第三章 鳥籠を破る者たち(拾弐)
――そのとき、時間が音もなく裏返った。
封印の間を満たしていた張り詰めた気配が、まるで白紙に落ちた墨のように静かに滲み出し、やがて、空気そのものがやわらかくほどけていく。
重苦しい結界の律動がほどけ、何かが――否、すべてが、静かに“塗り替えられてゆく”感覚が、場にいる者すべての胸を打った。
次の瞬間、そこに光が差していた。
閉ざされた空間にありえぬはずの陽光が、春霞のようにやさしく降り注ぎ、冷たく硬質だった空気を、穏やかな温もりで包み込んでゆく。
「……これは……?」
誰かの呟きが、風に溶けて消えるより早く、その目の前に――世界が広がった。
咲き乱れる草花。
幼い草の緑に、風に揺れる薄桃の花びら。
淡い光をまとったその色彩は、現実よりも鮮やかで、夢見る景色のようだった。
頬を撫でる風は涼やかで、草の匂いが記憶の奥をくすぐる。
誰もが、その場に根を下ろされたように動けなくなった。
風に混じって、小さな足音が聞こえる。
ざっ、と乾いた草を踏み締める音。
続いて、その向こうから声が生まれる。
「きれいだねぇ」
その声は、どこまでも澄んでいて、まるで鈴の音のように無垢だった。
その言葉に、振り返る少年の姿があった。
ひとつに束ねた黒髪、幼さを残す面立ちには、静かな誇りと、透き通るような優しさが宿っていた。
「まるで、里が目を覚ますようだね」
その声は、まだ高く、けれどどこか落ち着きがあり、子どもと大人のあわいに立つ者の響きをしていた。
二人の子ども。
その容貌は、紛れもなく。
かつて狼巴が零した言葉。
己の故郷は滅んだのだ、と。
だが、目の前にあるものはただの記憶ではなかった。
――魂の底に眠る、もっと原初的な場所。
“ふたりの原点”に刻まれた風景だった。
「ぼくは、強くなれるのかな」
その言葉に、ふと目を細めて、笑う。
「本当の強さはね、怖くても前に進もうとする心だ。きみが、そうであるように」
小さな影が駆けてくる。
肩までの髪、赤く大きな瞳、愛らしい頬。
幼い狼巴が、まっすぐな目で、その言葉を胸に刻むように見上げていた。
「でも、まだなにもできないもん……」
「できるよ、きみには」
そっと膝をつき、少年と同じ高さに目を合わせる。
「きみの手は、こんなにもあたたかい。
誰かを傷つけないというのは、それだけで、尊い力だ。
世界を癒すのは、剣じゃない。きみが笑ってくれる今、俺は救われている。そういう力も、あるんだよ」
小さな手が、袖をきゅっと掴む。
風がそっとふたりのあいだをすり抜け、白い花びらが舞い上がる。
光が、包み込んでいく。
やわらかで、静かで、満ち足りた光。
それは、封印の間に映し出された“魂の記憶”。
誰ひとり動けず、誰ひとり口を開けず。
ただ、見届けるしかなかった。
ふたりの心の深奥が、時を超えて呼び合い、再び重なりあった、祈りのような瞬間。
光の粒が、そっと舞っていた。
木漏れ日でも、火の粉でもない――あれはきっと、ふたりの言葉が呼んだ、目には見えぬ祝福のようなもの。
白魚のような手が、少年の頬にふれる風のように、添えられる。
狼巴はその手を受け止めるように、少しだけ頬を寄せた。
言葉にならぬ安らぎが、ふたりのあいだを通りすぎていく。
「ずっと一緒にいてくれる?」
小さな声で、けれど真っ直ぐに。
それは願いではなく、約束を交わすような響きだった。
少年の瞳を見つめたまま、彼はゆっくりと頷く。
その頷きは、時を越えて、未来へと灯をともすもの。
「どんなに遠く離れても、きみのことは、忘れない。きみが手を伸ばすかぎり、俺は、必ず応えるよ」
それは春の陽射しのように、狼巴の胸の奥に届いた。
まるで小さな種が心に埋められるように。
やがて、歳月を経て芽を出し、揺るぎない強さとなって花開くのだと、誰も知らぬままに。
ふと、遠くで風が哭いた。
それは森の深く、東の境から吹く兆し。
一瞬だけ、まるで夢のなかにいるような錯覚が胸をよぎる。
けれど、隣には、温かな重みがあった。
狼巴が、そっと腕を絡ませたまま、目を閉じていたのだ。
「……ねぇ、⬛︎⬛︎⬛︎⬛︎。ぼく、」
風に、言葉がほどけていく。
ただ黙ってその頭を撫でた。
その仕草には、惜しみない愛情と、名を持たぬ祈りが宿っていた。
――願わくば、きみが、傷つくことなく
――願わくば、きみが、愛するものを守れるように。
陽は高く、空は限りなく青く、そしてその青さの向こうに、いつか訪れる別れが、静かに息をひそめていた。
それでも、この一瞬だけは。
確かに、たしかに、ふたりは隣にいた。
それだけで世界は、永遠よりも美しかった。
その瞬間、煙霞の幻は砕けるように消えた。
風が、記憶という名の幕をはがすように吹き抜け、白い花弁と共に、光景は砂のように崩れ去った。
そこに残されていたのは、粉々に破壊された封印術具。
そして、その破片の中心に、力なく横たわる一つの身体――紫夕だった。
静けさが、場を支配していた。
だが、それは封印中の“時間を止められた静寂”ではない。
それは、“命が終わった後”の、取り返しのつかない沈黙だった。
狼巴の足が、勝手に動いた。
理屈も、記憶もなかった。
ただ、その胸の奥に、何かが裂けるような音を立てた。
身体よりも先に、魂が駆け出していた。
「……っ……!」
封印具の破片を蹴散らすようにして、彼は紫夕のもとに膝をついた。
その顔は、ただ眠っているように見えた。
だが、肌の下に感じる温もりは、すでに遠い。
この人は、自分の“何か”だった。
決して失ってはならなかった何か――世界の輪郭を形作るような存在だった。
叫びは言葉にならなかった。
記憶のない魂が、ただ事実に抗っている。
「どうして……」
その呼びかけも、何処から来た言葉かはわからなかった。
幻の中の自分は、言っていた。
「ずっと一緒にいたい」と。
けれど――"その人"は、自分を捨て。
現実の自分は、封じた。
永久に帰らない存在として。
その慟哭は、誰の慰めも拒絶した。
それは、彼の中の“空白”が、ようやく痛みとして現れた瞬間だった。
彼が失ったものの正体を、
彼が奪ったものの重さを、
そして何より――
愛していた者の名前を、思い出せないという絶望を。
景久は、一歩、距離を取って立ち尽くしていた。
何も言わず、ただその光景を見下ろしていた。
その目に浮かんでいたものは、勝利の愉悦ではなかった。
崩れ落ちた封印術具の破片が、床に静かに転がっている。
式の鎖は消え失せ、結界の縁は褪せ、ただ冷たい石床に晒された、ひとつの身体。
景久はその姿を見下ろしながら、微かに息をついた。
それは、命の在り方として、あまりにも洗練されすぎていた。
「……やはり、君は、人ではない」
呟いた言葉は誰にも聞かれていなかった。
狼巴は、紫夕の前で、呆然としている。
ああ、なんという構図だろう。
兄は弟を守るために眠りにつき、
弟はその兄を忘れたまま、ようやくその喪失を理解する。
それを引き出したのは誰だったか。
「……私だ」
景久は、自嘲するように微笑んだ。
毒を撒いたのは己自身であり、いま目の前にある悲劇は、すべて仕組まれた儀式のようなもの。
だが――それでも、
景久には紫夕が眩しく見えた。
傷だらけでも、薬に侵されても、封じられても、なお。
気高く、冷たく、優雅で、透明な魂。
そして、妬ましくもあった。
片方が去り、片方が記憶を無くしても、その絆を断ち切れないことに。
景久は片膝をついて、紫夕の前髪をそっと払った。
眠るような顔。
その頬に指が触れた瞬間、妙な錯覚に陥る。
まるで、自分が彼の掌に触れられているような感覚。
景久の視線が、狼巴に移る。
彼は今、砕かれている。
けれどそれは、景久の欲していた姿でもあった。
愛玩とは、掌中で砕けるほどの繊細さと、再構築の自由とを伴うもの。
狼巴が完全に“己のもの”となるためには、こうして痛みを通さねばならなかった。
(……君は、彼の記憶を思い出すべきだったのか。それとも、そのまま私の腕に抱かれているべきだったのか)
景久自身にも、答えはなかった。
だが、少なくともいま確信していることがある。
この兄弟は、美しすぎる。
だからこそ、手放せなかった。
どちらか一方では意味がない。
両方が揃って初めて、“欠けた環”は完結する。
紫夕の亡骸に、もう一度視線を戻す。
その目は閉じたまま、まるで“今のこの瞬間”を記憶に刻んでいるようだった。
「君は眠る。だが私は――君を使う。
君の魂が沈黙する限り、私は君の力を使い続ける。
……それが君の望んだことではなかったとしても、だ」
最後の言葉は、ささやきだった。
景久は立ち上がり、狼巴を振り返った。
朝焼けのように輝く瞳は影を落とし。
ただ、過去に失われた何かを、暗闇の奥に探している。
封印の完成。
憎むべき仇と刷り込まれた、歪んだ記憶の果て。
だがその実、紫夕は――
狼巴の“兄”であり、“親”であり、
何より、最も深く愛したただひとりだった。
狼巴は、膝をついていた。
胸に渦巻く慟哭と、罪の熱に焼かれながら。
そのときだった。
天を切り裂くような、霊鳥の嘶きが霧の向こうから響いた。
長い尾羽を持つ一羽の鳥が、薄明のような光をまとい、風をまとい、舞い降りる。
陰陽の、式。
その姿を見た瞬間、景久は直感的に理解した。
慌てて駆け寄ろうとする。
この状況で、考えられることはたった一つ。
「止まれ……!」
叫び、手を伸ばす。
だが、足が、一歩先で止まる。
バチ、と音を立てて霧の中に閃光が走った。
式を中心に、結界が張られている。
足を踏み入れた瞬間、強烈な拒絶が肌を裂くように返ってきた。
「……っ、まさか…」
景久は息を呑んだ。
この結界はただの術ではない。
“誰も邪魔をさせない”という意志そのもの。
焦燥と苛立ちが混じる中、ふと――
景久の視界に、地に横たわる紫夕の身体が映った。
その表情はあまりに静かで、穏やかで、…どこか達観したようですらあった。
――ああ、そうか。
その刹那、景久はようやく悟る。
(おまえは、最初から)
紫夕は、すべてを受け入れたように見せていた。
罪を着せられ、憎まれ、最期には己の最も大切な“弟”に手をかけられてもなお。
微笑み、赦し、眠りについた――
そう見えた。
だがそれは、“終わり”ではなかった。
あれは、“託した”のだ。
己の魂が裂かれようと、狼巴だけはこの地から逃がすために。
――あんなもの、一介の式ではない。
主を失ってなお、意志を持って動いている。
まるで紫夕自身が、そこに立っているかのように。
霊鳥は、静かにそこに佇んでいた。
実体を持たぬはずの式神の眼差しが、景久の内奥を鋭く射抜く。
その紫金は、朝と夜のあわいを映すような、誰にも染まらぬ光。
それは、紛れもなく――紫夕の瞳だった。
ぞわりと、背が粟立つ。
「……おまえ、まさか……“魂”ごと、式に……」
転移陣が吼えた。
狼巴の身体を金の光が包み、瞬く間に空間がねじれ、重力すらゆがむ。
「狼巴!!」
景久の叫びも、もう届かない。
ひときわ強く光が弾けた次の瞬間、
狼巴の姿は、そこから消えていた。
残されたのは、舞い散る光の羽。
宙を舞い、ひとひら、またひとひらと静かに地に降りる。
そして、中央に横たわる影――
紫夕は言葉を残さなかった。
だがその沈黙こそが、何よりも雄弁だった。
完全自律型の式。
紫夕の魂の一部を宿し、主が動けぬ時でも意志を果たすために生み出された最終術。
景久の手は届かなかった。
結界は破れず、声も届かず、
まるでこの世の理に逆らうように、気高く、優雅に翼を広げていた。
(俺は……この賭けに、負けたのだ)
景久の胸に、静かな敗北の痛みが満ちた。
彼もまた、愛していた。
狼巴を。紫夕を。
二人を、共に手の内に抱こうと願った。
手に入れられると思っていた。
この腕の中に閉じ込められると思っていた。
けれど、紫夕はそのすべてを断ち、
“自らの手で狼巴を逃がす”という未来に、ただ一つの希望を懸けたのだ。
景久には、その想いを押し留める力もなかった。
風が静まり、霧が舞い戻る。
まるで、すべてが幻だったかのように。
残されたのは、静寂だけだった。
紫夕は、眠り続ける。
景久は、その眠りを前に膝を折る。
そして夜空の高みを、確かな意思と魂を抱いて昇っていく一羽の鳥。
《翳羽(えいう)》。
その軌跡は、まるで三つの想いをひとつに溶かし、
新たな運命の空へと、光の綾を紡いでゆくようだった。
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