古い日記

今さら見つけた資料です。



昭和九年(1934) 冬の終わりごろ


「リリカとはもう、きっと会えないのです」


あの子のことを書き記さねばならぬと、昨夜ふいに思い立った。

けれども筆を取る手が、なぜかいつも途中で止まるのです。

記憶に曖昧なところが多すぎるのか、それとも、記すことで何かを呼び戻してしまうのが怖いのか。

それすら判然と致しません。


八代リリカという名の、あの少女。

遠縁にあたる、わたくしの叔父の家に引き取られていた子です。

元のご両親は関東大震災の折に亡くなられ、その後の養育は八代家に委ねられたと聞き及んでおります。


初めて会ったのは、昭和六年の暮れでした。

まだ五つか六つの幼さで、喋り方もおぼつかず、しかし言葉を使わずとも、周囲の意図を見透かすような目をしていた。

淡い色の着物を好み、よく箪笥の中に潜り込んでは、ひとりで何事かを口の中で繰り返しておりました。

それが歌であったのか、呪文であったのか、今となっては思い出せません。


リリカには、少し不思議なところがございました。

たとえば、彼女の入る部屋だけ、冬でもしんと冷えるのです。

夜分、廊下を歩いていると、彼女の部屋の襖の向こうから、ひそひそ声が聞こえてくる。

覗いても誰もおらず、リリカはただ、箪笥の下の隙間をじっと見つめている。

まるでその奥に、誰かが潜んでいるかのように。


ある日、リリカがわたくしに申しました。

「きょう、虫が来たの」

「どこから来たの?」と尋ねると、

「押し入れから。でももうお家の中にいるから、大丈夫」と。

それは、ほんの戯れ言だと思っておりました。が、

その夜から、わたくしの寝所にも、妙な匂いが漂うようになりました。

甘ったるくて、布に染みるような、薄荷とも香水ともつかぬ、妙な匂い。

家の者は気づいておりませんでしたが、あれは確かに、あの子が連れてきた「何か」でした。


——時折、部屋の隅に白い羽根のようなものが落ちておりました。

——照明がぴくりと揺れるたび、箪笥の奥からかさこそと音がする。

——そしてある夜、ふいに目を覚ますと、布団の縁に何かが乗っていたのです。


思い返せば、リリカが八代家に来てからというもの、

家中のあちこちで説明のつかぬ出来事が起きておりました。

棚の中の物が位置を変え、冷気が漂い、雛人形の顔がどことなく違って見える。

叔父もまた、それらに気づいていたようでしたが、あえて口にしないことで何かを避けようとしているようでもありました。


リリカは、その後、だんだんと外に出なくなりました。

家の奥、納戸の隅で何時間も動かずに座っていることが増えました。

食も細くなり、声も出さず、ただ時折、押し入れの襖に頬を押しつけて何かを聴いている。

その顔が、ときおり笑っていたような気がするのです。

とても、やさしく、なつかしむように。


そして、ある朝。

彼女は、いなくなっておりました。

布団は敷かれたまま、誰の足跡もないまま、

まるで最初から、そこに誰も居なかったかのように、姿が消えていたのです。


警察の調査も行われました。が、失踪の痕跡はまったく見つかりませんでした。

八代家ではその後、リリカの存在そのものを話題に出すことを避けるようになり、

次第に彼女のことは忘れられていきました。

まるで、家そのものがリリカの記憶を呑み込んでしまったかのようでした。


けれども、わたくしの夢の中には、いまだに彼女が現れることがございます。

古びた障子の向こうから、あの匂いとともに、ふっと影が覗くのです。

そして、何かを言いかける口の動き

でも、どうしても音にならない。


近頃、世の若者のあいだで「リリッカ」と呼ばれる奇妙な虫の話を耳に致しました。

白く、小さく、どこからともなく現れ、押し入れに住みつくというその描写は、

あの子が語っていた“虫”とまるで同じで、

わたくしはしばし、胸の奥に冷たいものを感じたのです。


けれども、それが本当にあの子と関係あるのかは、判りません。

もう、確かめる術もないのです。

何もかも、夢のように遠くなってしまいました。


たとえあれが、彼女の“残り香”のようなものであったとしても、

リリカという名の少女が、確かにこの家にいたことだけは、わたくしの中に確かに刻まれております。


もう、彼女とは会えぬでしょう。

たとえ夜な夜な押し入れの隙間から風が吹いてきたとしても、

それが誰かの声を運んできたとしても、

それでも、


リリカとはもう、きっと会えないのです。

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