第三章 鳥籠を破る者たち(参)
夜が明けた。
けれど、狼巴の心に朝は来なかった。
あの夜──兄が誰かの腕の中で悦楽に震える姿を見てから、時間の感覚が歪み始めた。
鼓動だけが、現実を刻む唯一の証だった。
それも、痛みと哀しみに満ちた、濁った音で。
景久の甘い声。香のようにすり寄る言葉。
首筋に触れた指の感触。
そして──兄が他人に抱かれて悦ぶ姿。
狼巴は、すべてを焼きつけた。
それを忘れないことでしか、自我を保てなかった。
「狼巴様、今日もお美しいですね」
使用人が笑顔で櫛を通す。
かつてなら恥ずかしく思った振る舞いにも、いまや狼巴は一切の反応を見せなかった。
鏡の中に映る自分は、姫のような衣を着せられ、頬に薄紅を差された人形だった。
庭に降りた狼巴は、いつものように“可愛らしく”歩いて見せた。
監視の男たちは、それを微笑ましく見守っている。
すべてが空虚に感じた。
欲しいのは、最愛の兄から与えられる愛。
もう二度と…戻らないかもしれない、愛。
寂寞が、刺すような痛みとなって、幼くやわい心を傷つけていた。
===
白い布団の中、紫夕は静かに目を開けた。
何もない天井。
淡い灯りの揺らぎ。
香の匂いが部屋を満たし、甘く、苦い。
身体が思うように動かない。
指先に力を込めようとしても、腕は鉛のように重く、喉の奥にこびりついた違和感が、今夜も彼を沈黙の底へと引きずっていく。
(……また……誰かに、抱かれた……?)
その問いすら、もはや他人事のようだった。
記憶の境界は曖昧で、夢と現が混ざっている。
だが、今夜は──いつもと違った。
肌に残る手の感触も、耳に残る声も、すべてが霞のように遠のいていくなかで、ひとつだけ、輪郭を保っていたものがあった。
──少年の声。
微かに震えた声。
必死に名を呼ぶような、あたたかくて、どこか痛々しい声だった。
(……ろ……う……?)
紫夕の唇が、かすかに動く。
それは言葉にならない囁き。
けれど確かに、胸の奥で何かが軋んだ。
(狼巴……?)
その名は、紫夕にとって呪文のようだった。
薬によって塗り潰され、調教によって再構築された己の中に、唯一、戻るべき“場所”を指し示す名前。
「しゆにぃ」
誰かがそう呼んだ。
確かに、あの目が、自分を呼んでいた。
思い出せ。思い出せ。
あの夜、雪の中、手を握ってくれた。
「離さないで」って、叫んでくれた。
頭の奥で、何かが脈打つ。
押さえつけられていた自我が、薬の幕を突き破ろうとするかのように。
紫夕の身体がわずかに震える。
だが──そこへ扉が開いた。
「紫夕様、次のお客様です」
それは命令のように。
揺れかけた記憶は、すべて沈んだ。
紫夕は、静かに起き上がる。
誰に教えられたでもない艶やかな笑みを浮かべ、着物の襟を整える。
「……お通しして」
その声音に、感情はなかった。
けれど──ほんの一瞬、目元に滲んだ揺らぎを、近侍は見逃していた。
一方、その頃。
離れの屋敷の奥で、狼巴は夜の静寂の中、机の上に紙を広げていた。
震える筆先で、書き連ねたのはたった一言。
「紫夕」
それは、彼にとって祈りであり、呪いでもあり、誓いだった。
(……どうか、思い出して。あなたの中に、まだぼくがいるなら)
狼巴はその紙を、小さな文包みに収めた。
そして、袖にそっと隠す。
景久には悟られないよう、彼は使用人のひとりに目をつけていた。
館に仕える者たちの中には、口数の少ない者もいる。目立たず、だが誠実に動く者もいる。
「……この文を、紫夕様の部屋に……置くだけでいいんだ。お願い、誰にも言わないで」
少年の瞳は切実だった。
使用人は一度だけ狼巴の顔を見て、黙って頷いた。
その日の夜、紫夕は変化に気づいた。
枕元の香炉の傍、紙片が一枚、丁寧に折られて置かれていた。
誰の手によって、どうしてここにあるのか。
それを問う気力は、すでに彼には残されていなかった。
ただ、指先でそれを持ち上げ、ゆっくりと開いた。
「紫夕」
たったそれだけの文字。
けれど、その瞬間。
胸の奥に、鋭く引き裂かれるような痛みが走った。
―狼巴、また「紫」の字が間違ってるよ。
―え!だって、しゆにいに教えてもらったとおり…
―ほら、こっちにおいで。もう一度、一緒に書いてみよう?
「……っ」
紫夕は思わず胸に手を当てた。
記憶にない痛みだった。
薬では説明のつかない、どこか懐かしくて苦しい痛み。
(……誰が……この名を……?)
脳裏に、影のような声が過った。
「……ろうは……?」
声にならない囁きが唇から漏れる。
頭の中で、黒い霧がうねる。
忘れたはずの景色。燃える山。崩れる屋敷。
手を引いて逃げた夜。
冷えた身体に、寄り添ってくれたあの声。
──「しゆにぃ、まってよ!」
──「しゅにぃがいないと、やだっ……!」
記憶が、ひと雫ずつ染み出してくる。
呼ばれた気がした。
思い出さなければいけないと思った。
あの名に応えなければいけないと、本能が叫んでいた。
紫夕は、紙を胸に抱くように握り締める。
薬の香がまだ残る部屋の中で、
ただその名前だけが、確かに温かかった。
その夜。
景久のもとに、またひとつ報せが届く。
「紫夕様、気配がまた強まりました。……何か“記憶”に関わる外的な刺激があったかと」
景久は、扇を音もなく開いたまま、静かに笑った。
「……そうか。
なら、次は“弟の顔”を見せるとしよう」
---
昼下がりの館は、静謐に包まれていた。
陽の光が障子を透かして、淡く庭を照らしている。
その中を、二対の足音が交差しようとしていた。
「紫夕様、こちらへどうぞ」
案内役の使用人の声に、紫夕はゆるやかに頷いた。
まどろむような目元、手の甲を撫でるように動く薄絹の袖。
今の彼にとって、歩くという行為さえ“演技”のひとつだった。
だが、その足取りの中に、確かに異変はあった。
(……この先……)
曖昧な霧の中、何かが待っているという予感。
記憶の断片が、重なる気配。
そして──
中庭を挟んだ先から、もうひとつの足音が近づいてくる。
狼巴もまた、使用人に導かれ、庭を渡っていた。
表情はいつものように穏やかに。
しかしその目の奥には、明確な決意が宿っていた。
景久の言葉は、あまりにも自然だった。
「紫夕は、今日はこちらに用があるようだ。狼巴も、顔を見てあげなさい。きっと喜ぶよ」
その言葉の裏に何があるか──狼巴は、すでに悟っていた。
試されている。この舞台は、景久が自分の心をまた揺らすための“演出”だ。
(それでも、ぼくは……)
足が止まる。
庭の中央、木洩れ陽が差す回廊の角で──
ふたりの視線が、重なった。
一瞬、時間が止まったかのようだった。
紫夕の目に、白い装束を着た少年が映る。
艶やかな髪、薄化粧、まるで姫のように整えられたその姿。
だが、その瞳だけが、熱を孕んでいた。
紫夕の唇がわずかに動いた。
記憶の奥から、どこか懐かしい響きがせり上がってくる。
(──しゅにぃ、まって……!)
耳鳴りのように、少年の声が頭をよぎった。
ふ、と紫夕の身体が揺れる。
何かが戻りかけている。
けれど、薬の膜がそれを押し留める。
「……あの……」
かすれた声で、紫夕が言った。
その言葉に、狼巴の心が一瞬だけ震えた。
けれど──その先は続かなかった。
すぐに紫夕の目はまた、霞の奥へと沈んでいく。
「……お会いできて、光栄です……狼巴様」
そう告げた声は、あくまでも男娼のものだった。
演技とも、錯乱とも、調教の成果ともつかない。
だが、確かにその中に──わずかに、“紫夕”がいた。
狼巴は、目をそらさなかった。
沈んでいく兄の目を、真っ直ぐに見つめ続けた。
目と目が合う。
それは、言葉よりも深く、手よりも確かに繋がる、一瞬の交信だった。
紫夕の視線が揺れる。
その目に、わずかな涙が浮かんだ。
夜。
紫夕の部屋には、また香が焚かれていた。
淡い香煙が天井へと伸び、柔らかな光が紙灯籠から部屋を照らす。
「……今日は、新しいお客様がいらっしゃるわ」
近侍が耳元で囁く。
紫夕は、いつもと変わらぬ動きで襟元を整え、床几へと座す。
肌の見える衣。色を含んだ化粧。瞳には感情が宿っていない。
だが──
その胸の奥では、小さな痛みがまだ燻っていた。
(……目が……合った)
あの昼。
庭で交わった視線。
自分を“しゆにい”と呼んだ少年。
狼巴──弟。
記憶のすべてを呼び戻すには、まだ足りない。
けれど、その名が刻まれた紙の温もりも、彼の瞳に宿った“憎しみではない熱”も、紫夕の中で何かを変えつつあった。
「どうされました? 紫夕様」
「……いえ。少し、疲れただけです」
鏡の前で笑うその姿に、近侍は安堵したように微笑む。
だが、その唇の端には、わずかな“歪み”が生まれていた。
客が来た。
部屋の灯が落とされ、襖が静かに開く。
紫夕はいつもと同じように、膝を折って頭を下げた。
「おいで」
男の声。
手招くような仕草。
それに従い、紫夕は音もなく近づいていく。
視線は伏せられ、口元はかすかに笑っている。
けれど──
その距離が縮まるにつれ、胸の奥に眠っていた“何か”が、再び疼き始めた。
(触れられたくない──)
男の手が、肩に伸びる。
そして──
その瞬間だった。
紫夕の右手が、男の手をはらった。
ぱしん、と音がした。
部屋の空気が凍る。
男が目を見開き、動きを止めた。
「……紫夕、様?」
近侍の声も、どこか震えていた。
紫夕自身も、驚いていた。
何をしたのか、一瞬理解できなかった。
だが、身体が勝手に動いていた。
(……触れられたくなかった。……その“感覚”だけが、真実だった)
男は不快げに口を歪めた。
「……君、誰に仕込まれたんだ?」
その言葉に、紫夕はすぐには返事をしなかった。
(……自分は、“誰”だった?)
(誰のために、生きていた?)
その問いが、胸に灯り始めていた。
この件は、すぐに景久の耳へ届いた。
「……なるほど。ようやく、“戻るつもり”か」
その言葉を聞いていた側近は、慎重な表情で問いかける。
「薬を強めますか? あるいは──」
「いいや、放っておきなさい。水だけでは花は咲かないのだから」
扇で口元を隠したまま、景久は笑う。
「……だが、その花を刈るのは、私だ。いつだって、そうだろう?」
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