第二章 金色の鳥籠(参)

槻原 景久の館──その外観は、まさしく慈愛と善意の象徴だった。


通りから見えるその広壮な屋敷は、格子に覆われた庭の奥で、季節の花が美しく咲き誇り、門前には定期的に炊き出しの煙が立ちのぼっていた。

「孤児を保護し、衣食を与え、学びを施す館」として、人々の口にのぼる名声は高く、近隣の者たちは口々に「優しき旦那様」と称えた。


町で行き場を失った子供を見つければ、屋敷の者がすぐに引き取り、清潔な衣を与え、肌を傷つけぬよう丁寧に養い、美しく育てる。

しかも、そこには金銭の要求もなければ、無理な奉仕も強いられない──一見すれば、まさに天の慈悲を具現化したような場所だった。


その慈善ぶりは、貴族や役人たちの間でも広く知られていた。

景久の名刺が差し出されれば、都の高官ですら応じる者がいるほどの“清廉な後見人”だった。館には訪問客が絶えず、書簡には賞賛の辞が並ぶ。

まさに善人の鑑。誰もがそう信じていた。


──だが、その実態は、あまりにも異なっていた。


「……あの子、そろそろ“納品”でしょ」


ある日の午後。奥の離れに設けられた縁側で、女中たちがこそこそと囁き合っていた。

陽差しを浴びるように笑いながらも、その目は酷薄だった。


“納品”。それは、この館の裏側に息づく、もう一つの意味を持った言葉。


成長した子供たちの中で、景久の“趣味”に飽きられた者。あるいは、その整った容姿や気質が“高く売れる”と判断された者。

彼らは密かに屋敷から連れ出され、ある者は奴隷商会に、ある者は裏の市に、またある者は名家の密室へと──まるで商品であるかのように「送られて」いた。

その行き先がどこかを知る者はいない。誰も語らない。語らせない。


そして今、その気配が、紫夕のいる座敷にも忍び寄っていた。


「紫夕、来週の客……特別らしいぜ」


ある夜、灯火の下で布団に身を投げたまま、カンロが低く呟いた。


「……特別?」


「お前、指名されたんだよ。“ここの一番上”から」


紫夕は、意味がわからず、しばし言葉を失った。


けれど、次の瞬間、その意味がずしりと胸に沈んだ。


「……槻原、景久……」


声に出すと、名が呪いのように響いた。

部屋の空気がひやりと冷え、吐く息がかすかに白んだ気がした。


カンロはそれ以上何も言わず、ただ短く頷いた。

その沈黙がすべてを語っていた。長くここにいて、幾人もの少年が「納品」されていく様を見送ってきた彼の目には、もはや怒りも悲しみも浮かばない。ただ、黙して見送る者の目だった。




──その夜、紫夕は眠れなかった。


薬で重くなった身体。

霧のように濁った思考。

いつもなら、それだけで眠りに落ちるはずだったのに、なぜかこの夜ばかりは、胸の奥がざわざわと騒がしく、眠気を遠ざけていった。


ぼんやりと天井を見上げながら、ふと、ある光景が浮かぶ。


庭の向こう。儚げな足取りで歩いていた、小さな影。


──狼巴。


あの子が着ていたのは、場違いなほどに華やかな小袖だった。

あんな服、きっと自分では選ばない。いや、着たくもないはずだ。


なのに、足元は震え、瞳は霞んでいたのに──その目の奥には、確かに生きた光が宿っていた。


「まだ……あの子は、折れていない」


ぼろぼろになっても、心を差し出さずにいられるあの子の姿が、紫夕の胸を打った。

そして、気づいた。


自分も、まだ折れていないのだと。


薬で感覚を奪われ、術を封じられ、体がどうなろうとも──心まで捧げてしまえば、本当に終わる。


「……負けるものか」


誰にも聞こえぬように、紫夕は唇を噛み締め、心の中に深く言葉を刻んだ。


どれほど汚されても、魂までは売らない。


狼巴が生きている限り、自分もまた、生き抜く。


たとえこの体がどこかに売られようとも、心だけは渡さない。

その夜、紫夕の中に、確かな「意志」が灯った。


それは誰にも奪えない、彼だけの小さな炎だった。





===





「今夜、紫夕様の部屋には旦那様がお越しになります」


その言葉が、使用人の口から告げられた時、部屋の空気は不自然なほど静まり返った。

香炉にくゆる甘い香が、なぜか粘つくように漂っている。


使用人の手には、見慣れぬ小瓶があった。

淡紫の液体──新しい薬。


「これは、今夜の“前”に服用いただくものです」


紫夕はその瓶を見つめた。目の奥は静かに澱んでいた。


「……これを飲めば、なにが“楽”になる?」


「……気持ちが穏やかになり、恐れや痛みを感じにくくなります」


嘘は言っていない。ただ、その裏にあるものは明白だった。感情の剥奪。


紫夕はゆっくりと瓶を受け取った。手の中で、それを転がすように指を動かす。


「ありがとう。でも……もう、結構です」


その声は、驚くほど静かだった。


使用人の目が見開かれる。


「紫夕様、それは──」


「私の身体は、まだ……私のものだ。まだ、ね」


そして、紫夕は口の中に瓶の液を含んだまま、飲み込まずに背を向けた。


そして、障子の隙間に立ち、薬を吐き出した。


──久しく忘れていた、“意志”というものが、確かにその胸に息づいていた。





その頃、離れの屋敷。

狼巴もまた、静かに変わり始めていた。


床の間には新しい小袖が並べられ、髪は肩で切り揃えられ、女のように化粧を施される日々。

けれど、彼の心には確かに、“剣の心”が眠っていた。


ある日、使用人が目を離した隙に、狼巴は書庫へ忍び込んだ。

そこで見つけたのは、古い書物の一冊──戦記物語の巻物だった。


その中にあった一文が、彼の心を射抜いた。


「守りたる者の名を、己の命に刻みて、真の盾は刃より強し」


──盾。そうだ、自分は「守る」ために剣を握るはずだった。


しゆにいを、守るために。


「……ぼくは、ここで終わらない」


口元には、久しく浮かべていなかった表情が戻っていた。


笑み。それはまだ未熟な、幼き闘志の火。

だが、確かにそれは「希望」の光だった。





===




その夜、紫夕は部屋の灯をすべて消し、床に座していた。


そして、ひとつ、印を結んだ。


──まだ完全ではない。けれど、薬の影響が薄れた今、小さな術式ひとつくらいなら、使えるかもしれない。


「式、影紋・起動……」


指先に、かすかに紫の光が灯った。

封じられていた式の一部が、まだ生きていることを確認する。


「……やれる」


その瞬間、障子の向こうに、人の気配が立った。


槻原 景久。


紫夕はゆっくりと目を伏せた。


けれどその胸には、氷のように冷たい意志が灯っていた。




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