通訳物語 (後半)
-前半よりの続き-
第三章
1
函館から羽田へと向かう全日空の昼の便に乗った。東京へ戻って最初にすることは一つしかない。京子への電話だ。明日会えるだろうか。会えるとすれば場所はどこにしようか。いつもの有楽町駅前の喫茶店で良いものだろうか。
まず何を話そう。いや自分のことはさておいて、彼女の話が聞きたい。この間、少しでも自分のことを思いだしてくれただろうか。
船から自由の身になったことで、心が軽くなっている。搭乗した飛行機の窓際に座り、ぼんやりと外を眺めて離陸までの時間を潰していると、いつにも増して京子との結婚を意識せずにはいられない。
ポケットから、北山は名刺を取り出した。つい先ほど、下船したときに漁協関係者から受け取ったものである。
アラスカの漁協事務所で、通訳として働くのは悪い話ではないのだが、英語となると、どこか心理的に構えてしまう。これまで八年余りも英語を学んできた。大学受験の際には、十万人規模の模擬試験では、常に英語は百番以内の成績を取っていたのだが、それにもかかわらず、アメリカのペイパーバックですら、いざ読もうとするとしかめっ面になってしまう。更に英会話となれば、逃げ出したくなるほど苦痛であった。
文字面を見ただけで斜めに構えてしまう英語に対して、ロシア語は二年間学んだ時点で、三年目にはドストエフスキーの小説が気楽に読めた。作品が新聞小説だったからでも、ロシア語が簡単だからでもない。
ロシア語には、文法的に六つの格変化があり、更に、名詞には男性、女性、中性の区別があり、それぞれの複数形がある。形容詞も、次に来る名詞や格に応じて語尾が変化するので、英語に比べるとはるかに複雑で面倒なのだ。
そのため、ロシア語学習に際しては、徹底的に口頭練習をさせられる。監視船の中でも、暇さえあれば語形変化を練習して、北山は口を動かしていた。
何年学んでも簡単な英会話すら出来ず、今ひとつ馴染めないのは、日本の教育方法が悪いとしか思えない。英語学習は商売道具に使われているため、あれやこれやの教材で学習者が振り回されてしまうのだろう。
喋ることが出来れば良いというのではない。学習開始の時点から喋る訓練を集中的に受けていれば、自ずと苦手意識が無くなり、苦手意識が消えれば外国語の習得は容易になるということなのだ。
それだけではなく、会話の苦手な日本人が多いのは、男は黙ってなんとやらという文化のせいでもある。北山もその例に漏れず、かつては無口であった。ところが、大学の語学研究所に通い始めた早々、ロシア人の女性教師にひどく怒られた。質問されて口ごもっていたときのことだ。
「話しかけられて言葉を返さないのは、敵意をもっているか、知能が低いか、変態かのいずれかと我々は受け取るのよ。だから、話しかけられたら、ダー(はい)でもニェット(いいえ)だけでも良いから、とにかく喋りなさい」
と教えられたのであった。
話し相手から、「敵意」、「馬鹿」、「変態」のどれかと思われてはたまらない。それ以来、心にかかっていた日本文化のブレーキが無くなった。
アラスカ行きが頭を掠める。しかし、自分に英語の通訳が務まるか疑問だ。これから英会話を学ぶのはきついなどと、弱音を吐いている場合でないことは分かっている。しかし、そう思えば思うほど、ロシア語から離れたくない気持ちが北山に湧き上がっていた。
函館から東京の高円寺にあるアパートに戻ったその夜、京子に連絡を取った。電話に出た京子の弾んだ声を聞いて、北山は安心した。三ヶ月近く離れていても、京子の心は離れていなかったのだ。
「あなたのことを父に話したの。それでお願い。いつか父に会って」
電話をした翌日、いつものデイト先である有楽町の喫茶店で、アイスコーヒーにストローを差し込みながら京子が言った。久しぶりに会ったせいなのか、はにかむような表情を浮かべている。詳しくは聞きそびれているのだが、彼女の父親は一流企業の重役で、厳格な人物らしい。
北山が気にかかるのは、彼女が二十五歳になろうとしていることだった。世間の常識では結婚適齢期を過ぎている。結婚の適齢期などは人によって様々であり、そんな社会の常識に北山は囚われていないのだが、やはり京子には辛いことなのかもしれないと北山は思っていた。
「でも、いいのかな。僕は通訳として半人前だ。収入も定まらない。言ってみれば、フーテンの寅さんのようなものなんだぜ」
人気の映画主人公を引き合いに出して、北山はおどけて見せた。彼女の追いつめられている心境は分かっているのだが、やはり北山には負い目があり、ついつい砕けた言葉になってしまう。
「変なことを言わないで。私は肩書きに惚れるような女ではないの。フーテンの寅さんだっていいのよ。でも、真面目にだけはつきあってね」
京子が笑い顔を見せた。それでも北山には、これまでのような関係を続けていて大丈夫なはずはないのが分かる。自分がぐずぐずしていれば、いずれ彼女は親に勧められるまま、見合い結婚をすることになるだろう。
結局、北山は京子の願いを受け入れられなかった。いつかは京子の両親に会って結婚の許しを得なければならないのは分かっているが、問題はタイミングである。今の状況で両親に結婚の許しを申し出ても、こんな半人前の男を受け入れてくれるほど世間は甘くないはずなのだ。
「コーヒーを飲むとき、砂糖とミルクのどっちを先に入れたら良いと思う。私は砂糖が先だと思うの。だって、ミルクを先にしたら温度が下がるでしょ。砂糖が溶けにくくなると思うのよ」
気まずい雰囲気を感じたのか、表情を明るくして京子が話題を変えた。こんな時も、北山は彼女が素晴らしい女性だと感じる。話し相手への思いやり、心の優しさを感じるのだ。相手を追いつめることをせず、他愛のない話で安堵感を与えてくれる。もっとも、そんな彼女の優しさに甘えて、二人の関係を北山は突き詰めてこなかったのかもしれない。
彼女の心を自分の胸に包み込んで、北山はやるせなさをかみしめた。どうしようもないと思う反面、ここが自分の人生を切り替えるべき時なのかとも思える。
いつまで自分の夢を追いかけたら気が済むのか、一人前のロシア語通訳になるという夢が実現するまで、これからどれほどの時間がかかるのか、そもそも自分にそれだけの能力があるのかと北山は自問する。
ひとつだけはっきりしているのは、もう京子と別れるような真似はしたくないということだった。目の前にいる京子こそが、自分にとってかけがえのない女性なのである。
人生に大事なものがあるとすれば、それはマイホームや金ではないと北山は確信していた。いくら金があり、立派なマイホームを構えたとしても、金持ちになった自分、マイホームに住む家族の心に隙間があれば、本当に幸せとは言えまい。信じ合い、励まし合い、人生を有意義なものと感じさせる人間関係だけが必要なものだと思うのだ。
そうはいっても、結婚するためには、現実的な課題を解決しなければならない。安定した生活費を稼がねばならないし、世間並みの結婚式も挙げなくてはならないだろう。にもかかわらず、今もって自分の夢を追いかけているとは、しかも夢を実現させる自信もないとは、いったいどういうことなのか。京子との結婚を考えていながらも迷い続ける自分の姿が、北山にとってはつくづく恨めしかった。
2
釧路を拠点とする二週間単位の北方監視船勤務を繰り返しながら、東京へ戻るたびに北山はロシア語の活かせる就職先を探していた。思うようにいかないのは予想していたが、現実は想像以上に厳しかった。
八月の末、猛暑の中、久々ぶりに背広を着て、祈るような気持ちで北山は旅行会社の面接に出かけた。「社員募集。露語堪能な方。年齢三十歳迄」という求人を新聞で見つけて履歴書を送ると、三日後、面接の通知が来たのである。
アパートのある高円寺駅から中央線に乗って新宿駅へ出た。西口から五分ほど歩き、営業所の奥にある応接室に通されると、面接に出てきたのは社長だった。高価そうな背広を着た、六十歳近い人物である。
「話しにならんなぁ」
着席早々、北山の書いた履歴書に目を通したまま、愉快そうに笑いながら社長が言った。人を小馬鹿にした態度とは、こんな事を言うのであろう。北山は腹立たしくなった。
「若い人の応募が多いんでね。まあそういうことで、また次の機会があったらよろしく」
ろくに北山の顔も見ず、質問ひとつせずに社長は席を立った。二年後に三十になろうとしている北山の年齢を、社長は問題にしているのだ。
「あんまりじゃないですか。確かに私は、もうじき三十歳です。でも、最初から年齢を問題にするのなら、なぜ呼び出したんですか」
北山は怒りを押さえられなかった。
「君も大人なんだろ。会社の評判に関わるといけないからさ、これ以上、俺に言わせないでくれよ。他の就職先を探すんだな」
北山の抗議をかわして、面倒くさそうに社長が言った。
それ以上の文句を言うことが躊躇われ、悔しさを押し殺して北山は旅行会社から表通りへ出た。
「こんな理不尽なことが許されるのか」
屈辱感をかみしめて北山は呟く。やり場のない怒りを抱えて、つい十分前に通った道を引き返した。
歩きながら、北山の脳裏にはロシア語を最終的に諦める考えが生まれていた。ロシア語にこだわっている限り、いつまでたっても就職のめどはつかない。このまま年齢を重ねていけば、今日のように就職でも不利になっていくだろう。その結果、いずれ京子と別れることになるのは、分かり切っていることではないのか。
二週間の監視業務を終えた十月の半ば過ぎ、京子を失いたくない一心で就職しようと考えた北山は、職業安定所から紹介された印刷会社を訪れた。求人票によれば、職種は営業である。九月二十七日が誕生日の北山は、既に二十九歳になっていた。
午後三時の約束を取り付け、総武線亀戸の駅前からバスで十五分ほどの印刷会社に着いた。近くに公園があり、指定された時間まで二十分ほど余裕があるので待つことにする。公園では小学生が鉄棒の周りに集まっていた。
昼過ぎの公園のベンチで、背広姿の北山が一人座っている。世間から自分はどう見えているのだろうと考えてしまった。通訳を諦めようとしている後ろめたさがあるのかもしれない。自信をなくして弱気になっているのが自分でも分かる。
京子と一緒になるために通訳への志を捨てることが、これほど苦痛になるのだろうかと北山は疑問に思う。原因は京子ではなく、自分の意志の弱さ、思慮の不足にあるのかもしれないと思いついた頃、指定された時間の十分前となった。
事務所の一角にある応接室で、面接が始まった。応対に出てきたのは、五十がらみの総務部長である。
「貴方はロシア語をやっていたんですか。何か、共産党と関係はあるんですか」
前回の面接した旅行会社社長と同じような仕草で、履歴書を覗き込みながら部長が言った。
「共産党とは関係ありません。これといった政治的な主義主張はありませんので」
予期していた質問だと思いながら、北山は答えた。予期していたというのは、監視船の中でも、船員たちから「通訳さんはソ連のスパイじゃないのか」と、冗談ではあろうが、半ば共産主義者扱い、半ばスパイ扱いで言われていたからである。英語とは違い、ロシア語を話したりすると、何か怪しげな人種と思われがちなのだ。
「本当ですか。大学も二年留年しているようだし、学生運動でもしていたんではないんですか。しかも、稲穂大学というのは怪しいなぁ」
部長の疑い深そうな眼差しが北山に注がれた。視線が異様に強く感じられる。
「私が留年したのは、全く個人的な理由です」
そう前置きして、新聞記者になりたかったが大学推薦が得られずに諦め、ロシア語のために語学研究所に通っていたことを北山は説明した。
「そうですか。まぁ、それはそれとして、水産庁の職員でおられたんですよね」
疑惑が消えぬ様子を表情に浮かべたまま、部長が言った。
「いえ、職員ではなく臨時職員、つまりアルバイトです」
「アルバイトですか」
部長が素っ頓狂な声を上げた。
「何か問題でもあるのでしょうか」
北山は聞き返した。部長の異様な反応には、人を馬鹿にした気配がする。
「そりゃあそうでしょ。大学留年で、しかもアルバイト暮らしをしていたというのでは、ちょっと困りますね」
訳の分からぬ表情を浮かべている北山に部長が言葉を継いだ。北山が聞き返してきたことに気分を悪くしたのか、人をたしなめるような口振りになっている。
「そんなにアルバイトというのはいけないんですか」
北山も無気になった。
「それくらい自分で分かりませんか。やはり責任ある生活をしてこなかったんでしょうね。あんたねぇ、そんなに世の中は甘くありませんよ。正式な職員にもならず、通訳も諦めたようだし、なんでもかんでも中途半端でしょ。もし貴方が私の息子だったら、ひっぱたいてやりますけどね」
部長が北山の顔を凝視した。初めはお客さん相手のように愛相笑いを浮かべていたのに、今は厄介者を見ているような表情が顔に出ている。
「アルバイトだからといって、無責任な仕事をしてきたつもりは私にはありませんが」
これまでの仕事を否定されたように感じ、北山は言葉を返した。
「あのねぇ、社員なら停年になるまで働いてくれるけど、アルバイトはすぐ辞めるんだよ。給料が高い方、仕事が楽な方へ移るんだから。君だってそうだろ。だったら、アルバイトなんて無責任じゃないか」
総務部長の語気が荒くなった。
「分かりました。これで失礼します」
アルバイトは無責任な仕事をすると思いこんでいる部長に、何をどう言っても無駄である。もはや話しているのが億劫になった北山は、印刷会社を後にした。
帰りの道すがら、北山は考えた。落胆もするが、その反面、世の中こんなものだと分かっていたような気もする。
旅行会社では年齢がひっかかり、今回の印刷会社では大学留年でアルバイト暮らしをしていたこと、加えてロシア語通訳をしていたことが就職の出来ない原因なのかと思うと、割り切れないどころか絶望的な気分になる。
これまで自分のしてきたことが、全て裏目に出ているようだった。しかし、自分の過去を今更になって悔いても始まらない。一度でもレールを踏み外した人物を社会が受け入れないというのであれば、それはそれで仕方がないと北山は思った。
まだ自分にはソ連捕鯨船通訳の望みがある。やはり自分は通訳を目指す以外にはないのだろうか。これまで以上に気持ちを強くして、本物の通訳になるべきではないのだろうか。北山の気持ちが揺れ始めた。
3
真冬が近づく十二月の初旬、いつものように有楽町で落ち合った京子から申し出があった。その日は寄りたいところがあるのでつき合って欲しいと言う。
彼女に連れていかれたのは東京駅だった。八重洲口から駅前の通りを日本橋方向へ行くと、古めかしいビルがある。どんな用事があるのかも彼女は告げず中へ入っていく。京子の後に従って北山も建物に入った。
昼前のビルの中に人影はない。ビルの入り口に会社の名前が書かれていたはずだが、訳も分からずついていったので北山は見落としてしまった。
三階に上がり廊下を歩くと、突き当たりに部屋がある。古い建物にふさわしい重そうな扉には、「片敷産業営業部」と書かれていた。聞いたことのある会社名である。
「お父さんの会社なの。一緒に来て」
扉の前で立ち止まった京子が振り向いて言った。京子からの突然の頼みに北山は迷った。こんな中途半端な状態で、彼女の父親に、しかも職場で会うことに違和感を感じる。
「僕は入れないよ」
北山は言った。
「分かったわ。私だけ行って来る」
素っ気ない北山の態度を察したのか、笑顔を浮かべて京子は扉を開けて中へ入っていった。
(まずかったかな。ついでのような感じもしたが、もしかすると最初から父親に俺の来ることを言っていたのかもしれない)
京子をがっかりさせてしまったことを北山は後悔した。
「父が来てくれって。どうする」
しばらくして、扉から出てきた京子が北山の顔を見つめた。
連れてこいと言われているのであれば、ここまで来て断るわけにはいかない。北山は彼女の後について中へ入った。
十数人の男女社員がいる事務室の中では、一人の男性社員が大声で電話をしており、新しく発売されたらしい靴下の納期を打ち合わせしている。その話から、ようやく「片敷産業」が大手繊維メーカーだと北山は思いだした。
事務室の奥に、「専務室」と書かれたガラス戸の扉があった。迷わず京子は入っていく。部屋の中に父親がいるのだ。一人娘のためか、出入りを自由にしているらしい。北山は襟元を正した。
ドアを開けて中に入ると、机の向こうに五十代半ばの人物が座っていた。白髪交じりの頭である。二人に気がつくと、いかにも威厳のある表情を見せて顔を上げた。
「お初にお目にかかります。北山と申します」
京子と並んだ北山は、深々と頭を下げた。
「今日は何しに来たのですか」
愛想笑い一つも見せず、父親は事務的な声を出した。
「京子さんについてきました」
「それはご苦労さん。羨ましいね、暇をもてあまして」
「すみません」
再び、北山は頭を下げた。
「謝ることはないですよ。また会えるかどうかも分からんのだから」
父親の言葉には刺があった。二度と会いたくないと言っているように聞こえる。 北山の言葉を無視するかのように、父親は机の上に置かれていた書類に目を通し始めた。
父親の態度に腹を立てたのか、割って入るように京子が話し出した。
「私たち、もう三年もつき合っているの。これからも長くなると思うわ。お父さんに紹介したのは、そのためだから」
京子の声は緊張していた。これまで家では言えなかったことを、父親の職場だからこそ吐き出した感じである。恐らく、北山のことを持ち出すと家庭では叱られたり、無視されたりしているのだろう。年頃の一人娘を持つ父親のかたくなな態度が、これまでの話しぶりから北山にも感じられる。
父親は書類から目を離さない。
「行きましょう」
凍りつくような空気が漂う中、京子が北山の腕を掴んだ。
「待ちなさい。紹介したからといって、全て片づいたわけではないぞ。それから、ここへ男友達を連れてくるな」
「家になら良いのね」
怒りを滲ませた京子の問いかけに父親は応えなかった。相変わらず書類に目を通し続けている。
数秒の間、父親の様子を見てから、京子は北山の腕を強く握りなおして歩き出した。父親と京子の険悪な関係を初めて知った北山は、気分が優れない。原因が自分にあると分かっているからだ。
表通りに出ると、昼の日差しが眩しかった。
「疲れたでしょ」
どこへ行くともなく日本橋方向へ並んで歩きながら、京子が言った。ゆっくりと地面を覗いているかのように俯いているのは、父親の態度に対する詫びを言いたいのだろう。紹介したことを後悔しているように感じられる。
「いきなりで驚いたよ。たまたま背広を着てきたから良かったけど、お父さんの目にはどこの馬の骨か、怪しい奴だと見えていたのではないかな」
「そんなことはないと思うわ」
北山の言葉をうち消して、京子は押し黙った。北山をかばいながらも、父親の気持ちが分かっているのだろう。はかばかしくなかった今日の出来事が、京子の心を暗くさせているようだった。
「すまなかった。定職に就いてしっかりしているところを、お父さんに見せなくてはいけなかったんだろうけど、なにしろこの有様だ。お父さんが快く思わないのも当然だよ」
「何を言ってるの。もっと自信を持って。私は大丈夫。父が貴方のことを認めないのは、初めから分かっていたの。でも、それで良いのよ。私はすっきりしたわ」
「君の言葉はありがたいよ。来年になれば、僕も何とか格好がつく。就職は難しかったけど、ソ連の捕鯨船に乗り込めるのは確実だと思うんだ」
ソ連船に乗り込むのは最後の望みだが、最も希望するところである。国際課のサケ・マス監視も手伝ったので、まず決まると北山は確信していた。京子との別れは辛いが、半年の乗船が終わりさえすれば、通訳としての実力も箔もつくことで仕事探しが楽になり、堂々と京子に結婚を申し込める。
「大丈夫だって言ったでしょ。待っているわ」
北山の言葉に元気づけられたのか、それとも北山を元気づけようというのか、京子が笑顔を見せた。
4
年が明け、1980年の正月が終わろうとしていた。
人出の多い三が日を避け、京子と鎌倉の鶴ヶ岡八幡宮に出かけたのは、まだ門松が街に見かけられる一月五日のことである。和服姿の京子は美しく、一緒に歩く自分がみすぼらしく思えるほどだった。
「歯医者さんの受付で働くことにしたの」
八幡宮からの帰り道、鎌倉駅に近い喫茶店で京子が話し始めた。重大な決意だったのか、彼女の顔には、すっきりした気持ちがにじみ出ている。
彼女はお嬢さん育ちだ。父親は一流企業の重役であり、生活には困らない。このままでも彼女は待ってくれるだろうという甘い考えが北山にあった。
「社会勉強になって、良いんじゃないか」
半ば冷やかすように冗談を言ったとき、京子の表情が曇った。
「来年、私は二十六歳になるの。いつまでも家にはいられないわ」
抗議するかのように京子が北山を睨みつけ、それから頬を赤くして下を向いた。
「それもそうだよな。俺もしっかりしなければと思ってるんだ。でも、なかなかうまくいかないんだよ」
滅多に見せない京子の深刻な表情に気後れしてしまい、北山は彼女から目をそらした。
「これからどうするつもり?」
自分の指先を見つめていた京子が顔を上げた。
「君と結婚したい僕の気持ちは分かっているだろ。しかし、そのためには条件を整えなければ」
京子の目を見つめて、率直に北山は自分の思いをうち明けた。
一人前の通訳になるためには、まだ時間が必要なこと、少なくとも、この夏にはソ連の捕鯨船に乗り込み、半年の勤務を終えた後からでなければ、新しい就職活動は出来ないこと、通訳として生きていくためには、箔をつけなければ仕事をもらえないことなどを述べた。
「もし私との結婚を真面目に考えてくれるなら、成人式の日に父と会って欲しいの」
そっとコーヒーカップをテーブルに置き、思い詰めた表情を京子が浮かべた。
北山は頷いた。ソ連の捕鯨船に乗り込む通訳として、北山は既に国際課班長である浅田の内諾を得ている。国際条約に基づく監視員の通訳採用は国際課の権限であり、その国際課の実力者である浅田の内定が覆ったことはないと聞いている。この辺で京子の両親、とりわけ父親の許しを得ておけば、彼女も安心するだろう。ましてや、ソ連船に乗船すれば、彼女とは半年間も会えないのだ。ここが決意のしどころかもしれないと北山は思った。
北山の同意に安心したのか、京子の表情が明るくなった。こんな時、この女性は自分にとって必要なのだと、いつも北山は再確認させられる。疑う素振り一つ見せず、自分を信頼してくれる他人など、これまで自分の周りにはいなかった。今も京子は自分の言うことを信じてくれている。これから先、どんな困難に陥っても、京子なら自分を信じてくれるだろう。絶対にこの女とは別れまいと、北山は胸の奥で思った。
夜八時頃、鎌倉駅から東京駅へ出た。東京駅の地下道を歩き、大手町から東西線で茅場町へ出る。それから東武伊勢崎線と相互乗り入れを行っている日比谷線に乗り換えて、彼女の自宅がある越谷に向かった。
京子を家へ送り届ける道すがら、神社の境内で初めて彼女とキスをした。つきあいが始まってもう三年にもなるというのに、男というのは妙なもので、これぞという女には指一つ触れる勇気が湧いてこないものなのだ。二人の関係を大事にしたい一心なのである。
正月の雰囲気が消え、京子の父親と会う約束をした成人式の日まで三日後となった頃、沖合課の豊森班長から呼び出しを受けて北山は水産庁へ出かけた。待ち望んでいたソ連捕鯨船通訳の辞令が出たのだと北山は期待している。心のはやる北山は地下鉄銀座線の「虎ノ門」で下車し、霞ヶ関の官庁街へ向かった。
農林水産省は外務省の近くにある。沖合課のある古い建物に入り、豊森班長の机の前に胸を弾ませて北山は立った。
「年明け早々申し訳ないんだが、捕鯨船通訳の依頼ができなくなったんだ。沖合課としては君を推薦したんだが、国際課が拒否してきたんだよ」
豊森班長の話を聞いて、北山は体中の力が抜けていくのを感じた。
コネも何もない自分がロシア語の世界で生きるためには、実力と箔をつけねばならない。そのためにはソ連船に乗り込むことが、自分に残された最後で唯一の方法だと考えてきた。それなのに、なんのために船酔いに耐え、二年間以上の監視船暮らしを送ってきたのか、失望感があまりに大きく、しゃがみこんでしまいたい気分である。
「ロシア語と英語の出来る通訳は君しかいない、なんとかサケ・マス監視に行ってくれ、そうすれば捕鯨船通訳にしてやると浅田班長がおっしゃるから、私はサケマス監視の仕事を引き受けたんですよ。約束が違うじゃないですか」
膝頭がふるえ、崩れ落ちそうになる体を必死に支えて北山は言った。
「確かに彼は約束したようだが、『北山君だけは受けいれられない』と今は言っているんだ。いったい何があったんだ?」
豊森班長の口調が詰問調に変わり、まじまじと北山の顔を見つめる。
「拒否された理由は、秋田監督官とのトラブルだと思います。しかし、そのトラブルに責任があるのは、私だけではないはずですが」
何かにすがりたい気持ちを隠して、北山は食い下がった。
「実は浅田君に訊いたんだよ。理由は三つだった。まともな通訳が出来ないこと、海の日を知らず船長を怒らせたこと、それから監督官の了解を得ず勝手に船を降りたこと」
豊森班長が、言いにくそうな表情を浮かべて言った。
「それは事実に反しています」
きっぱりと北山は否定した。体中から怒りがこみ上げてくる。
「報告書があがっているそうだ。国際課としては、サケ・マス監視の秋田監督官から本省に提出された正式な報告書なので、無視するわけにはいかないと浅田班長は言うんだ」
北山の落胆ぶりに憐れみを感じたのか、申し訳なさそうに豊森が北山を見つめた。
「君のことは分かっているよ。ロシア語の実力はあるし、勝手に船を下りるような人物ではない。私も浅田君の言ったことに同意は出来かねるが、なにしろ、国際課に私の権限は及ばない。どうにもならないんだ」
呆然と立ちつくしている北山に、慰めるように豊森が言葉をつけたした。
沖合課では為す術がないと言われると、もはやここで怒りをぶちまけようが、弁解しようが意味はない。臨時雇いの通訳である北山の言い分に、これ以上、耳を傾けてくれるはずがないのは分かり切っている。
「とにかく、またチャンスはある。辛抱してくれよ。ところで、一月三十日から乗船して欲しいんだがな」
何もなかったかのように豊森班長が次の仕事を打診してきた。
無言のまま北山は立っていた。いくら臨時雇いの立場とはいえ、何もかも言いなりになってはいられない。自分の悔しさを少しは分かって欲しかった。
京子のことが頭に浮かんだ。父親と会う約束を、どうしたらいいものか。お先真っ暗になったことを言う勇気が、今の自分にあるのだろうか。
またチャンスはあると豊森班長は言った。しかし、一度、失格の烙印を押されたら、役所というのは融通が利かない所である。浅田班長が異動でもしない限り、北山の希望が叶えられる可能性はないだろう。淡い期待をして振り回されるのは、もう御免だ。今度こそ監視船の通訳は辞めようと、北山は決意した。
第四章
1
成人式の一月十五日、東武線越谷駅前の喫茶店で、十一時に京子と待ち合わせた。和服姿だった正月以来のデートのせいか、薄手のコートを羽織った京子の姿はどこか初々しい感じがする。
「父は厳しいから覚悟してね」
京子の声が、その日はよそよそしかった。いつもとは違う冷静さが漂っている。結婚相手とする恋人を親に紹介するのだから当然であろう。
京子の顔を見ながら、北山は考えあぐねていた。捕鯨船通訳の話が駄目になったことを伝えるべきか、そして父親に会うべきかどうかである。
捕鯨船の件は、今更、どの面を下げて駄目になったと言えるのか恥ずかしくて仕方がない。ましてや、捕鯨船が駄目になったから通訳は諦めたなどと言えるはずもない。それほど軽い男だったのかと、京子から思われるのは耐え難かった。
とてもではないが、恋人の父親に挨拶する気分にはなれない。このまま父親に会ったところで、ろくな結果にはなるまいという予感が次第に強まってくる。
それでも父親の気に入ってもらえる微かな希望が北山にはあった。水産庁の通訳は辞めるにしても、まだ自分は通訳を志しており、並はずれて優秀だとは思わないが、そこいらの男とは違う生き方をしていることを訴えれば、もしかすると、彼女の両親は評価してくれるのではないだろうか。勿論、今の状況からすれば、父親を騙すことになるが、ここまで来たら仕方あるまい。
京子の家に近づくにつれ、北山の迷いは膨れあがった。自分はとんでもない思い違いをしているのではないか。どう考えたところで、今の自分は彼女に相応しい男ではない。定収がないどころか、三十歳目前の年齢になっても夢を追いかけている。そんな男を、自分の娘の結婚相手として認めてくれるだろうか。
初めて訪れる京子の家は、想像していた以上に立派であった。閑静な住宅地にある付近の家と比べても、豪邸と呼ぶにふさわしいたたずまいだ。
敷地の門を抜けて彼女が先になり玄関のドアを開けると、和服姿の父親が立っていた。腕を組み、家へ入るのは一歩も許さないとでも言うかのように北山を睨みつけている。
北山が頭を下げようとした時、父親の怒声が飛んできた。
「何しにきた。『稲穂』なんてのは大学じゃないぞ。俺は東大の法学部を出ているんだ。それに何だ、お前は。会社勤めもしていないそうじゃないか。まさか娘を利用して、俺に就職先を世話してくれなどと考えているんじゃないだろうな。お前のような男は、夢でも食べてればいいんだよ。二度と来るな」
一方的にまくし立てた後も、父親は口元をふるわせていた。凄まじい形相である。反論するにも足りない、低俗なテレビドラマに出てくるようなセリフだなと北山は思った。
言いがかりともいえる言葉には、いくら年長者でも我慢がならない。かつては教授とすら論争した男である。北山の血が騒いだ。
その時、父親に遮られて玄関から先に入れず、じっと立ちつくしている彼女の姿に気がついた。自分と父親の間で苦しむ京子が不憫でならない。
北山は冷静になった。父親の気持ちが分かる気がしてくる。水産庁の臨時職員という身分、食えるか食えないか分からない半人前の通訳をしている男では、年頃の娘を持つ父親ならば誰だって不安を覚えるだろう。娘を思う気持ちが、一流会社の重役としての立場を忘れさせ、東大出を自慢するような言葉になったと考えると、なおさらのこと父親としての必死な心情が伝わってくる。北山は返す言葉を失った。
諦めるべきだと、瞬間的に北山は思った。今ならまだ間に合う。これ以上、彼女を振り回してはいけない。ロシア語通訳の夢を捨てようとしている自分を隠し、将来の望みもない男が、結婚を申し込む資格など米粒ほどもなかったのだ。
お嬢さん育ちの京子が、歯医者の受付になって自立していることを示そうとした心が一層いじらしく感じられ、自分の取るべき態度が決まったような気がした。
このまま立ち去ろう。もっとも男らしくない姿を彼女に見せて裏切るのだ。彼女に嫌われるのだ。それが自分に今できる唯一の行動だと思った瞬間、北山は走り出していた。
北山は後ろを見ずに走った。冬の冷たい風が目をかすめ、するすると涙が流れ出る。
越谷駅から、浅草行きの準急に飛び乗った。頭の中は真っ白である。何も思い出せず、ただ自分の不甲斐なさ、京子への申し訳なさだけが胸を塞いだ。
東武伊勢崎線の五反野駅を通り過ぎたあたりから、後悔の念が頭をかすめ始めた。
なんと愚かなまねをしてしまったのだろう。他に取るべき方法がなかったのだろうか。逃げ出す真似など、男のすることではない。たとえ父親と大喧嘩をしてでも、京子に対する思いを堂々と主張すべきではなかったか。彼女が自分には必要だと訴えるべきではなかったか。
いや、そうではあるまい。思い上がるのもほどほどにしろという別な考えが浮かんでくる。今の自分が彼女に必要なはずはなく、むしろ彼女の幸せを妨げる存在である。会社勤めをしていない男、収入も不安定な男に、どうして結婚を申し込む資格があるのか。
もう俺には何もない。電車のガラス窓に映る自分の姿を眺めながら、馬鹿な男というのは自分のような奴を言うのだと、北山は心の底から思った。
2
薄暗いアパートの一室で、北山は布団にくるまっていた。京子の父親から叱責され、そのショックで自分に絶望してから三日が経っている。もう昼だというのに、起き上がれなかった。
突然、部屋のドアをノックする音が聞こえた。渋々と掛け布団をかき上げ、北山はドアに向かう。
ドアを開けると、そこには一人の中年男が立っており、「北山さんですか」と話しかけてくる。北山が肯くと男は名刺を差し出した。
弁護士の肩書きを訝しく思いながら北山が名刺を眺めていると、「少しゆっくり話したい」と男は言う。微笑を浮かべてはいるが、目は笑っていない。北山は急いで布団をたたみ、男を部屋に通した。
「いやあ、良かった、良かった。何かありはしないかと、心配していたんです。来た甲斐がありましたよ」
コートを脱ぎ、畳の上に座ると男が言い出した。心配していたと言うところをみると、男は京子との一件に関係があるのであろう。何かありはしないかとは、北山が自暴自棄になり、自殺でもしないかと気を回していた節がうかがえる。
「一人暮らしは大変でしょう」と、当たり障りのない挨拶から話が始まった。
「三日前、夏山家へ来ていたそうですね。そのことで、お願いしたいことがあるのです」
弁護士らしい五十代の男が本題を切り出した。重々しい口振りに、厭な予感が北山の頭を掠める。
「長居は無用と思いますので、率直に話をさせてもらいます。今後は夏山家とは、一切、関わらずにいて欲しいのです」
冷ややかな目つきで、弁護士が言った。
「貴男は知らないでしょうが、京子さんには見合いの話があるんです。東大を出て一流の保険会社に勤務している青年なんですが、かなり本気なんですよ。京子さんも適齢期を過ぎているんで、こちらもなんとか決めてやりたいと考えているのです。それで今日、こうして貴男にお願いにあがったんですが、どうでしょう、貴男も京子さんの幸せを願うなら、きっぱりと諦めてもらえませんか。つきまとうような真似をして欲しくないんですよ」
無言でいる北山を後目に、男は話し続けた。
「はっきりと言わせてもらいますが、今の貴男は京子さんを幸せにしてやれないでしょう。三十歳にもなろうというのに定収がないというのは、男としては致命的ですよね。その辺はご自分でもご承知かと思いますが」
男が北山を睨んだ。痛いところをつくものだと北山は思うものの、そのことは京子とのつきあいの中で、何度も自問してきたことである。
「話はそれだけでしょうか。京子さんから頼まれておっしゃっているのなら私も考えますが、そうでないならどんな話しも意味がありません。お引き取り下さい」
腹の力を振り絞って北山は言った。三日前は、京子のためを思って逃げたのだ。みっともない姿をさらしたのだ。今更、よりを戻そうとは全く思っていない。しかし意地がある。男としての名誉を守りたい気分があった。
「よく考えてくださいよ。京子さんの家族だけでなく、親戚一同、みんな貴男と京子さんの結婚には反対なんです。貴男は気軽なもんでしょうが、京子さんが可哀想じゃありませんか。仲の良かった父と娘が、この一年間、毎日のように泣いたり怒ったりしているんですよ。貴男一人のために、皆が迷惑しているのが分からないのかなぁ」
追い打ちをかける男の言葉に北山の心は沈んだが、もはや言葉を返そうとは思わない。
「私の心は変わりません。きっと京子さんを幸せにして見せます。ですから、我々のことには構わないでください」
砕けそうになる胸の内を押さえて、言わずもがなのことを北山は言い切った。自分が悩んできたことを他人から言われ、はいそうですかと引き下がれる訳がない。たとえ虚栄心であれ、「俺にだってそれくらいの根性はあるんだ、馬鹿にするな」と言いたかった。
「『幸せにする』だって。無責任な言葉だな」
男の言葉遣いが、急に乱暴になった。
「結婚てぇのはな、家族を一生、守っていくということなんだよ。お前に、そんな覚悟はあるのか。亭主の夢につきあって、貧乏暮らしをしたい女がどこにいるんだ。百歩譲って、そんな殊勝な女がいるとしても、貧しい生活に妻子を巻き込み、挙げ句の果ては路頭に迷わせるような男を、俺は許さないぜ」
理性を失ったかのように、弁護士が大声を出した。
北山は黙っていた。男の剣幕に怯えたわけではなく、男の言葉に真実味を感じてしまったからである。
「通訳だかなんだか知らねぇが、格好付けてんじゃねぇぞ。所詮、通訳なんぞは、口をパクパクやっているだけだろ。そんなのは、男の仕事じゃねぇんだよ」
相手にするまいと沈黙を続ける北山に、追い打ちがかかった。ここまで通訳の仕事を馬鹿にされては、北山も大人しく黙っているわけにはいかない。
「貴方は何も分かっていない。たった一つの仕事をするにも、我々は一ヶ月も、二ヶ月も準備しているんだ。その分野のことだけではなく、どんな話が出るか、相手の文化や個人的趣味まで予想して、それこそ辞書の一冊を暗記するくらい勉強しているんです」
北山は弁護士の顔をまっすぐに見つめた。
「それはご苦労なこった。ところで、見たところ、ろくな家財道具もないようだし、貯金もないようだな。ここに百万円ある。女は一人だけじゃないんだから、もう彼女にはつきまとわないでくれ。親御さんが心配しているんだ。この百万円で、楽しく他の女と遊んだらどうだい」
北山の反論に耳を傾けることもなく、弁護士が背広から封筒を取り出した。男の金色の指輪が、北山の目に留まる。
「ふざけるな。人を馬鹿にするな」
我慢の限度を越えた北山は、差し出された封筒を男に投げ返した。
「お前は人間のクズだ。社会のゴミなんだよ。まだ父親の気持ちが分からないのか。心底から娘のことを心配しているんだ。もし君らが結婚でもしたら、京子さんは実家に帰れなくなる。生活が苦しくなったら、京子さんはどうしたらいいんだ。答えて見ろ」
北山の剣幕に腹を立てたのか、北山を上回る大声を男が出すと、二人は睨み合いになった。
「今後、どうするかはお前の勝手だ。せいぜい頑張るんだなと言いたいところだが、ゴミために湧くウジ虫のようなお前にも、日本では法律が適用されるのを忘れるなよ」
弁護士の言葉が、北山の頭にのしかかる。娘の今後を心配した京子の父親に頼まれ、これが弁護士のやってきた理由なのだろう。京子につきまとえば容赦はしない、法律を味方に罰するぞという脅しなのだ。
説得が出来たと思ったのか、投げ返された封筒を胸ポケットにしまいながら、ゆっくりと弁護士が立ち上がった。無言のままでいる北山を、哀れむように一瞥する。
敗北感に打ちひしがれる北山の耳に、部屋のドアを閉める音が響いた。
3
弁護士の訪問から一週間が過ぎた。自分を罵った京子の父親の言葉と仁王立ちになった姿が、日々の生活の中で、何度も何度も脳裏に蘇る。その度に、父親から叱責される彼女の姿が目に浮かんだ。
この日も、北山は朝から寝込んでいた。三度の食事にも関心がなくなっている。
蒲団の中にいる北山の脳裏に、過ぎ去った日々の出来事が浮かぶ。翻訳会社を首になったこと、捕鯨船通訳の希望が断たれたこと、京子の父親に怒鳴られ逃げ出したこと、そして弁護士から辛らつな言葉を浴びせられたこと。
(このまま寝ていたら、俺はどうなるのだろう。いつまで俺は、何も食わずにいられるのだろうか)
そう考えた瞬間、馬鹿げた疑問だと思い、北山は布団をかぶって一人笑いをし、それから泣いた。
死ぬことを考えた。初めは死んでもいいやという程度の、軽い考えである。それでも、自分が自殺するなどとは本気で考えてはいなかったが、ある日の明け方、もうどうでもいい、自分のような人間が生きていても仕方がないと思うようになった。
北山が死ぬことを本気で考えた朝の十時頃、アパートの大家から電話だと呼び出された。水産庁の豊森班長からである。一度依頼された月末乗船のことで、「通訳が見つからないんだ。めんめ漁の時期でさ、なんとか頼むよ」と言うのであった。
断るつもりだったが、二年も世話になった経緯がある。しかも、めんめの漁期ともなれば、真冬の荒波を乗り越えて漁船が数多く出漁しており、ソ連側とのトラブルも多いはずだ。豊森班長が執拗に北山に乗船を頼むのも、そのためだろう。 無下には断れなかった。(俺は弱いな。こんなに気分が落ち込んでいるのに、まだ義理立てして格好をつけようとしている。こんな男だから、京子の父親に毒づくことも出来なかったんだろう。どうしようもないな)と、豊森班長の声を聞きながら、北山は考えていた。
仕事を引き受け、真冬の海にもまれるのも悪くない。こうなれば、毒を食らわば皿までである。もしかしたらと京子からの電話を期待している自分にも愛想が尽きたとなれば、東京にじっとしている理由はない。北山は乗船を承諾した。
監視船が出航する当日の朝早く、羽田から東亜国内航空の便に乗って、北山は釧路空港に着いた。大粒の雪が降りしきっており、着陸前の機内から見下ろす大地は真っ白である。初めて監視船の業務に就いた二年前と、全く同じ光景であった。
空港からタクシーを拾い、寒々とした北埠頭に到着する。北山が乗船すると、待っていたかのように船のエンジンが動き始めた。船員が慌ただしく係留をほどき、アルミ製のタラップが引き上げられる。
北山の乗り込んだ監視船「第十七利丸」は、七百トンクラスのキャッチャーボートであった。四十年前に造られた船だと、到着早々、挨拶のために北山が顔を出した船員食堂で、食事中のボースン(甲板長)が言う。四十年前は大げさだとしても、老朽船であることは北山の目にもよく分かる。
水産庁派遣の監督官は、北山より三歳年上の栗山という人物であった。挨拶のために北山が監督官室のドアをノックして中に入ると、監督官としては初めての仕事だと言う。
「海が大荒れのこの時期は、誰も乗船したがらないので自分にお鉢が回ってきたんだ。よろしく頼みます」
人なつこい笑顔を栗山が見せると、
「はいっ、これ」
黒い手提げカバンから数枚の封筒を取り出し、栗山が差し出した。封筒の表には、サケ・マス監視のアメリカ人オブザーバーたちの名前が書かれている。スティーブ、アラン、トム、マイクから北山への手紙だった。
「国際課には随分前に届いていたようだけど、俺に渡されたのは三日前のことさ」
申し訳なさそうに軽く頭を下げて栗山が言った。
アメリカ人たちの手紙が、北山には嬉しかった。久しぶりに大の親友に会ったような気がする。今すぐにでも封筒を開きたかったが、北山は船内の挨拶回りを優先させた。
船長室を訪れると、身長が高く、血色の良い顔をした、どこか英国風の紳士を連想させる人物がいた。三宅船長である。話し好きらしく、初対面から「通訳というのは大変でしょう。よろしく頼みます」と、滑らかな口調で気配りを見せた。
操舵室へ上がると、偶然にも一等航海士の山本がいた。「海の日」のトラブルの際、仲裁に入ってくれた人物である。「その節はどうもありがとうございました」と北山が礼を述べると、「お礼なんてとんでもない。悪いのはうちの竹田船長だったんだから」という言葉が返ってきた。しこりのように北山の胸につかえていた何かが、自分を分かってくれる人がいたと思った瞬間、ようやく取れたような気がしてくる。
ひと通りの挨拶を終え、北山は通訳官室へ戻った。早速、手に持っていた封筒を開く。スティーブの手紙を見ると、日付は半年前の八月下旬であった。
「親愛なる北山さん。乗船中は様々な面倒を見ていただき、お礼を申し上げます。これまで数人の日本人通訳に会いましたが、あなたほど印象に残った人はおりません。これは誉め言葉です。というのは、初めてのオブザーバー業務で、最も年少だったアランが船酔いで苦しんでいた時、親身になって彼の面倒を見てくれました。食事もとらず部屋に閉じこもっていた彼に、貴方は何度も日本の菓子を運んでくれたと聞きました。団長として、心からお礼を申し上げます」
菓子とは、竹の皮に似た紙に包装された「米屋」の羊羹であった。二日間で四本全てをアランに食べさせたのだが、まだアランが欲しがるのを「もう無いんですよ」と言うのが心苦しかったのを思い出す。
心苦しかったのはアランに対してだけではなく、京子に対してでもあった。二ヶ月半、どこにも上陸できないと知った京子が、日持ちが良いものをと言って北山に贈ってくれたのに、自分は一口も食べなかったことになるからだ。もったいないと航海の終わりに近づくまで大事にとっておいた好物を、アランが細長い箱から取り出し、少しずつ手でちぎって食べている光景が思い浮かぶ。
「七月二十日の出来事は残念でした。日本人にとって当たり前のことを尋ねた我々の責任です。貴方は通訳としての仕事をしただけであり、貴方の過ちでは決してありません。お詫び申し上げると共に、今後の貴方の活躍を祈ります」
再会を楽しみにしているという言葉で手紙は結ばれていた。
スティーブの手紙を読み終え、次にマイクの手紙を読むと、彼がテキサス出身で、ひどい方言だと仲間からからかわれていたのを思い出す。スティーブと同じようにアランの手紙にも、船酔いの時の礼が述べられていた。
四人の手紙を読み終えると、懐かしさがこみ上げるとともに、寂しくも感じられた。全てが遠い昔の出来事のようであり、もはや今年のサケ・マス監視に自分が行くことはなく、彼らと会うことは二度とないのだ。
4
これといった事件もなく、乗船して十日が過ぎた。通常の監視業務は二週間単位の契約なので、あと四日もすれば今回の勤務は終わりである。北山は東京に戻らねばならない。いつもは待ち遠しい下船の日も、今回に限っては嬉しく感じられず、むしろ陸に上がるのが憂鬱な心境であった。
監視船の夕食は早い。夕方の五時半頃に、北山は自室に引き上げていた。船は釧路へ帰港するタイミングを見計らいながら、エトロフ島沖で漂泊している。
通訳官室のドアがノックされ、監督官の栗山が入ってきた。
「漁船から緊急無線を受け取ったよ。北緯五十二度二十分、東経百五十九度三十分というからカムチャッカ半島沖らしいが、沿岸警備艇の臨検を受けているということだ。かなり慌てているみたいだな」
飄々とした口振りで栗山が言う。どんなに遠くても監督官庁の役目上、要請があれば行かざるを得ない。それをわざわざ通訳にも知らせてよこす栗山の心遣いが北山は嬉しかった。
「領海侵犯か、それとも何か余計なものが網にかかっていたんでしょう」
備え付けの机に向かって小説を読んでいた北山は、栗山の声を聞くと即座に顔を上げて言った。北山が「何か余計なもの」というのは、漁獲が禁止されている品目のことである。引き上げたばかりの網にかかっていることが頻繁にあり、海へ戻さずにいた状態で臨検を受けると協定違反として処罰されるのだ。
「どちらか分からないが、まあそんなところだろう。しかし、どうしたものかな。問題は低気圧さ。かなり大きい奴が近づいているようなんだ」
親しい友達に相談するかのように、首を傾げながら栗山が北山を見つめる。
「拿捕された可能性があるのなら、行くしかないのではありませんか。それが我々の仕事ですから」
北山の言葉に我が意を得たりと、満面の笑みを栗山が見せた。
二人は通信室へ向かった。三宅船長も来ており、共同通信社から入電したばかりの天気図を、通信長と一緒にのぞき込んでいる。
「厄介なことになりましたね。ロシアの警備艇に臨検されているとなると、そう簡単には釈放してもらえんでしょう。まあそれはそれとして、大型の低気圧が日本海から北海道に近づいていますが、どうしますか。下手をすると、八百ミリバール近くの大嵐に発達する可能性もあると思われますが」
仮眠の途中だったのか、目を赤くした三宅船長が栗山監督官に向かって言った。冬のシーズンになると、日本海から北海道に上陸した低気圧は東に進み、根室あたりで方角を北に変える。そして、千島列島沿いに北上する低気圧は、十中八九、大型の台風に発達するのだ。通常の台風は九百ミリバール程度であるが、三宅船長が八百ミリバール近くに発達するかもしれないと言うのは、少しも大袈裟ではないのである。
「燃料に問題がない限り、出来るだけのことをして欲しいのですが」
大嵐になる話を聞いた栗山が、歯切れの悪い口調で三宅船長に頼み込む。
「分かりました」
栗山の言葉に、間髪を入れず船長が応えた。世界一の荒海と言われる南氷洋で鯨を追いかけてきた人物である。その言葉は、不安のひとかけらも感じさせなかった。
5
夜を徹して船は北上し、昼過ぎにカムチャッカ半島沖の現場海域に到着した。北山は栗山とともに操舵室に上がり、舵を握る船長とともに拿捕されている漁船を探す。
現場海域で捜索を始めて二十分もすると、ソ連の警備艇が見えた。どんよりと曇った寒空の下に、黒と灰色の船体が浮かんでいる。船首と船尾には数門の機関砲が剥き出しになっていた。
警備艇の横には、白い船体の小さな船が、波に揺られて停泊している。拿捕された漁船であろう。一瞬にして、操舵室に緊張感が走った。
距離を隔てて警備艇と監視船が横並びになると、警備艇からボートと縄ばしごが降ろされた。やがてボートには水色のセーラー服姿をした水兵七、八人が乗り込み、続いて将校らしい軍服姿の二人の人物が縄ばしごから飛び移った。
大きくうねる海の上を、ウィーン少年合唱団を思い起こさせるセーラー服を着た、少年のような若い水兵たちが懸命にオールを漕いで、ゆっくりと監視船に近づいてくる。ソ連側を出迎えるために、操舵室から狭い階段を北山は駆け下りた。
ボートが監視船に横付けすると、二人の将校が乗り込んできた。厳めしい軍服姿が、交渉の難航を暗示しているようである。
甲板に降りて出迎えていた北山を、極度の緊張感が襲った。まだ乗り移ってくる軍人がいないかとボートを見ると、ソ連側の通信兵が二人おり、一人は通信機を抱え、もう一人は年代物の大きなバッテリーを背負ってボートで待機している。
士官食堂に通された二人の軍人が着席すると、すぐに会談が始まった。ソ連側は艦長とお付きの若い将校、日本側は栗山と三宅船長、それに北山の三人である。ソ連側の艦長はアレキサンドル大尉と名乗り、五十歳前後の大柄な人物で、赤い顎髭を蓄え、スラブ系特有の潤んだような青い瞳をしていた。厳つい軍服姿だが、さわやかな印象が漂っている。
「貴船の到着を歓迎します。低気圧が接近している中、良く来てくれました。それでこそ海の男だ」
いかめしい顔で会談の口火を切ったアレキサンドル艦長の言葉を北山が通訳し終わると、形相を崩したアレキサンドル艦長が隣の栗山に握手を求める。着席時の張りつめていた雰囲気が俄に和み、まずは三宅船長の音頭で乾杯ということになった。
白い布の掛けられたテーブルには、ウィスキーが半分ほど注がれたコップの他に、サラミソーセージ、厚切りのチーズ、マヨネーズ付きのキュウリが並べられている。
ウィスキーの入ったコップをひょいと掴み、ストレートのまま一口で飲み干すと、笑みを浮かべたアレキサンドル艦長が言った。
「今日に限って、難しい話は抜きにしましょう。日本側の漁船も不実記載の罪を認め、態度は神妙です。友好には友好をもって応える。それが我々の礼儀です。日本漁船は、無条件で即時釈放します」
艦長の言葉を北山が通訳すると、嬉しそうな表情を浮かべて栗山が頭を下げた。それに習って三宅船長と北山も頭を下げる。
談笑が五分ばかり続き会談は終わった。
「嵐が近づいています。無事帰港されるよう祈ります。次に出会ったときは、もっとゆっくりやりましょう」
立ち上がったアレクサンドル艦長が栗山の肩を抱きながら言う。それから北山の手を握ると、通訳の労をねぎらって感謝の意を述べた。
6
機関室からのエンジン音が凄まじい。監視船は全速力で釧路港へと南下している。
夜は八時を過ぎた。船はまだエトロフ島沖にも辿り着いていない。監視船の揺れがひどくなってきた。予想以上に早く、低気圧が近づいているらしい。がつん、がつんと波が船腹にあたる音が聞こえ、二階にある通訳官室の丸い船窓に白い泡しぶきの飛び散るのが見える。
机に向かっていた北山は、大人しく椅子に座っていられなくなった。立ち上がると北山の体は右へ左へと船が傾くたびに部屋の壁に押しつけられる。
やがてふわりと身体が浮かび、船が横滑りをするようになった。これまで以上にうねりが大きくなってきたのである。
やがて、右に左に船の傾きが大きくなり、なかなか復元しないようになった。
部屋の中央にある天井灯が、一瞬、消える。発電器のある機関室が浸水し停電になるかと思ったが、すぐに正常に戻った。まだ深刻な事態にはなっていないらしい。
船の軋む音が聞こえた。遭難の二文字が脳裏に浮かぶ。四十年前に建造された船ともなると、分解することもあるのかもしれない。ふいに、京子と言葉を交わすこともなく別れた辛さが蘇ってきた。乗船以来、押し殺してきた京子への思いが北山の胸に溢れる。
その時、この冬場の海に飛び込めば、三十秒もたたずに凍えて息が絶える、苦しむ余裕もなく死んでいける、彼女と別れた虚しさ、ふがいない自分から逃げられるという考えが北山の頭に浮かんだ。
外は漆黒の闇である。海に飛び込む自分の姿を想像した。
(これで人生はお仕舞いだ。ぐずぐずするな)
心の中で、早くしろ、早くするんだとばかりに、見知らぬ声が北山の行動を促していた。
(これで楽になれる。良かったな)
更に追い打ちをかけて囁く声が聞こえる。
そうかもしれないと、相づちを打つ自分がいた。通訳の夢もままならず、京子という心の支えも失い、もはや将来の希望は無くなっている。
(もう、どうしようもないのだ。さあ、立ちあがれ。嵐の中、船員たちは忙しい。俺のことなど誰も構いはしないだろう。あっさり海に飛び込むんだ)
心の声に従って大きく息を吸い込んでから、甲板へ出るために北山は通訳官室のドアを開けた。
「ああ、びっくりした」
ドアの外に、おどけるように目を丸くした三宅船長が立っていた。
「助けてくれんか。甲板が凍りついてどうにもならん。このままだと船が転覆しちまうんだ。こんな凄い嵐は南氷洋でもなかったぜ」
穏やかな笑みを浮かべながら、船長が非常事態を訴えてくる。
北山は我に返った。船が沈む、助けてくれと頼まれて逃げるわけにはいかない。自分のことを考えている場合などではないのだ。
北山が頷いて見せると、船長はゆっくり背を向けて甲板へ出ていった。部屋の片隅に置いてあった長靴を履き、防寒服を羽織ると北山は船長の後を追う。
7
二階から下に降り、凍り付いた厨房のドアを押し開けて甲板に出た。頭上のマストから弱々しい明かりが照らされているものの、船の外はまっ暗闇が支配している。
数十センチもの厚い氷が、甲板を覆っていた。その氷の上を、泡のような白い波が渦を巻いて漂っている。よほど気を引き締めて作業にかからなければ、足下が掬われて海に引き吊り込まれそうであった。
「来てくれたか、通訳さん。風速は七十メートルを越えている。波だって二十メートルの高さはあるぞ。頭を低くして、舷側の手すりから手を離すな」
凍てついた氷の甲板で、四つん這いになり氷を砕いていた三宅船長が、豪快な笑い顔を見せながら傍らの大きなハンマーを北山に手渡した。
船長と頭をつきあわせ、波に引きずり込まれないよう手すりを片手でしっかりと握り、腹這いの姿勢をとって北山はハンマーを振り下ろした。片手のせいもあり一度だけでは砕けない。力任せに、二度、三度と叩きつける。
「栗山監督官から聞いたよ」
船長が大声で北山に話しかけてきた。
「ロシア船の話が駄目になったんだってな。水産庁もひどいことをするもんだ」
ハンマーで氷を打ち砕きながら三宅が言った。
「いいんです。もう過ぎたことですから」
北山も大声で言葉を返した。もはや何も元には戻らない。それよりも、栗山監督官や三宅船長が北山の無念さを理解してくれている様子が、何故か嬉しく感じられた。
目が暗闇に慣れてくると、海の向こうにうっすらと水平線が白く見えたような気がしたが、それは錯覚だった。白い波の筋が天にも届くような高さに盛り上がり、それが沈むとまた次の筋が見えてくる。巨大な断頭台が刃を光らせて押し寄せてくるようであった。海水の固まりが、次から次へと襲いかかって来る嵐の光景なのである。
やがて、映画のスクリーンのように高く盛り上がった波が、北山の眼前に押し寄せ、船の舷側にぶち当たった。船に衝撃が走る。持っていたハンマーが波にもぎ取られ、監視船もろとも北山の身体は飛び上がった。
これで俺の人生は終わりだと思った瞬間、父や母、姉、京子の顔が、まるで写真のフラッシュのように次々と脳裏で点滅した。信じられないことだが、わずか零コンマ数秒の間に閃いたのである。その時、「死んでなるものか。それほど俺は柔くないぞ」という考えが浮かんだ。生きたい願望が適ったのか、北山が手を伸ばすと、そこに手すりがあった。
「緊急避難の申し入れをソ連側にしてくれんか。これからが嵐の本番だ」
船長が北山の腕を掴み大声を出した。冷たい海水でずぶ濡れになっていることを感じながら、北山は我に返った。
北山は船内に戻り、通信室へ駆け上がる。栗山が待っていた。
「緊急避難の要請をソ連側と交渉します。無線を使わせて下さい」
北山が船長の命令を伝えると、夜間当直の副通信長が不安げな様子を見せた。嵐を突っ切るつもりで南下を続けてきたのだが、これから船を反転させて安全な場所に逃げ込めるのか、ソ連側の許可が得られるのかと心配しているのだろう。
北山の後を追ってきた船長が、全身から海水をした垂らせたまま海図を広げる。暴風を避け、碇を降ろして停泊が可能な島影を探そうというのだ。
「シュムシュ島とホロムシロ島の間に避難したいと、ソ連側に頼んでくれんか」
カムチャッカ半島の真下にある島を船長が指さした。千島列島最北端の島、1945年八月十五日に日本が無条件降伏した後も、日ソ間の戦闘が繰り広げられた島である。
船長の言葉に頷いてから、無線のトークボタンをしっかりと押して北山はソ連側を呼び出した。雑音が飛び交っている。嵐のせいか、かなり電波状況が悪い。手に汗がにじみ出てくるのを感じながら、北山は呼び出しを続けた。
五分ほど通信を試みると、北山の呼び出しに応える人の声がかすかに聞こえた。ロシア語である。ソ連の沿岸警備局だと分かり、北山は緊急避難の申し入れを行った。
「貴船の位置を確認した。緊急避難を許可する。三十度方向に岩礁があるので注意せよ。幸運を祈る」
無線機の脇で聞き耳を立てている三人に向かってソ連側の回答を北山が伝えると、全員が表情を崩した。
8
船にあたる波の音と揺れが激しさを増す中、重い碇を降ろすウィンチの音と振動が伝わってくる。カムチャッカ半島直下のシュムシュ島とホロムシロ島の海峡に着いたのだ。船窓から外を見ると、あらためて真っ暗闇であることに恐怖感を覚える。船のエンジンが止まり、停泊するのを通信室で確認してから北山は寝床についた。
何時間眠ったのか、船窓から差し込む太陽の光に照らされて北山は目が覚めた。重いハンマーを何度も振り降ろし、その上、大波にさらわれまいと鉄柵にしがみついたせいか、右腕の筋肉が異常に痛い。
枕元の腕時計を見ると午前十時を回っていた。朝食の呼び出しがあったのだろうが、気がつかずに寝ていたらしい。
防寒服に身を固めて、北山は通訳官室のドアを開けた。冷え切った空気の船内に人の気配はなく、発電機の音だけが聞こえている。明け方までの作業で、まだ大半の乗組員は寝ているのだろう。
薄暗い船内から上甲板に出た。眩しい。降り注ぐ陽の光に思わず目を細め、頭上に広がる青空に向かって北山は顔を上げた。外気が凍えるように冷たい。そっと息を吸い込むと、何本もの細い針で刺されたように鼻の奥に痛みが走る。
甲板の手すりに歩み寄って見ると、目の前にはシュムシュ島を背景にした世界が広がっていた。あちこちの海面から水蒸気の煙が立ち上っている。海よりも外気の温度が低いからだが、マイナス二十度は越えているに違いない。
寒さに堪えて海を見つめていると、ゴリッ、ギシッという軋み音が、どこからか聞こえてくる。オホーツク海側に目を向けると、それは流氷が押し寄せてくる音であった。オホーツク海は、北半球最南に位置する凍る海だという。アムール川の真水が大量に流れ込み、そこにシベリアの寒気が包み込むので凍りやすくなると言われている。
オホーツク海から押し出された流氷が、太平洋に向かって通り過ぎて行く。朝日を浴びる流氷の上には無数の金粉が舞飛び、キラキラと光の輝きを見せていた。ダイヤモンド・ダストである。
北山は嗚咽しそうになった。世の中には、こんなに美しい世界もあるのだ。自分の存在がいかにちっぽけなものか、いかに自分が無知であるかを思い知らされる。
突然、北山の背後から「ドーブラエ・ウートラ(おはよう)」と呼びかける男の声が聞こえた。監視船に並んで避難していたロシア船の甲板からである。
振り返って、北山は声の持ち主に手を振った。ロシア人もそれに応える。お互い助かって良かったなとでも言うかのように、髭もじゃの彼の顔は笑っていた。穏やかな気持ちが北山の胸にこみ上げてくる。
昨晩の凄まじい嵐や緊急避難のことは、日本ではニュースにもなっていないだろう。しかし、多くの日本人が知ろうが知るまいが、それでも自分は生きている。ひとつ間違えば遭難していたはずなのに、監視船の乗組員や緊急避難を許可してくれたロシア人のおかげで生き延びられたのだ。
心が軽くなっていく。通訳の夢、美しい恋人、幸せな結婚。それら全てを失い、生きることに絶望していた自分が嘘のようであった。
数ヶ月後、自分は三十歳になる。それにもかかわらず、会社勤めもできず、これからどう生きていけば良いのかも分からない。京子を失った虚しさは深く、一生拭いきれないだろう。しかし、会社勤めをしていないこと、どう生きたら良いのか分からないこと、京子を失ったことが何だというのか。それが自分の青春だったのであり、これからも人生は続くのだ。自分が生きていること、生きていかねばならないことを思うと、むしろ全てを失ったことが心地よく感じる。
いつまでも悲しみや虚しさの感情に溺れ、自暴自棄になったまま立ち止まっているわけにはいかない。恐れても恨んでも、何も変わりはしないのだ。誰も振り向いてはくれないのだ。
甲板に立つ北山の頭上に広がる台風一過の青空が、冷たく澄み切った空間を通して何かを囁きかけている。それは過去の全てを思い出として呑み込み、前へ進めと北山に促しているようであった。
(終)
(この話はフィクションです。登場する人物や団体名は、実在する人物や団体とは一切関係ありません)
通訳物語 南風はこぶ @sakmatsu
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