第三章 鳥籠を破る者たち(肆)



景久は、障子越しに庭を眺めながら、淡く問いかけた。

扇を片手に、何気ない調子で、しかしその瞳には静かな光が灯っていた。


「数日前、客の接触を拒むような動作があったと報告が……」


「ふふ……そうか。ようやく“影”が疼き始めたというわけだ」


景久は椿の花を摘むように、何の感情もなく言葉を続けた。


「ならば、施しを変えねばなるまい。甘美な香ではなく、今度は苦痛で染め直すとしよう」




---




その日から、紫夕の客筋が変わった。


常連の官僚や貴族ではなく、どこか歪んだ匂いを纏った者たちが次々と館を訪れ始める。


紫夕の部屋には見慣れぬ道具が持ち込まれていた。


清らかに澄んだ大桶。

氷を浮かべた水差し。

深夜でも凍えるほどの冷水をためた盥。

手首と足首を固定する拘束台──しかし、刃物はない。

傷を残さず、ただ“中から壊す”ための仕掛けが、音もなく整えられていく。


「こちらのお客様、少し“嗜み”がございますので……どうか、楽しませてあげてくださいね」


近侍が微笑みながら告げる。

紫夕は、無言で頷いた。





それは、静かな拷問だった。


氷水に、息を止めて沈められる。

肺に水が満ちかける直前、引き上げられ、荒く呼吸をさせられる。

だが安堵も束の間、すぐさま再び押し沈められる。


「ねぇ、次はどこまで数えられるかな?」


客の声は愉しげだった。


喉元から食道にかけて、水が逆流するような嘔気。

心臓の鼓動が速まり、手足が冷えていく。

だが、肌に傷はひとつもつかない。


また別の日には、布に包まれた灼熱の石が、口に押し込まれる。


皮膚は焼けずとも、じわじわと熱が体内へ食い込んでいく。

視界が歪むような脱水感。

意識を飛ばすには足りないが、正気を保つには苦しい。



「声を出さないなんて、君は我慢強いね。だから、もっと壊したくなる」



紫夕の身体は痙攣し、唇は震えても、叫ばなかった。

痛みを超えた先にあるのは、虚無だけだった。


──それが終わった後、決まって“あの方”が来る。





景久の歩みは、畳の上ですら音を立てない。

白木の小皿に乗せた温湯と絹の布、

そっと手にした薬瓶と、夜の香。


座敷の奥、ぐったりと横たわる紫夕の傍に、音もなく膝をつく。


「……可哀そうに。痛かったね……怖かったろう?」


その声は、まるで恋人のようだった。

触れる手は、痛みを知り尽くした優しさに満ちている。

絶妙な力加減で首筋を撫で、腕を支え、抱き起こす。


「もう大丈夫。もう、終わったからね」


そう囁きながら、唇に水を含ませる。

絹の布で、丁寧に喉を撫でる。



「君は、よく頑張った」



濡れた髪を指先で梳きながら、景久は静かに笑う。

そこにあるのは、嗜虐ではない。

ただ、愛と呼ぶにはあまりにも粘着質な執着だった。




なぜ、この男は“あの客”を止めなかったのか。

なぜ、今になって“優しさ”を向けるのか。


わかっている。

わかっているのに──

その手が、あまりに温かい。


「……私だけが、君を“救える”んだよ」


紫夕の瞳が、かすかに揺れる。



甘く、湿ったささやき。

その余韻は、まるで身体の奥まで染み込む毒のように、静かに沈んでいった。





紫夕は、その夜も眠れなかった。



胸に浮かんだ痛みは、もう“拷問”の記憶ではなかった。


そうではない──景久の優しさの方が、よほど怖かった。





---





景久は、冷徹で、非常に計算高い男だった。


紫夕に対して向けられる優しさの一つ一つが、すべて「戦略」の上に成り立っていた。


「壊しすぎてはいけない。けれど、壊さなければ服従しない」


その狭間を見極める才覚が、景久にはあった。


彼が選んだのは、紫夕の外見を損なわず、病床にも伏させず、心だけを確実に削っていく方法だった。


嗜虐趣味のある者、言葉巧みに相手の自我を切り刻む者、沈黙のまま圧をかける者……

選び抜かれた客たちは、皆一様に“爪痕を残す手”を持っていた。


その晩もまた、紫夕は薬香に包まれていた。

視界はぼやけ、時間の感覚が掠れていく。

意識の輪郭があいまいなまま、彼はただ、誰かに「何かをされている」のを感じる。


痛みはない。

けれど、確かな“何か”が削がれていく。


そして、すべてが終わった後。


──現れるのは、景久だった。


絹のような手が髪を梳く。

言葉は柔らかく、表情は哀しみに満ちている。

白湯を含ませ、冷えた手を取って温める。

布団を整え、指を絡めるように握る。


「もう、大丈夫……君は、私が護るから」


けれど紫夕の中では、何かがもう“護られたくない”と叫んでいた。

その声は微かで、景久の手によってそっと眠らされていく。





紫夕の身体の限界が近付くと、景久はしばらくは客を取らず、静養することを命じた。

紫夕にとっては、それが救いのようにも感じてしまう。


加えて、景久は紫夕の部屋を毎日訪れ、手厚い看病をした。


館の者たちは「よかった」と囁いた。

紫夕がまた“客の前に出られる”状態に戻るのだと。


そして、回復の兆しが見え始めた頃。

景久は何気なく、また一瓶の薬を与える。


「痛み止めだ。もう、頑張らなくていいんだよ」


それは、陶酔をもたらす媚薬だった。


紫夕は再び、ふわりとした幸福感のなかに落ちていった。

景久の言葉は心地よく、灯りは柔らかく、肌に触れる空気すらも甘い。


この時期だけ、紫夕は“幸福そう”だった。

誰にも怯えず、静かに笑い、物腰も柔らかく、ほとんど少女のように振る舞っていた。




そして、この“陶酔の期間”だけ──

狼巴は、紫夕と面会を許された。


「紫夕様、ご機嫌麗しゅうございます」


姫子としての身なりに整えられた狼巴が、遠慮がちに部屋へ入ってくる。

紫夕は、微笑みながら狼巴に目を向ける。


「……ろうはさま……ようこそ」


柔らかな声。

しかし、どこか遠い。




その日は、いつもより長く、ふたりきりで過ごせた。


庭を眺め、茶をいただき、狼巴はほっとしていた。

兄が、笑ってくれている。

たとえ記憶が曖昧でも、穏やかでいてくれている。


──そう思っていた、その時。


狼巴は、ふとした拍子に、紫夕の手にそっと触れようとした。


「……しゆにい、手が冷た──」


触れる、寸前だった。


紫夕の身体が、びくん、と激しく跳ねた。


「……っ、やめ………!」


一瞬だけ、陶酔の膜が剥がれた。


狼巴は、目を見開いた。


紫夕は、怯えていた。

瞳が揺れ、口元が引きつり、全身に拒絶の色が走っていた。


「……ご、ごめん……!

ぼく、そんなつもりじゃ──」


狼巴が慌てて手を引くと、紫夕は自身の反応が過剰であることを認識したようで、必死に隠そうとした。


「……ごめんなさい……だいじょうぶ、です……」


口調は戻っている。けれど、その目は戻っていない。


──それは、狼巴が知っている「兄の目」ではなかった。


狼巴は、初めて明確に知る。


(……壊されてる)


その実感が、喉奥からせり上がってきた時、景久の声が廊下から響いた。


「狼巴、そろそろお部屋へ戻りなさい。紫夕は、疲れてしまったようだ」


「……はい」


声が震えそうになるのを必死で押さえて、狼巴は一礼した。


部屋を出る直前、もう一度だけ紫夕の背を見る。

その瞳はもう、こちらに向けられることはなかった。



---




紫夕の意識は、霞の底に揺れていた。


目を開ければ、淡い灯りが差し込む天井。

頬に触れるのは、白くやわらかな布。

喉は乾き、身体は重い。

けれど、そこには痛みではなく、静かな安堵があった。


誰かが、そっと額に手を置いていた。


「熱は下がってきた。……よかったね」


景久だった。



看病は、いつも完璧だった。


温度調整された布団、苦味のない滋養湯、食べやすく崩された白粥、澄んだ清水。

紫夕のすべての不快が、気づく前に取り除かれていく。


背を支え、衣を着替えさせ、湯浴みまで付き添い、夜には優しく髪を梳く。

一糸乱れぬ景久の所作は、母のようで、恋人のようで、神のようですらあった。


「君が、君でいてくれればいい。ほかには、何も要らないよ」


景久の声はいつも柔らかかった。

ときに耳元で囁くように、

ときに手を包み込むように。


紫夕は、抵抗できなかった。


いや、もはや「抵抗」という概念が、彼の中から失われかけていた。



苦痛による地獄と快楽による天国。それは、一定期間で振り子のように繰り返され、確実に彼の精神を蝕んでいた。



最初は驚きだった。

恐怖もあった。

だが、それ以上に──


「なぜ、ここまでされなければならないのか」

その問いだけが、脳内を支配した。



最初のうちは、拒む意志があった。

けれど、何度も沈み、何度も救い上げられるたびに、「景久だけが安全だ」という錯覚が、ゆっくりと根を張っていく。


痛みに晒された夜、血の気が引いた指先を握ってくれたのは景久だった。

涙が流れたとき、それを拭ってくれたのも、景久だった。


──そして、誰よりも自分を「美しい」と言ってくれるのも。




ある日、ふいに目を覚ましたとき。

紫夕は、自分が景久の膝枕に抱かれていることに気づいた。


動こうとしたが、頭がふらつく。

景久の手が、髪を撫でていた。


「……おはよう、紫夕。今日はよく眠れていたね」


「……どうして……こんなこと……」


声はかすれていた。


景久は静かに微笑んだ。


「君と、狼巴を守るためだよ」


それは、甘く美しい毒だった。

紫夕はそれを飲み下してしまった。


そのとき、自分の心がどれほど弱っているかを、彼はまだ理解していなかった。



日を追うごとに、紫夕は“笑う”ようになった。

けれどそれは、他人に向けるものではない。

景久だけに見せる、小さな笑みだった。


「旦那様……今日も、来てくれて……ありがとう」


言葉に躊躇いがなくなっていく。

景久の言葉を、疑うことが少なくなっていく。


やがて、回復した紫夕の背中には、以前よりも力がなかった。


歩くことはできる。話すこともできる。

けれど──彼の心は、もう景久なしには保てない状態になりかけていた。



ある夜、紫夕がうなされていた。


夢の中で、誰かが名を呼んでいた。




(……だれ……?)


──しゆにぃ、たすけるから。まってて。


(……それは……)


紫夕は寝言のように呟いた。


「ろう……は……」


その名に、熱が宿っていた。

忘れていた、何か大切なものを思い出しかけたような、甘い痛みだった。


だが。


その瞬間、そっと指が唇に触れた。


「……忘れていいよ。辛いことは、全部……ね」


景久だった。


その指先は、紫夕の額に触れ、優しく撫でた。


視界が霞む。

記憶が、また薄れていく。


「大丈夫。君は、私のそばにいればいいんだよ……」


景久の声に、紫夕の身体は、深く沈んでいった。



この夜を境に──紫夕は、本当に「誰か」を忘れかけていた。


景久の笑顔だけが、安らぎとなる。


その優しさが、彼にとって唯一の現実になろうとしていた。


けれど、どこか深いところで、まだ確かに──何かが、抗っていた。


それは“兄”ではなく、“弟”が灯した灯火。


決して、完全に消えたわけではなかった。




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