第三章 鳥籠を破る者たち



夜はすでに更け、館の灯は次第に数を減らしていた。

けれど、紫夕の部屋だけは──その闇の奥に、何かがじっと潜んでいた。


香炉からくゆる白煙が、薄紫の筋を描きながら天井へ昇っていく。

薬草と甘香を混ぜたその香りは、決して不快ではなかった。むしろ心地よい。

だが紫夕は、その“心地よさ”すら罠だと知っていた。


彼は座布団の上に膝を折り、静かに呼吸を整えていた。

白木の床がかすかに冷たく、指先に沁みてくる。

その感覚を確かめるように、何度も手を開いては握る。


──目が冴える。

そして、身体も今なら、少しは動く。



ふと、障子の外で、足音が止まった。


ぴたり。


すべての空気が固まる。

やがて、ゆっくりと、まるで血の滴が障子を染めるような緊張の中で、音もなく戸が開かれた。


「……起きていたのだね、紫夕」


姿を現したのは、黒の羽織に銀糸の紋を浮かべた男──槻原 景久(つきはら かげひさ)だった。


細く整えられた眉、唇にはわずかな笑み。

それは氷のように滑らかで、残酷なまでに端正な顔立ちだった。

まるで夜の静寂そのものが人の形を取ったような存在感。


景久は、草履を脱ぎ、畳の上に音を立てずに上がった。

ひとつひとつの動作が、静謐で、整っていて、それが逆に恐ろしい。


「……その目。やはり、薬は飲んでいないのだな」


紫夕は答えなかった。

だが、その瞳には明確な拒絶の意志が宿っていた。


景久はふっと目を細める。

その反応すら、彼にとっては“愛すべきもの”だった。


「牙を剥いたか。美しいね。警戒心を剥き出しにする君は、まるで子猫のようだ。怯えながらも爪を立て、私に逆らおうとする。……愛らしい」


ゆっくりと景久の手が伸び、紫夕の顎を指先で掬った。

肌に触れた手は温かいが、異様なまでに滑らかで、冷たい感触だった。


紫夕は顔を逸らす。

だが、景久は気にする様子もなく、その髪を撫でながら囁いた。


「君の瞳には、まだ光がある。……その反抗心、私は嫌いではない。だが、躾は必要だ。君には、君なりの“役割”がある」



「実は--

君を身請けに出そうかと思うんだ」


紫夕の表情が凍る。恐れていた事実を告げられる予感に、心臓が冷たく沈んでいく感覚がした。


「しかし、これがまた…悩んでいてね。狼巴も愛らしいが、紫夕は美しい。手離すには、あまりに惜しい…」


「狼巴に何かしてみろ。お前の命は無い」


紫夕の声色は、少年に似つかわしくない殺気を帯びていた。武器を取り上げられても、忍は全身が暗器だ。その指先が、ひっそりと印を結ぶ。



しかし、景久は笑みを絶やすことなく佇んでいる。


「何もしてやいないさ、安心したまえ。

ただ--君は、ややもすれば少し危険だ」


懐から取り出されたのは、無色の液体の入った硝子の小瓶。

光の加減でさえ、その液体はまるで涙のように見えた。




「君の態度次第では、身請けはなかったことにしようと思っている。


これは、ね。君の“芯”を溶かす薬だよ。感情を鈍らせ、術の気配を消し、心をほどいていく。……そして、従順に、なる」


紫夕が目を見開いた瞬間、景久の腕がその身体を抱き寄せていた。


「離せっ!」


激しくもがく紫夕の背を、景久はゆるやかに撫でるだけ。

抵抗など、力で抑えるほどのことではない。

紫夕は細く、軽く、華奢で……ただ美しいだけの存在だった。


「やめろ……!」


叫びは喉でかき消され、景久の指が口元を塞ぐ。

そのまま小瓶の液が紫夕の唇を濡らし、無理矢理に喉へと滑り込む。


「……っ、や……」


景久は、喉元を撫でながら微笑んだ。

その仕草には、一切の暴力性がなかった。むしろ慈愛すら宿していた。


「いい子だ。……これで、ようやく私のものになる」


押し倒された身体の下で、畳が軋む。

香の煙が緩やかに揺れ、ふたりを包んだ。


景久は紫夕の耳元に顔を寄せ、そっと囁いた。


「君は、孤独で育ったのだろう。だからこそ……誰かに所有されることの意味を、これから教えてあげる。君には、狼巴とは違う“愛”を与えよう」


「っ……黙れ……っ」


「違うのだよ、紫夕。私は、君の強さも、弱さも、すべて愛している。……君が爪を立てるその姿さえ、私は愛してしまう」


「やめ……」


「君は、私の影だ。……この鳥籠の中で、私の指先ひとつで震える花。踏みにじることでしか開かない、美しさがあるのだよ」


その声は柔らかく、床に滴る花蜜のようだった。


そしてその夜、紫夕の身は景久に“抱かれた”。


だが──その心だけは、確かに沈まなかった。


どれほど穢されようと、奪われようと、

紫夕の胸奥には、絶対に触れさせぬ炎が、小さく、しかし確かに灯っていた。


それは、兄として、忍として、そして狼巴の“影”として生きる者の、誓い。




===




夜明け前、空はまだ濃紺に染まっていた。

帳を下ろした座敷の奥、紫夕は薄布を巻いた身体でじっと座していた。


景久の姿は、既に無かった。

身体の奥に、けだるく甘い熱が残っている。

彼が触れた痕が、皮膚の下でまだ疼いている。余韻に体がびくりと反応した。


紫夕にとって、耐え難い屈辱だった。


(抗えなかった)


ふ、と喉の奥に笑いのような息が漏れた。

情けなさか、怒りか、自嘲か……その全てを含んだ乾いた呼気。


(それでも──まだ、終わってなどいない)


紫夕は、痺れの残る指を静かに重ねる。

親指と中指を合わせ、印の片割れをなぞるように。


「……式、起動…──」


声にはならない。

だが、気配がわずかに揺れた。

背後の障子が一瞬だけ風に鳴ったような、かすかな感触。


紫夕は、閉ざされていた“術”の回路が、ほんの一筋通ったことを感じ取った。


(……薬で、術は封じられている。けれど、それは一時的な封鎖。完全な破壊ではない)


これまでの身体の違和感を逆手にとって、彼は察していた。

薬の効力は時間で揺らぐ。術者の意識が深く沈んでいないときには、“隙間”が生まれる。


紫夕はそれを、夜の一刻、薬が切れる前後の“鍛練”として探り始めていた。


(……日が沈む前の、微かな間。それが唯一の隙……)


身体の自由を奪われても、言葉を封じられても、印を結べなくても──

術者たる紫夕にとって、それは敗北ではない。


「……俺は、影。失ったものではなく、残されたものを使う……」


その目は、静かに冴えていた。

景久に抱かれた夜を反芻しながらも、紫夕の心にはすでに脱出のための計算が始まっていた。




===



同時刻、離れの屋敷。

狼巴は、一冊の巻物を膝に、黙って読んでいた。


その瞳は、確かに変わっていた。

飾られた着物の袖口を、すでに気に留めることもなく、与えられる言葉に従うふりだけをして、内面では別の炎を燃やしていた。



庭で交わった、ほんの一瞬の視線。


紫夕の目は、憂いを帯びてもまだ、折れていなかった。

それだけで、狼巴の全てが変わった。


「しゆにいを、たすけなきゃ」


呟いたその声に、誰も気づかない。

だがその誓いは、たとえ幼子のものでも、確かに戦の始まりを告げていた。





===




季節の移ろいを告げるには、まだ早すぎる時期だった。

それでも、毎朝差し込む光の角度がわずかに変わり、庭を渡る風が微かに柔らかさを帯びていく。花の香りも衣の質感も、ほんの少しずつだが、確実に変化していた。


ここに来たばかりの頃、狼巴はその変化に気づくことすらなかった。

だが、いくつもの朝と夜を繰り返し、部屋の中からしか季節を感じられない日々を送るうちに、否応なく感覚が鋭くなっていった。


あの時から、いくつの香を焚かれ、いくつの小袖を身に通しただろう。

琴の練習は指が痛むほど続き、書の筆運びも、いっそ無心でできるほどに慣れた。

甘い菓子を口にしながら、優雅に笑う仕草さえ、鏡の中の自分は違和感なくこなしていた。


──まるで、夢の中の牢獄。


動けば音も立たぬ絨毯の上。口を開けば柔らかな返答が返ってくる。

けれどその実、すべては「飼育された愛らしさ」の演技だった。


そんな日々が、どれだけ続いただろう。

狼巴にとっては恐ろしく長い年月に感じた。


やがて、ある種の“約束”が、日常に潜むようになる。


「旦那様は、今日の午後、外の御屋敷へお出かけです」


いつものように整えられた朝餉の後、女中が柔らかな笑みを浮かべながら告げた言葉に、狼巴は一度だけ頷いた。


驚いた様子も、はにかんだ様子も見せなかった。

けれどその胸の奥では、長い間凍てついていたものが、音もなくひとつ──きゅっと、動いた。


(……やっと、“あの部屋”に行ける)


景久の元で過ごす日々は、一見すれば贅沢だった。

毎朝、艶やかな小袖を着せ替えられ、琴や書の手ほどきを受け、上質な香や器で彩られた食事が供される。

望めば髪を結われ、飾りも与えられる。


──けれど、それはすべて“誰かの望む姫子”として整えられるだけの時間だった。


自分の意思で笑うことは許されず。

涙は、装いを乱すからと抑えられる。

一挙一動は監視され、褒められ、矯正される。


狼巴は理解していた。これは「愛されている」わけではない。ただ「飾られている」だけだ。


それでも彼は、諦めなかった。


彼は演じた。

従順に微笑み、景久の前では天真爛漫な振る舞いを見せた。

言葉を甘く崩し、時に膝にすがり、少女のように首を傾げて見せた。

拗ねることも、頬を染めることも、全て計算された演技だった。


そうして、少しずつ──ほんの少しずつ、彼は「自由」の輪郭を得ていった。


最初は、広間での散策。

次に、庭での読書。

そして今朝、ようやく「館内の散策を許す」という言葉が与えられた。


もちろん監視付きだ。

けれど、狼巴にはそれで十分だった。


その日、薄桃色の小袖に着替えた彼は、ゆっくりと歩き出した。

目元には柔らかな化粧。髪には緋の簪。誰が見ても、まるで箱入りの姫君のような姿だった。


けれど、彼の足は迷いなく向かっていた。

ただ一つの場所へ──


兄、紫夕が囚われている“あの部屋”へ。


何度も夢で見た扉。

呼びかけても返ってこない声。

あの夜、庭で垣間見た姿。


あの人に会わなければ、きっと自分の魂も、ここで本当に壊れてしまう。

そう思った。


今日だけは、偽りの姫子としてではなく──

弟、狼巴として、歩くのだ。



===



香が濃く満ちる奥座敷の前。

廊下には外光が届かず、昼間だというのに薄暗かった。微かに焚かれた香が鼻孔を満たし、甘く重たい残香が、意識の奥まで染み込んでくる。

その場に立つだけで、身体の境界が曖昧になっていくような、不穏な酩酊感があった。


障子の前に立たされた狼巴は、息を潜めるように立ち尽くしていた。


「……紫夕様、お客様でございます」


案内の女の声は、いつもと変わらぬ調子だった。

しかし、それが持つ意味を、狼巴は理解していた。これは“特別な通告”だ。


ふすまが音もなく引かれ、静かに開かれる。

そして、部屋の中から流れてきたのは──懐かしさと、異物感の入り混じった空気だった。

それは、確かに「紫夕」の気配だった。だが、同時にまったく知らない“なにか”の匂いも混ざっていた。


そして、現れた姿に、狼巴は息を呑んだ。


そこにいたのは、あまりにも見違える人物だった。


透けるような衣を身にまとい、襟元からは雪のように白い肌が覗く。

布の合わせは甘く、意図的に「隙」を見せつけるように仕立てられていた。

頬には仄かな紅が差され、唇には艶がのっていた。伏せられた睫毛は長く、目元には薄く化粧が施されている。


立ち姿は優美で、膝を折る動きにまで色香が滲む。

指先はしなやかで、細い腰にかかる布の揺れすら、どこか計算されているかのようだった。


──それが、かつて兄だった者の姿だった。


「……しゅ、にぃ……?」


喉が震え、狼巴の口から掠れた声が漏れた。


その声に反応するように、紫夕がこちらに顔を向ける。


だが、その瞳には何の色もなかった。


まるで感情というものが削ぎ落とされたような、磨かれた硝子のような光。

誰かを見つける目ではない。ただ、目の前にいる相手が“顧客”であるかどうかを確認する──それだけの目だった。


「……私をご所望、ですか?」


一言、そう囁くように紫夕が言った。


その瞬間、狼巴の胸の中で、何かが鋭く、はっきりと音を立てて割れた。


「……しゆ、にい…?」


絶望に声は震え、喉がからからに渇く。

その言葉が、何かを取り戻してくれることを、願ってやまなかった。


紫夕は、一瞬だけまばたきをした。


そのまばたきの動きに、確かに微かに──

ほんの一滴の揺らぎが、彼の中に走った気がした。


だが──それは、刹那だった。


すぐにまた、艶やかな微笑みが浮かぶ。

整えられた笑み。磨き上げられた商売道具としての「表情」。


「……いけないな。今日は……お話は、受けてないのに」


首を少し傾け、愛らしく困ったように笑う紫夕。

その姿は、男娼としての“完成形”だった。

媚び、甘え、受け入れ、拒まない。完璧に調教された「商品」の顔。


狼巴は、その場に立ったまま、唇を噛んだ。

血の味が口いっぱいに広がる。震える拳を膝に押し当て、なんとか崩れそうな心を繋ぎとめる。


(違う……これはしゆにいじゃない……。しゆにいは、絶対に、こんな……)


頭では否定しても、目の前の姿は現実だった。


着飾られ、化粧をされ、表情まで塗り替えられた兄の姿が、そこに在った。


そして、そのすべてが──槻原 景久の思惑どおりだった。


紫夕の壊れた姿を、弟に見せる。

かつて英雄のように慕った兄を、無残な形で突きつけることで、狼巴の心を砕く。

孤独に追い込まれた彼が、やがて“救い”を求めて縋る先は──景久、その人だけになるように。


まるで芝居のように。

まるで宗教のように。


すべては、計算され、演出された「崩壊の儀式」。


景久は、その静かな狂気の中で、二人を少しずつ蝕んでいく。


美しさを与え、優しさを偽り、形だけの幸福で縛りながら。

心を──ゆっくり、静かに、壊していく。



====




付き人に伴われ、狼巴は静かに去っていった。

紫夕は目の前に"人"がいなくなると、貼り付けていた笑みを消し、無表情のまま、ゆらりと部屋の奥へ進む。


香の煙が、薄く幾重にも重なりながら奥座敷に漂っていた。

ほのかに甘く、けれどどこか鈍く鼻を刺す匂い。焚かれている香の種類は日ごとに変わるが、香気そのものはもはや空間の一部となり、衣や髪に染みついて離れなかった。


畳の上には、幾筋かの皺が残る薄布が無造作に投げ出されている。

そのすぐ傍には、衣擦れの名残が微かに音となって空気を揺らし、重く湿った余韻として漂っていた。


寝台の上。

紫夕は、静かに身を横たえた。


虚ろな瞳は物憂げに伏せられ、その手は力なく掛け布を握っている。

細い指先は微かに震えていたが、その震えすらも、もはや本人の意思によるものではなかった。


その目には、何も映っていなかった。

過去も、未来も、自分という存在すらも。


ただ、白く乾いた天井の木目が、ぼんやりと視界の端で滲んでいた。


「……あいつ、死ぬかもね」


襖越しに、低く押し殺した声がかすかに届いた。

そのすぐ後、敷居の外に、複数の影が腰を下ろす気配がある。灯りは届かず、気配と匂いと声だけが空間を満たしていった。


「量、多すぎだろ、いきなり。俺たちよりよっぽど強いやつ使ってる」


「……でも、しょうがないよ。旦那様に気に入られたら──もう、終わりだ」


「そういうお前も、抜けてないんじゃないの。どれどれ、」


「もう、我慢…できなくなるから。ねえ、」


くぐもった笑い声が、乾いた音を伴って奥座敷の空気を濁らせた。

その笑いは軽い調子を装っていたが、どこか破綻していた。慰み者として生きる少年たちの、魂のひび割れからこぼれた空虚な音だった。


紫夕は、それらすべてを聞いていた。

けれど、何の反応も見せなかった。


笑い声も、気遣いのささやきも、物珍しげな視線も──

すべてが、まるで自分の身体を通り過ぎていく風のように、遠く、遠く、感情の外側をすり抜けていった。


「……」


静かに唇を閉ざしたまま、紫夕はゆるやかに体を起こす。

絹のような黒髪が頬を滑り、撫でる。

襟元が緩く開き、白い首筋が露わになる。そこに浮かぶ血管は透けるように細く、陶磁のような肌は、あまりに艶やかだった。


鏡に映る自分の姿を、一瞬だけ視界に入れる。


──そこにいるのは、かつて忍であり、兄であり、誰かを守ろうとしていた紫夕ではなかった。


艶を纏い、沈黙を身にまとい、微笑みと沈黙で欲望を受け入れるための「器」。


客の前では表情を整え、言葉を選び、肌を晒す。

どんな言葉も、どんな行為も拒まないように仕込まれ、訓練され、薬で意志を削られてきた。


自らの意志で望んだわけではない。

そうなるように、何度も何度も──

香と薬と疼痛と、夜ごとの「奉仕」を繰り返す中で、感情が、意識が、削がれていった。


「紫夕様、お客様がお見えです」


襖の外から、慣れた口調の女中の声が響いた。

その声は、命令でも懇願でもなく、ただの報告のように淡々としていた。


紫夕は、無言で頷いた。


一つの所作に、まるで感情が不要であることを証明するかのように、滑らかに立ち上がる。

絹が揺れる。

足音ひとつ立てず、寝台を降りるその動きは、男娼としての型を見事になぞっていた。


その姿には、もはや誰も違和感を覚えない。


あまりに自然で、あまりに美しく、あまりによくできすぎていて──

この空間にいる誰もが、それを「完成されたもの」として受け入れていた。


そして、紫夕はまた一人。

その夜もまた、客の懐へと静かに沈んでいった。


心をどこかに置き忘れたまま。

体だけを滑らせるように、音もなく水のように──

感情のない艶やかさで、微笑をたたえながら。


ただ、夜を耐えるために。





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