は、今も?」


「……保存してはいません。ですが、社内のファイルナンバーは控えてあります。訴訟リスクを考えて、個人的に記録は残していたので。」


藤崎は、持参していた手帳から小さなメモを破り、良介に渡す。


「もう、俺には何の得にもならない話です。でも……あなたの言う通り、誰かが記録しなきゃいけないのかもしれない。」


「ありがとうございます。藤崎さんの話、必ず正確に扱います。」


良介は深く頭を下げた。


そのとき、店内のスピーカーから、ちょうどマイルス・デイヴィスのトランペットが流れ始めた。研ぎ澄まされた音色が、空気を切り裂くように響いた。

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