第三章 鳥籠を破る者たち(拾壱)
静かに、まぶたが開いた。
濁った天井。
静寂。
そして、自分の鼓動の音だけが、遠くの鐘のように響いていた。
狼巴はゆっくりと呼吸を整えながら、視線を巡らせた。
見知らぬ天井。
白い帳。
だが、それは何も新しくなかった。
“どこかで見たことがある”ような気がした。
いや、違う。
“ここで目覚めたことがある”のだ。
手足には枷はない。
だが、全身が重い。
それは麻痺でも、毒でもなく――感情の名残だった。
何かを、忘れている気がする。
けれど、それが何かは、もう思い出せなかった。
頭の奥が痛む。
そこに“何か”が挿し込まれたような感触。
誰かの言葉。誰かの姿。誰かの――裏切り。
「……っ……!」
狼巴は、床に手をついたまま、苦しげに呼吸を繰り返した。
その時、扉が静かに開いた。
現れたのは、黒い衣を纏ったひとりの男だった。
景久。
「ようやく目覚めたか。狼巴」
その声に、反射的に身を引いた。
背筋が粟立つような感覚。
まるで本能が警戒している。
(……この人は、何者?)
「あなたは……誰?」
「私は、君を助けた者だよ。
……君の“兄”が、君を私に差し出してきたときのこと、覚えているだろう?」
ぞわり、と背中を冷たいものが這った。
景久の声音に込められた抑えた愉悦。
それは、狼巴の記憶の“奥底”に火を灯した。
――兄。
(兄……兄って……)
(ぼくに、兄がいた……?)
そこには、輪郭のない影があった。
手を伸ばそうとしても、触れられない。
顔も、名前も、全てが霧の向こう。
けれど、その影が――自分を売ったのだという記憶だけは、はっきりとあった。
「…ぼくを…差し出した…」
狼巴は、かすれた声でそう呟いた。
景久は静かに頷いた。
「そうだ。紫夕。……君の兄だ」
その名を聞いた瞬間、脳のどこかが鋭く疼いた。
だが、そこにあるべき情愛や懐かしさは、もうなかった。
ただ、冷たい怒り。
無力感。
裏切られたという記憶。
「……なんで、兄は……そんなことを」
「理由を聞きたいのか?」
景久は低く囁いた。
「……君が弱かったからだよ」
狼巴の全身が硬直する。
「役に立たない者は切り捨てる。それが“影”の掟……それが“本性”だ」
「嘘だ……っ、そんな……!」
叫びたかった。
否定したかった。
けれど、出てくるのは、空洞のような感情だった。
(どうして、ぼくは……こんなにも、誰かを憎いと思うんだ)
景久はなおも続けた。
「憎んでいい。
……忘れろ、かつての兄など」
「“記憶の中の兄”としてではなく、“仇”として、君の前に現れるかもしれない。
だが君は、そのときどうする?」
狼巴は、答えられなかった。
ただ、胸の奥にぽっかりと穴があいたような感覚だけが残った。
その夜、独りきりの寝所で、狼巴は目を閉じた。
眠れない。
夢も、見られない。
ただひとつ、耳の奥に残っていたのは、
自分の知らないはずの誰かが、優しく囁くような声。
(誰だ……?)
その名を探しても、もうどこにもなかった。
だが、心だけが知っていた。
“何か”が、切り離されてしまったのだと。
扉が、静かに開かれた。
それは、まるで神殿の扉のような重厚さを湛えた一枚だった。
それを前にしても、狼巴は表情ひとつ動かさなかった。
今の彼にとって、それはただの任務だった。
──仇に、会うだけだ。
「この先に、紫夕がいる。
君を売り、逃げ延びようとした者」
景久の言葉が、脳裏にこだまする。
“紫夕”。
その名前が、胸の奥でわずかに疼く。
けれど、それが何を意味しているのか、狼巴には分からなかった。
痛みだけが残り、理由はなかった。
名前だけが灰色に濁り、形を失っていた。
足音が、結界の床に吸い込まれていく。
黒く、鏡のような石畳に、自分の姿が映る。
かつての自分を、映し出しているような気がして、狼巴は一瞬だけ目を伏せた。
(何も……思い出さなくていい)
そう自分に言い聞かせる。
言い聞かせなければ、声が震えてしまいそうだった。
やがて、部屋の中央に据えられた術具が視界に入る。
それは封印台と呼ばれる特別な祭壇だった。
白磁のような装飾の中に浮かぶ、一人の青年の姿。
――紫夕。
静かに横たわるその姿は、まるで時を止められた人形のようだった。
衣は乱れず、表情も穏やかで、まるでただ眠っているだけのように見えた。
「……これが、“兄”」
狼巴は低く呟いた。
その言葉に、確かな痛みが滲んでいた。
思い出せないはずの何かが、胸を締めつけていた。
この男を、確かに知っている気がした。
この手を、何度も掴んだような気がした。
けれどその記憶は、引き裂かれ、穴が空いていた。
「……なぜ、ぼくを……売ったの」
問いかけに返る声はない。
ただ、術具の結界が静かに唸りを上げるだけだった。
「どうして……っ……」
狼巴の拳が震える。
爪が掌に食い込み、血が滲む。
(お前のせいで、全部失ったんだ)
――そう思いたかった。
けれど、目の前の青年は、あまりにも美しく、静かで、まるでこの世の穢れとは無縁な存在のように見えた。
怒りが、ぶつけられなかった。
景久が言っていた。
「仇と向き合えば、怒りは新たな強さを与える。だが、もし哀しみが残るならば、それを刃に変えろ」
刃に変えられるのだろうか。
この胸の疼きは、本当に“憎しみ”なのだろうか。
今はもう“兄”ではない。
景久からそう聞かされていた。何度も。
そして、今日――“終わらせる”べき存在だった。
景久の声が、背後から響いた。
「この儀式は、君を苦しめてきた兄から解放されるためのものだよ、狼巴」
その言葉に、狼巴の足がわずかに止まる。
手にした封符の重さが、じわりと掌に染みる。
「……兄は、ぼくを苦しめた……」
「そうだ。君の記憶に残るあの影、あの冷たい声、あの笑み――
すべては君の心に深い傷を刻んだ。だが、もう終わらせていいんだ」
景久の声は、まるで祝福のようだった。
罪の意識すら包み込むような、優しい毒だった。
紫夕の睫毛が微かに揺れる。
その身体の奥で、何かが確かに“抗っている”。
だが、狼巴には見えない。
聞こえない。
封符が、静かに空を裂いた。
狼巴の手から放たれた最後の札が、ゆっくりと紫夕の胸元に吸い寄せられていく。
封印の術式が重ねられ、結界の線が眩く輝き始める。
周囲の空気が張りつめ、時間すら凍りついたかのようだった。
その瞬間――
狼巴の視界に、なぜか白い花が舞った。
ありえないはずの情景。
だが、確かにあった。
風に散る桜。
手を伸ばせば届く距離で、小さな誰かが笑っている。
「ねえ、はやくこっち来てよ」
鈴のような声。
その顔は霞んでいて、輪郭は曖昧なのに――懐かしくて、苦しくて。
「………っ、」
狼巴は思わず膝をついた。
額に滲む冷や汗。
符の力が反発しているわけではない。
これは――内から響いてくる、“何か”の呼び声。
封印台の上、紫夕の睫毛が再び震えた。
今度ははっきりと。
口元が微かに動く。
それは言葉にならない、言葉だった。
「…ろ…う、は……」
(なぜ、兄が――)
記憶にないはずの兄が。
見覚えのないはずの面影が。
狼巴の中で、静かに、確実に――眠りから目覚めていく。
景久は、すべてを見ていた。
狼巴の顔に浮かぶ困惑、動揺。
それは計算の内だった。だが、ひとつだけ――
(……この“痛み”は、予定になかった)
景久の胸を、ざわつく感情が通り過ぎた。
焦りではない。だが、甘い毒のように粘つく不安。
狼巴の掌が震える。
最後の定着札が、紫夕の封印を完成させる鍵。
「……狼巴、どうした? もう一歩だよ」
景久が囁く。
けれど、狼巴の瞳には、もはや景久は映っていなかった。
彼は、ただ見つめていた。
その台の上に横たわる“誰か”を――
紫夕の睫毛が、閉じたまま濡れていた。
瞳を開くことのないまま、涙だけが零れた。
静けさが飽和していた。
時間は存在しているのに、どこにも流れていないような錯覚。
狼巴の胸にある心臓だけが、唯一の時を刻む証のように、静かに、けれど確かに鼓動していた。
指先の札が、微かに震えていた。
恐れか、疑念か、それとも――記憶の輪郭をなぞるような痛みか。
狼巴は札を掲げたまま動けずにいた。
紫夕の眠るその姿が、台の上の人形のようでありながらも、なぜか“懐かしさ”という言葉としか言いようのない情景を、胸の奥に生起させる。
「……迷っているのかい?」
不意に背後から響いた声は、やわらかく、それでいて刃のように鋭利だった。
「決断はときに、存在の根をえぐる。だが、決めぬまま留まるのは、影の水に足を沈めるようなものだ。いつか、自分の形すら見失ってしまうよ」
狼巴は答えなかった。
言葉が、喉の奥に張り付いて出てこない。
ただ、視線だけは紫夕から離れずにいた。
「思い出そうとしているのかい? 君が手を伸ばし、誰かがそれを受け止めた、その感触を」
静かに、景久の手が狼巴の手に重なった。
冷たい掌。
けれど、その冷たさは、火傷のように深く痕を刻んだ。
「君を苦しめてきた兄から、解放されるための儀式だよ。これは呪いではない。赦しの形式だ。君の苦悩を、この札が晴らしてくれるんだ」
「……でも、ぼくは……」
その言葉は、終わらなかった。
景久の指が、狼巴の手を強く押し上げた。
視線が、景久の横顔に吸い寄せられる。
その表情は、優しさでも怒りでもなかった。
ただ、揺るぎのない意思――“仕上げる者”の貌だった。
札から噴き出した式の鎖が、空間を裂くように螺旋を描き、紫夕の胸元へと、喉元へと、細く、冷たく巻きついていく。
唇がうっすらと開かれ、苦悶とも吐息ともつかぬ空気が零れた。
紫夕の眉が、かすかに寄る。
その顔は、痛みにすら気高く、どこか懐かしさを孕んでいた。
そして――
紫夕のまぶたが、わずかに開いた。
その瞬間、世界は一度、息を呑んだ。
狼巴の足が止まった。
まるで、大地に縫い止められたかのように、動けなかった。
視線と視線が交わる。
そこには言葉はなかった。
だが、言葉以上の“対話”が、確かに流れていた。
「……この目、知ってる」
狼巴は、呟いた。
自分の意思ではなく、胸の奥から漏れ出た言葉だった。
紫夕の瞳は、夜のように深かった。
星のように揺れて、全てを包み込むような輝きをたたえていた。
そして、その瞳は狼巴を見つめたまま――微かに、笑った。
それは、寂しさか。
それとも、受容か。
あるいは、ただの赦しだったのかもしれない。
景久には、見えなかった。
紫夕のその“笑み”の意味を。
それは狼巴にだけ、向けられたものだった。
そして、紫夕はゆっくりと瞳を閉じた。
瞼の端から、ひとすじの涙が零れ落ちる。
その雫が封印具の上に落ちた瞬間――式の光が、静かに、深く、閉じた。
永遠のような一秒が、そこにあった。
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