第三章 鳥籠を破る者たち(伍)
景久の館の奥庭には、春浅い風が吹いていた。
まだ芽吹ききらぬ枝々が細かく揺れるたび、どこからか香の煙が流れてくる。
白く、甘い。けれど、その芳香が狼巴の胸に刻むのは安らぎではなかった。
紫夕は、まだ帰ってこない。
――いや、正確には、“戻されてこない”だけだ。
夜ごと、別の座敷に呼ばれる。
紫色の瞳は、時に恍惚に濡れ、時に虚空を見据えていた。
何度も何度も「客の前で笑え」と命じられ、されるがままに肌を晒し、悦びの声を演じる。
一方で、身を裂くような苦しみに、声一つ上げずにただ耐え忍ぶ。
男たちはその姿に欲望を募らせ、紫夕を“褒美”として求めた。
景久はそれを許し、しかし“壊れぬように”と釘を刺す。
狼巴は、何もできなかった。
兄のように慕っていた影が、遠い。
何かをされているとわかっているのに、手を伸ばすことさえ叶わなかった。
彼が無力であることは、誰より自分自身が知っている。
そして、その無力こそが、紫夕に“最後の一線”を保たせているのだということも――
幼いなりに、理解していた。
「……ぼく、何か、できないかな」
ぽつりと、朝餉の席で漏らした言葉に、誰も返事をしなかった。
侍女は、ふと箸を止めるだけだった。
景久は、その夜、狼巴を自室に呼んだ。
帳の奥に腰掛け、燭台の炎が彼の横顔を妖しく照らしていた。
「狼巴。お前、護衛たちに憧れているそうだな」
「……うん。強くなりたい。守れるように、なりたいから」
「何を守るつもりだ?」
問われ、狼巴は少しのあいだ、言葉を飲んだ。
けれども、目は逸らさなかった。
「……しゆにいを……守りたい」
その名を口にしたとき、景久のまなざしがほんの一瞬、揺らいだ。
だがそれを悟らせぬよう、扇を開き、やがて穏やかに笑む。
「よいだろう。
護身の術を少しずつ教えてやる。
だが、これは“君のため”だ。
私が守ってやれる、君は誰かのために強くなる必要などない」
狼巴は、その意味を完全には理解していなかった。
けれど、許されたことだけで嬉しかった。
翌朝から、稽古が始まった。
身体の使い方、姿勢、受け身のとり方――
館の庭の片隅で、護衛のひとりが付き添ってくれた。
狼巴は、呑み込みが早かった。
姿勢を見ればすぐに模倣し、動作の流れを体で覚えた。
まるでかつて訓練を受けたかのような、あるいは……生まれつきの“型”が、身体の奥に刻まれているような。
稽古をつける衛兵は、それに気付いた。
(……この子は)
その思考を遮るように、ふと風が吹いた。
どこからか、淡い香が再び届く。
それは紫夕の衣にいつも染みついている香――艶と、堕ちた男たちの欲望を引き寄せる、夜の薫り。
狼巴の鼻腔がわずかに震えた。
振り返っても、そこに紫夕の姿はなかった。
けれど彼には分かっていた。
今も、どこかの座敷で、紫夕が“あの顔”をしていることを。
「……もっと、強くならなきゃ」
誰にも聞こえない声で、呟く。
幼い手のひらが、剣の柄を模した木棒をぎゅっと握りしめた。
その決意の背に、誰も気づかない。
景久すらも――
狼巴の奥に宿る、“才”の片鱗に。
その夜も、紫夕の姿は確認できなかった床に横たわりながら、狼巴は目を閉じる。
見えるのは、少年のころに交わした言葉。
雪の中、手を引いてくれたその人。
優しくて、時に冷たくて、それでもずっと隣にいてくれた――
「……しゆにい」
名を呼んだその声は、泣いていた。
声も、心も。
けれど、誰も気づかない。
幼い願いは、静かに夜に吸い込まれた。
やがてその願いは、血肉となり、剣筋となり、この身を貫く執念と化す。
それはまだ、誰も知らない“戦士の種子”。
いつか咲く、死地の花。
そして、それを咲かせるために――
狼巴は、ただ黙々と剣を振り続けた。
紫夕を守るために。
己を、取り戻すために。
---
──風の音がした。
それは懐かしい、あの山の里の風。
雪の匂いが、頬にふれていた。
杉の枝を渡る木霊のように、柔らかく、胸の奥を撫でる。
(……ここは……)
紫夕は歩いていた。
踏みしめる地面は、霜を含んだ土。
夜明け前の空は青く、まだ星が消えきっていなかった。
深い杉の合間に、ぽつりぽつりと灯が揺れている。
懐かしい光景だった。
夢だと知っていた。
けれど、そこにある温もりは、あまりにも真実で。
(煙霞の里……)
訓練に明け暮れた日々。
霞に覆われた谷の中にひっそりと佇む、戦の民の集落。
規律と術、厳しさと静けさ、煙霞の血を継ぐ者たちが集い、生きた場所。
だがその中にも、確かに人の情はあった。
朝、鍛錬の前にくれる塩握り。
腰の曲がった老婆が、傷に塗ってくれた薬草の匂い。
風呂場の湯気、釜戸のぱちぱちという音。
夜の帳が降りる頃に聞こえる、誰かの琴の調べ。
(……こんなに、あったかかったんだ……)
手を引いていた。
夢の中の自分は、確かに小さな手を握っていた。
「しゆにい!」
鈴のようなあどけない声。
見下ろせば、雪を蹴って歩く小さな影。
丸い瞳が、自分を見上げている。
「……ろうは……」
思わず、名をこぼしていた。
ああ、そうだ。
いつも、自分のあとを追ってきた。
稽古場へ行くときも、食堂へ向かうときも、夜、忍の稽古に出るときも。
「しゆにい、まってぇ……!」
どんなに寒くても、眠くても、
あの子はついてきた。
小さな手は、いつも自分の裾をぎゅっと掴んでいた。
(俺は……あの子を守るって、誓ったのに)
紫夕の歩みが止まる。
夢の里に漂う白い靄が、じわりと濃くなっていく。
訓練所の屋根。
見慣れた井戸。
登りかけた坂道の途中。
あちらこちらに、見覚えのある顔があった。
里長さま、年老いた師、職人、女童、見習いの子供たち。
──皆、もういない。
(俺は、あの場所から逃げて、何をしていたんだ?)
肉を裂かれるような疼きが胸を貫く。
霞む意識の奥で、現実の痛みがよみがえる。
香に染まった寝台。
触れられた皮膚。
動かぬ四肢。
朦朧とする意識の中、甘く微笑む“旦那様”。
──忘れたふりをした。
あの手の感触を。
あの目を。
あの声を。
守るべきだった、小さな弟のことを。
「しゆにい、見てて! ぼく、跳べたよ!」
(ああ……狼巴……)
温かくて、まっすぐで、無垢で。
(俺は……どうして、きみのことを……)
今の紫夕には、すべてが宝石のようにきらめいて見えた。
夢の景色がにじんでゆく。
まるで墨を流し込まれたように、やがて夕暮れの里が黒く染まっていく。
(……終わってしまった)
そう自覚した瞬間、心の奥から湧き出るのは、悔いと愛しさと、どうしようもない無力感だった。
遠く、誰かが泣いていた。
「……しゆにい、お願いだよ……目を開けてよ……!」
それは、夢の外の声だった。
けれど、確かに紫夕の魂を貫いた。
「しゆにいっ、ぼくを……っ、ひとりにしないで……!」
涙混じりの声。
しゃくり上げながら、何度も自分の名を呼ぶその声に、紫夕は膝をついた。
(……まだ、呼んでくれてるんだ)
あの子は、まだ。
手を伸ばそうとした。
けれど、身体が動かない。
重い。
冷たい。
自分の肉体が、終わりに近づいていることを、紫夕は知っていた。
(この身体じゃ、もう……あの子を、守れない)
悔しさが、喉を焼いた。
(せめて……)
せめて、記憶だけは。
想いだけは。
あの子の中に、残っていてほしい。
(俺は、狼巴の“兄”だった)
そう思った瞬間、胸が、張り裂けるほどに痛んだ。
夢の奥で、ひとりの影が現れる。
痩せ細り、傷だらけの己自身。
足元にしがみつく、あの子の姿。
泣いている。
誰よりも、哀しそうに。
(──もう一度、笑ってくれ)
(あの笑顔が、俺の、全てだった)
瞼の奥が焼けるように熱く、
視界の裏で、光が爆ぜる。
こんな姿を、あの子に見せることになるくらいなら、生にしがみつき、もがくことすら無様だった。
だが、それでも。
(──守らなきゃ)
肉体が滅びても、
魂が削れても、
最後の力が尽きるその瞬間まで。
「ろう、は……」
微かな声が、唇から漏れた。
夢の中で、自分の手を引いていた小さな手を、もう一度握りしめるように。
紫夕の頬に、ひとすじの涙が流れた。
---
目覚めは、静かだった。
──まるで自分の身体が、どこか別の生き物になっていたかのようだった。
紫夕は、仰向けに横たわっていた。
瞼の裏に残る記憶は、朧で、苦い。
熱、快楽、苦痛、痺れ。
波は無慈悲に心身を削り、振り子のように意識を揺らした。
(俺は、生きて……いる)
それだけが、ただの事実として胸の奥に残っていた。
……何故、生きているのか。
それは、苦しみの向こうで、何かが“呼んでいた”から。
(狼巴……)
その名を思い出すたび、身体の内に灯が灯った。
時間は、どれほど過ぎただろう。
紫夕の肉体は、目覚めた後もしばらく動かなかった。
だがある時、奇妙な感覚に気づいた。
(身体が……軽い?)
否、正確には“以前より重いのに、自由だ”と感じた。
薬に染まっていたころのあの奇妙な浮遊感。
媚薬によって増幅された感覚は、もはや通用しない。
毒が、毒に耐え、毒を知り、毒を拒むようになった。
(俺の身体は……もう、薬に沈まない)
意識と肉体が、静かに、だが確実に融合し始めていた。
その夜、紫夕は立ち上がった。
景久の居室。
帳が落ちた、香の甘い夜。
音もなく、影のように滑り込んだ紫夕は、
たった一息で、後ろから景久の上体を押さえ込み──
──刃を、咽喉元に突きつけた。
「……!」
景久の喉が、ごくりと鳴った。
だが、次の瞬間、笑ったのは彼のほうだった。
「なるほど──君が、紫夕か」
その声は、低く、愉悦に満ちていた。
「私は君を見くびっていたようだ。毒を以て毒を制す……忍とは、かくも優雅な存在か」
紫夕は一言も発さなかった。
景久の喉元に、刃がわずかに食い込んでいる。
それでも、景久は目を逸らさなかった。
「その瞳……美しい。澄んでいて、鋭く、まるで氷の刃のようだ」
「……」
「君に対する今までの扱いが──君の魂への冒涜であったと、私は今、認めざるを得ない」
紫夕の手が、ほんの僅か震えた。
しかし、刃はなお動かない。
「だが、君も分かっているのであろう。己と、愛する弟の運命が、私の掌の中にあることを」
その声は低く、深く、何より“嬉しそう”だった。
かつて、男に縋っていた美しい手には刃。気配は影よりも薄く、呼吸すら音を消していた。
その動きは、忍としての記憶を刻んだ者にのみ可能な、“殺の間合い”。
だが景久は、まるでそれすら悦びであるかのように言葉を続けた。
「私は一度、“君”を壊したのだとばかり思っていた」
紫夕は答えない。
その無音が、かえって景久の背を熱くした。
「だが違った。壊されたと思っていた器は、毒を呑み、傷を呑み、汚辱すらも内に沈め──美しく、凛と、再構成された」
その声は、歓喜に湧きどこか震えていた。
「……やはり、君は“兄”なのだな」
ゆっくりと紫夕を見遣る顔には、遥かに深い、酩酊に近い愉悦が浮かんでいた。
「その刃が、寸止めだった時点で……私は確信した。君はまだ、弟のことを思っている。そして、私がその命を握っている限り、君は私を殺さない」
紫夕の瞳が細められる。
冷たい銀の光。
それは、暗殺者の気配だった。
「だがな、紫夕。私はそれすら──君の“美しさ”の証左だと思っている」
景久は、口元を歪めた。
「ただ生き延びたのではない。麻薬に適応し、感覚を調律し、己を取り戻した。
そんなことができる者が、この世にどれほどいる? しかも、兄であるという誇りを心に抱いたまま、だ」
彼は、両手を広げてみせた。
まるで、神聖な儀式でも始めるかのように。
「君は、汚されたのではない。君は、“昇華”したのだ。
だから私は、歓喜している。こんなにも、胸が熱くなることがあるとは思わなかった」
紫夕の刃は、景久の喉元すれすれに留まり続ける。
「……今すぐにでも殺せる」
紫夕が、低く呟いた。
その声には、怒りも、悲しみも、ほとんど含まれていなかった。
ただ冷徹な判断としての、殺意の事実だけがあった。
だが景久は首を傾げてみせた。
「ならば、殺してみせろ。だが、それができたら──君は“兄”ではなくなる」
「……」
「私は、君を甘く見ていた。君の魂を、“ただの花”と見くびっていた。
だが今なら分かる。君は──花ではない。刃だ。芯を秘めた、影の刃。ならばその刃で、私を試すがいい。運命を、切り拓けるかどうか」
紫夕は、その言葉を聞いてもなお、動かなかった。
──その眼だけが、すべてを語っていた。
景久は、その無言を“至高の返答”と受け取ったようだった。
「やはり……美しい」
その囁きは、もはや狂気に近い崇敬だった。
喉元に、紫夕の刃がまだ張りついている。
血の一滴さえ許されていないその“緊張”のなかで、彼の声音は驚くほど穏やかだった。
「よく聞いてくれ、紫夕。君を知って以来、私は君の“器”にしか興味がなかった。
顔、声、身体、肌──君が美しければそれで良い。魂など、壊してしまえば済むと思っていた」
瞳がゆるやかに細まる。
けれど、その目の奥に燃えていたのは、まさしく“熱”だった。
「だが違った。君は、魂を燃やして“形”を保っている。逆だったんだ。美しかったのは、君の魂のほうだった」
紫夕の眉がわずかに動く。
それは、肯定でも否定でもなく、ただ“受け止めた”という微かな揺らぎだった。
景久は続ける。
「君の中に、どれほどの怒りと痛みが眠っていたか、想像に難くない。今の君は、それを越えて立っている。ああ、どうして私は──今までその核心に気づかなかったのか」
ゆっくりと、景久の指が自らの首に触れる。
紫夕の刃がさらに深く肌に食い込み、血がにじんだ。
「……痛いな」
だが、笑っていた。
「でもね、紫夕。この痛みすら、今は心地良い。君という存在が、私に“対等のもの”として刃を向けたという、この事実が、何よりも悦ばしい」
紫夕は、まるで応じるように、言葉を吐いた。
「俺を玩具にし、弟を縛り、踏みにじった……。お前が命を繋いだと思うな。俺は、俺の意思で、生きている」
その言葉に、景久の目が見開かれた。
まるで、“思いもよらなかった言葉”を目の前で聞いたかのように。
そして──次の瞬間。
彼は、嬉しそうに、心から嬉しそうに、笑った。
「……そうか……ならば、君は“選んだ”んだね」
「……?」
「死ぬでも、従うでもなく──“抗う”ことを選んだ」
紫夕の指先に力がこもる。
刃は一瞬、喉を裂く寸前まで進み──
しかし、そこでまた、止まる。
「……狼巴は、お前の手にある。今、ここでお前を殺せば、あの子が……」
「そうだとも。私は抜け目のない男だ。
君が私を殺せないように、“正しく”弟の命を握っている。だが……」
景久の声が、ささやきに近くなる。
「君が本当に、“私を超えて”ここに立ちたいのなら──その手で、私を超えてみせろ」
「……!」
「君の刃が、弟を繋ぐというその“楔”すら断ち切るというのなら……君はもう、私に“飼われた花”ではなくなる」
紫夕の瞳が、一瞬だけ揺れた。
そして、はっきりと、刃を引いた。
音もなく、喉元から鋭利な刃が遠ざかる。
代わりに、紫夕の影が、景久の背に落ちる。
「お前を殺すのは、今ではない」
「……ほう?」
「この手で、狼巴を取り戻したその時。
お前の支配のすべてを、俺の術で斬り伏せてからだ」
「いいねぇ……素晴らしい……!」
景久は、膝をつきながらも恍惚と笑う。
「やはり君は、美しい。いや、気高い。どこまでも強く、鋭く、そして……何よりも“自由”だ」
紫夕は振り返らなかった。
ただ、その背に影の風が巻き起こる。
その動きは、もはやかつての“忍”そのもの。
景久はその背中に向かって、静かに言葉を落とした。
「君に期待するよ、紫夕。──私を殺すに値する存在になってくれることを」
その夜、紫夕の影は、帳のなかに消えた。
景久の胸元には、血の筋が一条、真っ直ぐに残っていた。
それを指先で撫でながら、彼は嗤う。
「毒に侵されたのは、どちらだろうな」
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