第三章 鳥籠を破る者たち(弐)



その夜、いつものように離れの部屋へと戻った狼巴は、何事もなかったかのように、日課をなぞるように身を委ねていた。


使用人の女が静かに髪を梳いていく。

櫛の動きは柔らかく、整えられた手つきは慣れていた。小袖を脱がされ、淡い藤色の寝間着へと着替えさせられ、香が焚かれる。

梅と沈香を混ぜた香りが、仄かに空間を満たす。甘味が入った菓子器がそっと枕元に差し出され、女中は微笑を添えた。


狼巴は、それに静かに頷いた。

表情に揺れはなかった。言葉もなく、微かな返事もせず、すべての仕草を受け流すようにこなしていた。


誰も彼の異変に気づかなかった。

気づかせなかった、と言うべきだった。


──けれど、胸の内では。

その心は、焼けるように、ひどく傷ついていた。


(…しゆにいが…ぼくを…見なかった)


それは、ただそれだけのこと。

けれど、狼巴にとっては、その「ただ」がすべてだった。


声にはしなかった。けれど、心の奥では、何度も何度も繰り返されていた。


無意識に、当たり前のように、期待していた。

以前と変わらぬ優しい瞳が、自分を見つけてくれることを。

この痛みごと、抱き締めて慰めてくれることを。


喉の奥で、胸の裏で、折り返される言葉の残響。

「見なかった」「気づかなかった」「思い出さなかった」──

その全てが刃になって、彼の幼い心を何度も突き刺していた。


あの夜のことを、忘れるはずがなかった。

山を越え、雪の中をさまよい、崩れそうな身体で必死に兄を背負ったあの夜。

血に濡れ、呼吸の絶えそうな中でも、兄は最後まで自分を庇い続けてくれた。


その腕のぬくもり。

その声の震え。

その全てが、狼巴の“誇り”だった。


(……たったひとりの、兄だったのに)


けれど今や、その兄は──

自分の名を呼ぶことすらなかった。

目が合っても、何も思い出さなかった。

いや、それだけではない。


他の誰かに向けて、あの人は笑っていた。


頬に紅を差し、唇を艶やかに彩り、

まるで「客を喜ばせるため」に作られた笑顔で。


それが、本来は自分だけのための微笑だったことを、狼巴は知っていた。


誰よりも、知っていた。


だからこそ、その“すり替えられた笑み”が──たまらなく、苦しかった。


(……違う。……違う、これはきっと……薬のせい。あれは……“偽り”なんだ)


無理やりにでも、そう言い聞かせた。

そうしなければ、今にも心が壊れてしまいそうだった。


“薬のせい”“あれは本当の兄ではない”

そう繰り返すことでしか、自分の感情を押さえつけられなかった。


けれど。


寝台に横たわったその夜。

襖の外は静かで、香の煙が天井にたゆたっていた。


その静寂の中で──

狼巴の心に、さらなる一撃が、何の前触れもなく、静かに叩き込まれようとしていた。


それは言葉ではなかった。

叫びでも、涙でもない。


ただ、耐えるように目を閉じたその瞬間。

内側から、何かが音を立てて崩れていくような感覚。


声にならない嗚咽が、胸の奥で滲んでいた。


“あの人は、もう──戻ってこないかもしれない。”


そんな思いが、鋭く突き刺さる。

否定しても否定しても、心のどこかでそれを感じてしまった自分が、何よりも憎かった。


そして、深く、深く──

狼巴の中に、“何か”が静かに芽吹き始めていた。


それは怒りか、悲しみか。

あるいは、復讐の名を持つ執念か。


まだ名も持たぬその感情は、香の煙の奥で、息をひそめていた。





===






「お邪魔しますよ、狼巴様」


夜も更け、障子の向こうで男の声がした。

誰とも話したいと思わなかったが、見知らぬ声に、重い腰を上げる。

礼儀正しく、笑みを含んだ声。けれどその音には、どこか淫靡な湿り気があった。


「失礼いたします」

使用人が障子を開ける。


「旦那様のご許可をいただきまして。紫夕様を連れて、少々、こちらを拝見に参りました」


その言葉に、狼巴の背が固まった。

目を見開き、反射的に立ち上がる。


そして──目に映った。


兄が、立っていた。


いや、そこにいたのは、もはや兄ではなかった。

薄い桃色の衣を纏い、胸元をはだけさせ、瞳に熱を帯びた少年。

頬は上気し、目尻は潤み、微かに吐息を漏らしている。


「……紫夕……?」


その名を呟くと、男娼のように装った兄が、ふわりと笑った。


「……狼巴さま……ふふ、久しぶりですね……?」


艶めいた声音。

兄のはずが、まるで遊女のような振る舞いだった。


狼巴の傍に景久が立ち、腕を肩にまわす。


「……見てご覧。君の兄上の……この上なく美しい姿を」


耳元に囁かれたその声に、狼巴は凍りついた。

逃げたかった。耳を塞ぎたかった。

けれど、景久の腕がそれを許さなかった。


紫夕は男の傍に座ると、柔らかく身を寄せた。

まるで、馴染みのように。


「お膝、貸してくださる……?」


「もちろんだとも。君のために来たんだからね」


上客と称された男は、紫夕の腰を抱き寄せ、唇を寄せた。

そのまま──紫夕の襟元に舌を這わせ、白い肌をむき出しにしていく。


「や……っ、だめ……っ、いきなり……」


声は、苦悶ではなかった。

快楽を含んだ、甘い声だった。


狼巴は見ていた。


兄が、男の手に身を預け、乱れた呼吸を重ね、吐息を漏らしているのを。


目を細め、腰を落とし、身を揺らし──

自ら、求めている姿を。


「いや……うそ……やめて……!」


狼巴は、耐えきれず叫びそうになった。

けれど、景久の腕がそれを遮った。


「……ね、見事でしょう? 君が愛した兄上は……こんなにも淫らに、艶やかに、堕ちてしまった」


「やめろっ……!」


「拒むな。これは現実だ。彼は自分を護り切れなかった、その証だよ。……可哀そうな狼巴。せめて、私が慰めてあげようか?」


その囁きに、狼巴の全身が震えた。

絶望と怒りが体を突き抜け、己の主人となった男に憎悪を向けようと、立ち上がろうとした。


しかし、その動きはぴたりと止まる。


「あっ、あ」


兄の身体が揺れる。


男が吐息を洩らし、獣のように紫夕を掻き抱く。

紫夕は膝立ちのまま男の太腿に跨り、身体をくねらせながら腰を押しつけている。


目の前で、確かに快楽に溺れていた。


それは演技ではなかった。

いや──演技に見せかけられた、徹底した“調教”の賜物だった。


狼巴の中で、何かが粉々に壊れた。





静かな空間に、衣擦れと微かな吐息だけが重なっていく。


「ん……ふ、ぁ……」


紫夕の肩が揺れる。

細い首筋が、男の指に撫でられ、白磁のような肌が浮かび上がる。

艶やかに撫でられるたび、紫夕の呼吸が甘く乱れていく。


狼巴は、その一つ一つを、まるで刃を突きつけられるような思いで見ていた。


(ちがう……やめろ……これは、違う……)


何度心の中で叫んでも、景色は変わらなかった。


男の手が紫夕の帯を解く。

ゆるやかに滑り落ちる衣。肩から鎖骨が露わになり、紫夕の胸が浅く上下する。


「はぁ……っ、ん……そこ、もっと……」


妖艶とも言える声。

男が触れるたびに、紫夕は身をくねらせ、自ら身体を寄せていく。


絹が肌を滑る音。

舌が皮膚を這う湿った音。

衣の端を踏み越える裸足の音。


そのすべてが、狼巴の心に容赦なく刻まれていく。


紫夕の髪がふわりと揺れ、男の胸元に触れる。

髪越しに見えたその目は、まどろみの中で潤み、熱に染まっていた。


(……しゆにい……本当に……)


狼巴の唇が震えた。


(……本当に……ぼくを、忘れたの……?)


景久は、狼巴の肩を強く抱き寄せた。


「君がどんなに想っても、兄上はもう──私たちの“作品”なんだよ。ねえ、見てごらん……」


指が狼巴の顎を取り、紫夕の淫らに揺れる背をなぞるように指し示す。


男の腰が打ち付けられるたび、紫夕の肌が跳ねる。

吐息が漏れ、指が畳を掴み、蕩けた声が零れ落ちる。


「ん……っ、……あっ、そこ、もっと……ぁ……あっ、あ、」


悦びを求める声。


──それは、兄が発したはずのない声だった。

けれど、今確かに、その唇から、聞こえていた。


紫夕の指が男の背を撫で、抱き返すように身体を沿わせる。

拒まない。抗わない。むしろ……悦びに、酔っている。


「やめて……っ……もうやめてくれ……っ」


狼巴は、もはや声を押し殺すことができなかった。

膝の上に置かれた拳は、指が白くなるほど強く握られている。


「……しゆにぃ……なんで……」


目の前で、兄が狂っていく。


その姿を前に、狼巴は言葉を失い、ただ震えながら座り込んでいた。


景久は黙ってその背に手を回し、まるで慰めるように、そっと囁いた。


「君の手では、もう届かない。……だから、私が代わりに、癒してあげよう。狼巴──君さえいれば、私はそれでいい」


狼巴は、耳元のその言葉を聞きながら、目を伏せた。


こみ上げる涙を堪えることもできず、ただ黙って唇を噛んでいた。


兄の声が、今もなお背後で喘いでいる。

自分ではない誰かに、甘い声を上げて、身を任せて。


──地獄とは、こういう光景を指すのだろう。

狼巴は、何も言えなかった。

言葉を吐き出そうとしても、喉が詰まり、ただ呼吸だけが音を立てた。


目の前には、兄がいた。

いや、“かつて兄だったもの”がいた。


その姿は、あまりにも現実離れしていた。

どれほど夢の中であればと願ったことだろう。

けれど現実だった。確かに、いま、目の前で。


紫夕は蕩けた目で上客に抱きつき、喘ぎ、笑みすら浮かべている。

まるでそれが当然だというように。

そして、狼巴の視線など最初から存在しなかったかのように。


「お兄様、幸せそうだろう?」


景久の声が、真綿のように絡みつく。

甘やかで柔らかく、しかしその奥には冷たい牙が隠されていた。


「……兄上はね、もう“痛み”を忘れた。羞恥も、拒絶も、全部。代わりにあるのは、快楽と、服従と──陶酔だけ」


狼巴の肩に回された景久の手が、少しだけ力を込めた。

まるで、彼の心にまで指を差し入れるかのように、静かに、巧妙に。


「君はそれを“哀れ”だと見るかもしれない。だが私は、これこそが“完成”だと思うよ。……誰かに求められ、触れられ、必要とされること。それを、君は否定するのか?」


「……っ……」


狼巴は反論しようとした。

だが、言葉は出てこなかった。


その瞬間だった。

景久が彼の顎に指をかけ、顔を自分の方へと向けさせる。


「君は、強い子だね。こうしても、逃げない。偉いよ」


そして、そっと唇が触れた。

飾り物のように整えられた狼巴の唇に、景久のそれが重なる。


「……っ、やめろ……!」


狼巴は思わず身を引いた。

だが、景久は笑っただけだった。


「大丈夫。私は、無理はしない。君の気が向く時まで、ね……でもね、狼巴。君も、兄上のように“美しく壊れる”ことができる。それを見られる日を……私は楽しみにしている」


その声は、囁きというにはあまりにも重く、熱かった。


狼巴は、瞳の奥で静かに何かを殺した。


(しゆにいを、取り戻す。……どれだけ壊れていようと……どれだけ遠くに行ってしまっていても)


(ぼくの手で……必ず、取り戻す)


その決意は、景久の言葉や甘言を超えて、静かに、鋭く、芽を出していく。


そして──背後から、まだ続く音が響いていた。


畳の軋む音。

艶やかな声が交じり合い、布の擦れる音と共に、空気を揺らしている。


「はぁ……んっ、あぁ……もっと……っ、もっと……」


「気持ちいいかい? 紫夕……ふふ、いい子だ」


「ん……だって、もっと……欲しいの……っ」


狼巴は、拳を強く握りしめた。

その音すら飲み込まれてしまいそうな、淫靡な気配に包まれながら──。


それでも、瞳の奥でだけは、火が消えていなかった。


それは“兄を取り戻す”という、痛みと祈りの灯火。

その夜、狼巴の心に刻まれたのは、初めての本当の怒りだった。


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