以上が、リリッカとの想い出です。
夜になると、今でもたまに思い出します。
あのぬるい夜気の中に、ふわっと甘ったるい匂いが紛れていたころ。
あれは、まだ大学にいた頃でした。あまり外に出ることもなく、代わり映えのない日々に埋もれていた、
けれども、不意に「何か」が割り込んでくる隙間のような時間のなかに、リリッカはいました。
名前の響きからして、なにかのキャラクターのようだけれど、
リリッカは、虫でした。少しかわいい虫。誰かがそう名付けたんです。
たぶん最初にTwitterで見かけたのは2016年だったと思います。
誰かが「うちの押し入れにちっちゃい白いやつがいた。少しだけかわいい。名前つけてリリッカ。」と。
たったそれだけの投稿が、妙に記憶に残りました。
そこから、あれよあれよという間に報告が増えて。
見た、見かけた、音がした、羽根があった、匂いが残ってる——そんなふうに、
いくつもの断片的な「リリッカ」が、あちこちの家に現れては、じわじわと消えていきました。
どこか曖昧な目撃。正面からは決してとらえられない。
でも、ほんのりと甘くて、こわくて、かわいくて、さみしい。
まるで記憶に住みつくウイルスみたいな存在だったんです。
わたしたちは、それを追って、記録しました。
わたしの所属していた都市伝説研究会「仮虫文庫」では、
誰が言い出したのかはもう思い出せないけれど、
「リリッカは“接触可能な夢”だ」という仮説が真面目に議論されていました。
押し入れの暗がりに漂う空気、
使われていない毛布の湿気、
子供用ぬいぐるみの顔——
それらが、夜のなかでリリッカの身体になり、私たちの記憶の中に少しずつ侵入していく。
一時期は本当に、夢にまで見ました。
部屋の隅でごそごそ音がして、カーテンの裏で白く揺れる“それ”が、
何かを伝えようとしていた気がして、
でも、その言葉は、最後まで聞き取れなかった。
いちばん怖かったのは、2018年の秋です。
ひとりの後輩が、リリッカについて奇妙なことを言い始めました。
「リリッカは、何かの呪いで、もともと人間だったのかもしれません」って。
「1934年に死んだ八代家の少女の文献があったでしょう? 彼女がはじまりだったんじゃないかって」
その話を聞いた時、わたしはなぜか背中がすっと冷たくなったのを覚えています。
それは、都市伝説が都市伝説を超えてしまう境界線でした。
だれかの語りが、だれかの記録を侵食して、
ひとつの形を持った“存在”が、ネットワークのなかに潜り込んでしまった。
あのとき確かに、何かが完成してしまった気がしました。
それと同時に、リリッカは、消えていきました。
2019年以降、リリッカの報告は急速に減り、
2020年には完全に途絶えました。
だれも、話さなくなりました。
まるで、「語られること」が彼女の存在条件だったかのように。
わたしたちは、音声を文字に起こし、ノートに夢を写し、DMで疑問を共有し、
あの時代をリリッカと一緒に走り抜けました。
でも、それは「語っていたからこそ存在していた」という脆い関係で、
いま、それが終わった以上、リリッカは帰ってこないんです。
わたしの部屋には、もうリリッカはいません。
押し入れのなかは埃っぽくて、なにも動かず、ただ古い布団が沈んでいます。
ぬいぐるみも、白い羽根も、冷たい気配もない。
夢の中にも、もう出てこない。
思い出すのは、あの独特のにおいと、誰かがこっそり言った「かわいかったよね」という一言だけです。
誰もちゃんと姿を見たことがない。
誰も存在を証明できなかった。
でも、確かにいた。確かに語った。確かに追いかけた。
だから、こうして記す最後の言葉として
以上が、リリッカとの想い出です。
このあとはもうずっと、リリッカは現れなくて、
どうしたって、リリッカは帰ってきませんでした。
リリッカの話 草木十 @somokto
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