第四章 孤月の下
乾いた風が、ひとつの羽を運んできた。
宙を旋回し、風の流れを縫うようにして、廃都の丘にある石造りの屋敷へと辿り着く。
アムドは、その羽が彼の掌に舞い降りるのを、まるで待っていたかのように受け止めた。
指先でそっと羽根を撫でると、ほんのわずかに温もりがあった。
「……思ったより、早かったな」
交わした約束の証。
紫夕という忍が、命を賭して遺した術式。
その最後の式神が、今、沈黙を破った。
アムドは、唇の端をわずかに上げた。
静かに笑うその目の奥には、複雑な記憶と確信が浮かんでいた。
「紫夕…君の意思、確かに受け止めた」
少年が倒れていたのは、風さえ眠る黄昏の峡谷だった。
西方の国境近く、人の往来すら絶えた赤岩の谷。
吹きすさぶ砂嵐の合間を縫って、アムドはそこへ辿り着いた。
その手には、先ほどの羽がひときわ強く輝いていた。
「ここか」
赤錆びた岩陰、枯れ草に覆われた地に、少年は倒れていた。
初めて見る、彼の弟。その瞳は、閉じられたままでも燃えているようだった。
アムドは静かに膝をつき、彼の額に触れる。
その瞬間、翳羽の羽が微かに光を帯び、風がふわりと流れた。
「……主の権、俺に来るかと思ったが──違ったか」
羽根はふわりと宙を舞い、再び少年の胸元に戻っていった。
眠るその身体の奥で、かすかに脈打つ何かを感じ取る。
アムドは、静かに目を伏せた。
長い旅の終わりに、再び始まる新しい物語の気配を嗅ぎ取っていた。
狼巴が目を覚ましたのは、数日後のことだった。
重い瞼を開けると、石組みの天井が目に映る。
知らない場所だった。知らない匂いだった。
かつてもこうして、知らない場所で目を覚ましたことがある気がする。
身を起こそうとして、全身に鈍い痛みが走る。
「……っ、ぅ……どこ……?」
その声は掠れていて、震えていた。
言葉を発してから、自分が声を出すのがどれほど久しぶりだったのかに気付く。
「無理はするな」
低く、穏やかな声が返る。
振り向くと、片腕の男が椅子に腰かけていた。
灰色の瞳をした男だった。
その目は静かで、どこか深く沈んでいて、それでいて温かかった。
「俺の名はアムド。……きみの名前は?」
狼巴はすぐに答えなかった。
その問いには、答えたくなかった。いや、答えられなかった。
しばしの沈黙ののち、ぼそりとつぶやいた。
「……狼巴」
「そうか」
アムドは、それだけ言って微笑んだ。
何も責めず、何も追わず、ただそこに在るような笑みだった。
屋敷には、他にも数人の住人がいた。
傷を癒やすために身を寄せている傭兵、旅の踊り子、鍛冶の青年、世話焼きの女医。
彼らは誰も、狼巴の過去を問わなかった。
ただ「よく来たね」と言って、食事を分け合い、寒ければ毛布を貸し、眠る場所を教えてくれた。
最初、狼巴は部屋の隅から動かなかった。
自分の目が誰かと合うたび、心臓が早鐘を打った。
(どうして、みんな、良くしてくれるんだろう)
(ぼくは、こんな優しさに…慣れちゃいけないのに)
しかしながら、少年は生きていた。
夜の冷たい空気の中、毛布をかけてくれる手、
朝食のパンを黙って置いてくれる背中。
そっと寄り添う。
凍り付いた何かを、ゆっくりと融かすように。
ある日、アムドが問いかけた。
「……夢を見るか?」
狼巴は答えられなかった。
答えたくなかった。
だが、その夜、彼は夢を見た。
光の中にいる兄の背中。
自分の剣が、その影を呑んでいく光景。
叫びたくても声が出なかった。
名を呼びたくても、名前がわからなかった。
翌朝、彼は道場の前に立っていた。
石畳の床に並んだ木剣と、鍛錬用の人形。
そのすべてが懐かしく、知らないものだった。
アムドが後ろから声をかける。
「振ってみろ。君の体は、もうそれを覚えている」
狼巴は、ゆっくりと木剣を手に取った。
その重みが、手の中にすっと馴染む。
そうして、何も考えずに一度、振った。
風が切れた。
音が、耳に残った。
その瞬間、彼の胸の奥で、何かが確かに震えた。
紫夕に関する記憶は、まだ戻らない。
それでも、狼巴は知っていた。
自分の中の空洞が、何よりもその人を求めていることを。
「……しゆう、……」
その言葉が、初めて涙とともにこぼれた夜、
彼の枕元には、ふわりと羽根が一枚、舞い降りていた。
それは翳羽の欠片。
かつて、紫夕の魂の一部だった証。
それは今、狼巴の心と共鳴している。
こうして、少年の物語は再び歩き出す。
心に残る名も無きぬくもりとともに。
アムドは黙して見守る。
それが、かつて交わした「約束」だったから。
「紫夕、おまえが信じたその子を、俺も信じよう。
きっと、また、おまえに辿り着く日が来る」
その言葉を肯定するように、柔らかい風が吹き抜けていく。
少年の木剣は、幾度となく宙に向けられている。
もう一度、生きるために。
もう一度、名を取り戻すために。
狼巴は、歩き始めた。
―――
西の空に薄く月が昇った夜、アムドの屋敷にはひとつの依頼が届けられた。
それは、南西にある小規模な遊牧民の集落からの報せ――
「家畜を襲う獣の影がある。今夜が山場かもしれない」
それは確かに「外」の匂いがする報せだった。
小さな世界で心と身体の傷を癒していた狼巴にとって、それは初めて“境界を越える”機会だった。
「行けるか?」
アムドの問いは、単純でありながら重かった。
その瞳には焦りも期待もなかった。ただ、信頼だけが静かに沈んでいた。
狼巴は、少し迷ってから、小さく頷いた。
喉がごくりと鳴る。
「やってみる」
まだ声は幼さが残っていたが、そこに確かな意志があった。
「……いい目だ」
アムドはそれだけを言って、道具袋と地図を手渡した。
「不測の事態に備えて、俺も随行する。
ただし、基本的には別行動だ。自分の意志で行動してみなさい」
狼巴は静かに頷いた。その瞳は、燃える宝石のように赤く輝いていた。
依頼地へ向かう道は、乾いた大地が続く峠道だった。
日中は焼けるような陽光が降り注ぎ、夜はひやりとした風が吹き下ろす。
馬の背に揺られながら、狼巴は、膝の上に置いた剣に視線を落とした。
それは、ヨットが鍛えた鉄剣。軽く、だが芯に響く重みがあった。
刃先は曇りひとつなく、柄の部分には狼巴の手に合わせた革巻きが施されている。
「……ヨット、ありがとう」
ぽつりと呟いたその言葉が、風にさらわれた。
いつの日からか、自然と周囲に感謝できるようになっていた。
峠の向こう、緩やかな谷に沿って集落はあった。
十数張のテントが連なり、羊と山羊が放牧されていたが、どこか沈んだ空気が漂っていた。
村の男たちは口を閉ざし、女たちは目を伏せ、子どもたちは近づこうともしなかった。
彼らの視線には、警戒と不信と、そして……期待があった。
「ここ数日、夜になると柵が壊され、家畜が喰われていく。
目撃した者は、“異様な獣”だと……。目が赤く、牙が異様に長かったと」
そう語ったのは、集落の長老だった。
声には疲労が滲んでいたが、その目は真剣だった。
「……きみ、一人なのか?」
「ああ。自分にできることを、精一杯頑張るよ」
長老はしばらく狼巴を見つめ、それから静かに頷いた。
日が落ちると、冷気が地を這うように降りてきた。
狼巴は獣道の端に身を伏せ、両の手で剣の柄を握りしめていた。
風が草を揺らし、焚き火の煙が遠くの空に細くのびていく。
喉の奥が渇いている。
けれど、身体は妙に静かだった。
(こわい……でも……)
胸の奥に、もうひとつの感覚がある。
それは、誰かの背中に寄り添っていた記憶のような、温もりに似た何か。
音もなく、風が変わった。
その瞬間、全身が総毛立った。
次の瞬間、闇の中から“それ”は現れた。
獣――いや、もはやそれは獣の枠を逸していた。
異様に長い肢体、夜目に光る赤い双眸、首から肩にかけての異常な膨らみ。
ふたつ。いや、三つ。
柵を越えて飛びかかろうとする一頭を見て、狼巴は自然と立ち上がった。
(……いける。やるしか、ない……!)
喉から声を絞り出すように叫ぶ。
「はぁっ!」
木々を裂くような気迫とともに剣を振る。
刃が獣の肩に食い込み、呻き声が夜に響く。
だが次の瞬間、別の個体が側面から飛びかかってきた。
避けきれない――そう思った瞬間。
一閃。
風が裂ける。
白銀の閃光が、獣の身体を貫いた。
かつて紫夕が遺した最後の式神。翳羽。
空を裂く一瞬の羽ばたき。
それが、狼巴の背を守った。
言葉にならない。
でも、その羽ばたきだけは、確かに胸に触れた。
剣を構え直す。
息を整える。
逃げることは、もう考えていなかった。
自分はここに立っている。
この手に剣を持ち、誰かを守るために。
――この剣は、殺すためのものじゃない。
再び、獣が跳ねる。
狼巴は踏み込む。
鋼が肉を裂き、地に落ちる音が静寂の中に吸い込まれていく。
その夜、獣は二頭仕留められ、一頭は逃げ去った。
集落の人々は、呆然としながらも、口々に少年の名を問おうとした。
けれど、狼巴は答えなかった。
ただ、静かに空を見上げていた。
星もない夜空に、風が吹いた。
その中に、どこか懐かしい気配が混じっていた。
帰還した夜、屋敷の門をくぐると、アムドが焚き火の前に立っていた。
何も言わず、ただ、彼の姿を見つめる。
「……命を、守ったな」
アムドは、目を細めて言った。
「きみの剣が、初めて、生きるために振るわれた」
狼巴は、ほんの少しだけ、唇の端を上げた。
それは、微笑みともつかぬ、かすかな息のような仕草だった。
「……怖かった。でも、……できた」
「うん。できたとも」
アムドの声は、優しく染み渡った。
その夜、狼巴の部屋の窓辺には、また一枚、翳羽の羽根が舞い降りていた。
彼はその羽をそっと掌に包んで、呟いた。
「……きっと僕は……誰かを守りたかったんだ」
そう言って目を閉じた少年の頬を、風が静かに撫でた。
そして――
少年は、またひとつ、「自分」の輪郭を手に入れた。
記憶が戻らなくとも、心が向かう場所がある。
たとえそれが、まだ言葉にならなくとも。
歩み続けるかぎり、きっと辿り着ける。
その剣はもう、ただの武器ではない。
それは、かつて名を呼んでくれた誰かへ、
必ずもう一度、想いを届けるための剣だった。
煙、霞となりて @mug_i
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