焼けない肉の、食えない話
にのまえ あきら
焼けない肉の、食えない話
◇台風一過の青空の下。とある焼き肉屋にて
すでに原稿に取り組んでいるはずの先生から『大事な話があるので会って話したい』と連絡があったのは約三十分前のこと。私はすべての業務を放りだしてタクシーに飛び乗った。
雲一つない青空を見ながらいったいどんな話なのかと考える。またスランプに陥ってしまったのだろうか。あるいは先日の台風で原稿データが全て飛んだ? 長いスランプを乗り越えたと思った矢先のデータ消失は堪えるだろう。なんにせよ、余程のことがあったに違いない。まだ乾き切っていない道路を慎重に走るタクシーに私は少し飛ばしてください、と急いた。
「別の小説を書こうと思うんです」
いつも打ち合わせで使う焼肉屋に着いてみれば、先生は先に肉を焼き始めており、ウーロン茶を片手にごく自然な調子で先の発言を言い放った。
「それはどういう……今書いてるのとは別シリーズということですか?」
「別シリーズというか、別ジャンルです。冒険小説というか、ファンタジーというか」
私はとっさに言葉を返しあぐねた。彼はミステリ作家だ。十八才という若さでデビューし、三作目が大ヒットして数々のメディアミックスを果たした。……が、その後スランプに陥り三年間新作を出していない。前任の担当編集はそんな先生のことをついに見限ってしまったらしく、私が後継の担当となった。書けなくなってしまった先生のため、私は彼と何度も打ち合わせを重ね、半年かけて新作プロットを作り、先月の頭に先生は原稿に取り組みだした。そのはずが、突然まったくの別ジャンルを書きたいと言い出した。
「またスランプに陥ってしまったんでしょうか」
「いえ、確かに中盤の展開で一度詰まりはしましたけど、自力で解消しました。最後まできちんとプロットは組み直したし」
「じゃあなぜ……」
「面白い話が、書けたんです」
たっぷりと間を持たせた、はっきりとした言い方だった。
この空間、この状況、この場面において、面白いと、先生は言った。
「……どんな話か拝見させてください」
視線がぶつかりあう。私の意志はそれだけで伝わったはずだ。
先生はトングを手に取ると、よく焼けた肉を自身と私の皿に取り分けてくださった。そうして空いた網に別の肉を載せる代わりに、鞄から茶封筒を取り出す。案の定、それは原稿だった。
私は、心して原稿を読み始めた。
◇一週間前。とある昼下がりのカフェにて
お盆の昼下がり。とある富豪と作家が街角のカフェに集まっていた。
「なあ“焼けない肉”を焼いてみたくねえか」
期待感と好奇心が全面に乗った声を上げるのは、富豪だった。サングラスの奥から覗く目は三日月のように曲がっており、見かけは常に上機嫌に見える。学生の時分に裏社会の住人とある賭けをして、一生を送るには困らない金を手にした一から十まで成金野郎である。最近は暇に飽かして普通ではない道楽に走り始めた。
「一休さんの二次創作みたいなこと三十路手前で言ってんなよ」
それに対し、ため息を返すのは作家だ。上から下まで根暗を絵に描いたような男で、学生の頃から本の虫であり、それが高じて在学中に文壇デビューを果たしたものの、てんで売れず家賃の支払いにも四苦八苦している。金が無いため、富豪にこき使われている。
「お前だって二十歳過ぎても壮大なおままごと書いてんだろうが」
富豪の方が年上のようだが作家は遠慮や萎縮など微塵もしておらず、夜道で街灯の下を這うゴキブリを見かけたような視線と態度を示していた。
けれど富豪はその一切を気にせず話を続ける。
「知り合いの蒐集家に聞いたんだ。どんなに熱を加えようと焼けない肉があるって」
「あってたまるか、そんな肉。腐ってるだけじゃないのか」
「腐ってても焼けはするだろ。そうじゃなくて耐燃性を持った肉が存在するらしいんだ」
肉の主成分はタンパク質であり、タンパク質は熱で変成する。耐燃性を持つ時点でそれは恐らく肉ではない。肉に見える別の何かだ。
「実際にあったら面白そうだろ? 見つけてみたくねえか?」
「みたくないね。いい加減僕を巻き込もうとせず一人でやってくれよ」
富豪はたびたび、今回のような『面白そうなこと』を持ってきては作家を巻き込んでいた。
それは今回のような探しものであったり、そうでなかったりする。
「まあ待てよ。お前が焼けない肉を見つけてくれたら、見返りはいつも以上に弾むぜ。そうだな……百万でどうだ」
「寝言は寝て言え。僕も帰って寝る。お前に呼び出されたせいで寝てないんだ」
立ち上がろうとする作家だったが、叩きつけるような音に顔を上げれば、茶封筒があった。中を確認すれば、札束が入っている。枚数は言うまでもない。
「実はその蒐集家と賭けをやっててな。これはお駄賃だ。一週間以内に“焼けない肉”を見つけてきたら、好きな額やるよ」
「見つけられなかったらどうなる」
「俺が世間から見つからなくなるだろうな!」
思わず富豪の頭をひっぱたく。木魚のような軽い音がした。
実質的な下請け、あるいは小間使いにされようとしている。それ自体は構わない。そんなのはいつものことだ。掛け金も、彼の命一つならむしろ安い方だろう。問題は、
「どんな桁の賭けをやってるのか知らないけど、勝てないものにベットするなよ。ゼロに何かけたってゼロだろうが」
“焼けない肉”を見つけるなどというバカな内容。こんなの一休さんやかぐや姫の、つまりお伽話の範疇だ。そも、何かを見つける、持ってくるという条件がこちらにしか課されていない時点で公平性がない。公平性がどうこう、などアングラ極まりない娯楽の前には行儀のよい発言でしかないことはわかっているが、それにしたって限度がある。
「どちらが先に用意できるか、っていう勝負ならまだしも、向こうは一週間ソファにふんぞり返ってワイン舐めてるだけで終わるんだろ? 今からでも降りろ。勝てる見込みがない」
「見込みはあるぜ。その蒐集家が賭けの対象にした時点でな」
「どういうことだよ」
「なんでも、存在するとわかったものは必ず集めてきた伝説的な蒐集家らしい。双頭の鯨の骨格標本。ヴォイニッチ手稿の欠落した28ページ。19世紀に鍛造された
「帰っていいか」
「すまん、最後らへんは適当言った。ただ、オタクに優しいギャルは実在すると俺は思ってる」
するわけないだろ、と言い返さない優しさを作家は持っていた。幻想を持ち続けることこそ作家に必要な素養だ。
「真面目な話をすると、焼けない肉について知ってるっつう人にアポがとれてるんだ。だからお前にはその人に会いに行ってもらいたい」
「そこまでして、なんで自分で会いに行かないんだよ」
「朝早いんだ。俺が朝起きられないの知ってるだろ」
さっきより強く頭をひっぱたく。鹿威しのような鋭い音がした。
「帰って今すぐ寝とけ」
「そう言いながら、お前は行ってくれるんだよな」
サングラスの向こうに常見える月は、見事な弧を描いてみせた。
「だって、面白そうだろ?」
◇六日前。豊洲市場。
未明。豊洲市場の六街区、水産仲卸売場棟の一階。
濡れたリノリウムの床に天井から降り注ぐ光が反射する中を作家は歩いていた。売人と客のやり取りする声や業者の注文する声で活気に溢れており、魚箱を満載した専用車両(ターレというらしい)が歩行者お構いなしの速度でそこいらを走り回っている。轢かれないよう注意しながら目当ての店へたどり着くと、ホースを巻いていた魚商がこちらの姿を認めて立ち上がった。
「あのいけすかない成金野郎が言ってたのはお前さんか。“焼けない肉”についての話を聞きたいんだってな」
見た目からお上りさんだと判別されてしまったらしい。こちらを値踏みするような視線に、けれど作家は話が早いとばかりにうなずいた。
「まあちょっとばかし待ってくれや。他のお客さんが来てねェンでな」
「他のお客? 営業時間はまだのはずじゃ」
作家が怪訝に首をかしげると、「ちょうどおでましだ」と魚商があごをしゃくった。そちらを振り返れば、スーツ姿の男たちが三名ほどやってくるところだった。それぞれ首元に倶利伽羅紋々が覗いていたり、ざんぎり頭に切れ込みが入っていたり、小指の先が欠けていたりする。
「ずいぶん任侠精神に富んでそうなお客さんですね」
「お前さんと同じだよ。あの人らも “焼けない肉”についての話を聞きたいっつークチだ」
「どんな連中と賭けやってんだアイツは……」
蒐集家との賭けと言っていたからてっきりサシかと思っていたが、複数人で行われている方が賭けの規模感的にも納得ではある。それはそれとして帰ったら一発ぶん殴らねば。
作家を合わせた都合四名が並び揃ったのを見て、魚商は話し始める。
「さて皆さん、朝っぱらからようこそおいでなすった。早速あんた方に“焼けない肉”の話をしてやろう。と、言いたいところだが、俺は師匠からこの与太話を聞かされた時、『この話はお前が伝えたいと思った一人にだけ話せ』と誓わされてな」
魚商の意味深な発言に、一同は眉をひそめる。
「だからあんた方には“価値”を示してもらう。俺が話したいと思えるだけの価値をな」
……なるほど、そう来たか。
「俺らの足元見ようってのかい、ええ?」「オレァ魚が嫌いでよ、普段食わねえからカルシウムが足りてねえんだわ」「おんどれ、誰にナマ言うとるかわかってんか」
商魂たくましいなと感心する作家とは対照的に、男たちは任侠精神に富んだ発言を繰り出す。ここだけ治安が圧倒的に悪い。だが魚商は余裕を持った表情のまま懐に手を入れると、一枚の古紙を取り出した。開かれたそれには達筆な書体で諸々書かれた末、一番下の行に茶色くなった拇印が押されている。何が書かれているかは不明だが、何かはわかる。誓約書だ。
これには男たちもたじろいだ様子を見せた。
「一人にしか伝えられないのは分かりましたけど“価値”は具体的にどう示すんです」
「ここは魚市場だぜ。競りに決まってる」
すぐさま手持ちのホワイトボードとマジックペンを手渡された。これなら
「時間は一分。品物は“焼けない肉”について。そんじゃあ、始めるぞ」
形式的には競りというよりオークションな気もするが、どちらも本質は同じだ。
出品物に対して己が出せる最高の対価を示す、ただそれのみ。
「三万出そう」「三万五千」「ならウチは四万や」
ストップウォッチが押されるやいなや、男たちはすぐさまホワイトボードを掲げ始める。最も提示した数字の大きい者に魚商が手を掲げていく。手を翻された瞬間、男たちは即座にホワイトボードの数字を書き直す。
金額は瞬く間に十万を超え、なおも加速度的に上がっていく。この調子では終了時点で五十万を超過する勢いだったが「残り三十秒」という声かけで俄然、男たちの動きが鈍った。
先ほどまでは射殺すような視線だったのが今はどこか牽制するような、あるいは雌伏をうかがうような視線になっている。掲げるホワイトボードの額もつい数秒前までは数万単位での上昇幅だったのが数千、数百にまで下がった。
まるでアキレスと亀だ、と作家は思う。
いや、終末時計の方が状況的には正しいか。
人類滅亡を残り0秒とした、仮想の時計。紛争や災害などの世界事情により、数字が0に近づいていく。運用当初は分単位で縮まっていたが、0秒に近づけば近づくほど、変化量も小さくなっていき、意味を成さないと批判を受けた。運用上の意義として0秒に到達してはいけないし、仮に0秒になったとして人類は破滅を迎えているのだから、誰も認識できない。
この状況に通ずるのは“然る理由により、到達できない数字がある”ということだ。
「アンタたちが渡された額は三十万程度……いや、額自体は五十万程度だけど、懐に入る額を少しでも多くしたくてこれ以上は釣り上げたくない。そんなところか」
競りが始まってから金額を掲示することもせず、ただ黙っていた作家が突然言葉を発したので、男たちは訝るような視線を向けた。
「アンタたちの雇い主はまともに話を付けてくれてなかったんだな」
次いだ言葉に彼らの視線と表情が一斉に鋭くなるが、作家は意に介さない。マジックペンを手に取ると、ホワイトボードに淀みなく数字を書き込み、掲げた。
「百万」
男たちの視線と表情が一変する。魚商も大口を開けていた。まるで目前に落雷でも起きたかのような。あるいは、隣にいたのが得体のしれない怪物だったと判明したかのような。
その怪物は「いや……」と思案して、ホワイトボードの数字を消した。
「やっぱり、百五十万出そう」
自らホワイトボードを取り下げ、数字を書き換えて掲げ直す。
誰かから「は?」と声があがった。「まだ足りないな、二百万だ」釣り上げる。「二百五十万でもいい」跳ね上げる。「三百万か」捩じり上げる。「四百万だな」
もはやホワイトボードを持つ手を動かしているのは作家だけだった。さらに金額を上乗せしようとする手を、魚商が掴んで止める。
「もういい!」
「本当に、こんな中途半端な額でいいんですか?」
現在、ホワイトボードに書かれた額は四百五十万だった。五百万の方がキリが良いのに、と視線で訴える作家に、魚商は呆れたように息を吐いた。
「もう時間だからな」
掲げられたストップウォッチはとっくのとうに0秒になっていた。
◇ ◇ ◇
「これは、賭けの体をした探し物の依頼なんです」
男たちが去っていき、魚商が開店準備を終えた後。作家はことのあらましと己が辿り着いた結論を述べた。
「 “存在する”ものは必ず集める伝説的な蒐集家が“焼けない肉”を見つけたら好きな額を支払うと約束した。それは『リソースを好きなだけ使わせるから“焼けない肉”を見つけてこい。見つけられなかったら社会的に抹消するぞ』という命令に言い換えられるんです」
明らかにパワーバランスが崩れた賭けだった。が、同様に賭け金も平等ではなかった。
好きな額を支払うという蒐集家の提示に対し、富豪が返したのは己の命一つ。
金額に換算すれば人間の価値は三千万程度と言われている。どうあっても釣り合わない。
つまり蒐集家の望みは相手の賭け金ではなく、賭けの内容に在った。富豪が文字通りになんでも使って “焼けない肉”を見つけてくることをこそ、期待していた。
だから作家は昨日の時点で『その都度、必要になった経費はすべて富豪に請求する』という約束を取り付けた。彼の口座番号を控えた通帳はすでに預り済みだった。
「それにしたって何百万も出す道理はねえだろう。あいつら主旨を理解してなかったんだから、百万の時点で勝負はついてたはずだ」
膨らんだ茶封筒を五つ、魚商は困惑した様子で掲げてみせる。吹っ掛けたはいいが、これほどまでの大金になると思っていなかったのだろう。
対して朝七時から魚市場の一角に混沌をもたらした怪物は、少しも笑わずに答える。
「そっちの方が、面白いでしょう」
魚商は呆気にとられた様子だったが、やがてお手上げとばかりに両手を上げて笑った。
「適当に話だけして見送ろうと思ってたが、気が変わったよ。俺も一緒に行ってやる」
「一緒に行くって、どこに?」
「フィリピンだよ。漁をしに行くんだ」
「……は?」
突然回り出した話についていけず困惑する作家に、魚商は白い歯を見せる。
「”焼けない肉”は魚肉なんだ」
聞けば、それはフィリピン海沖に生息する幻の魚らしかった。
名をヴァニサゴというらしい。
◇五日前。フィリピン
”焼けない肉”の情報を競り落としてから約三十時間後。
作家はフィリピン中部にあるボロンガンから東に、とある島へと向かっていた。
「良い天気だなぁ!」
「良い天気とか通り越してるでしょう、これは」
上機嫌な声をあげる魚商に対し、作家は殺人的な陽光で今にも溶けそうだった。ついでにいうと港で借りた船はおんぼろなうえ、魚商の運転は荒く乗り心地は最悪だった。
「あと少しの辛抱だ。後で魚でも捌いてやっから元気出せって」
魚商は小魚が何匹も入ったパックを掲げてみせる。
「イヤですよ、見たことねえ種類だとか言いながら買ってたやつでしょう。一人で食べて一人で腹壊してください」
出発前に魚市場を物色していた魚商が誰とも知れない露天商から買った魚だった。
「そういや今さら聞くのもなんだがよ、アンタは普段何してるんだ? まともな職についてたらこんなとこ来られねえだろ」
息をするのもおっくうな作家と違い、景色を楽しんでいた魚商がこちらを振り返る。
唐突ではあるが、まっとうな質問だった。
「作家をやっています。まったく売れてませんけど」
「このご時世じゃあな。どんなもん書いてんだ?」
「以前はミステリを少々」
「今は違うのか?」
「書きたいものが見つからなくて、見分を広めるために外に出ているんです」
まさか海を越えることになるとは思いもしなかったが。
「なんだ。参考にする殺人事件がねえのか?」
「そんな物騒な話じゃないですよ。冒険小説を書きたいけど箸にも棒にもかからない人間が試しにミステリを書いてみたら、それが受賞して世に出てしまって苦しんだってだけです」
自嘲を浮かべる作家に対し、魚商はふうんと曖昧に鼻を鳴らした。
「よくわかんねえけど、好きなもの書けばいいんじゃねえの。その冒険小説をさ」
「それがミステリばっか読み書きするうちに、冒険小説のどんなところが好きだったかも忘れてしまったんですよ」
「本末転倒じゃねえか」
本当にその通りだった。いったい何が面白くて小説なんぞを書こうと思ったのか。それを思い出すよりも先に、魚商が声を上げるのが先だった。
「もう着くぞ!」
いつの間にか、目前に島が見えていた。入り江に着くと、島民が手厚く出迎えてくれる。なんでも島に外部の人が観光目的で来るのは十数年ぶりらしい。
「ヴァニサゴを釣りたいんです」
だが、作家たちが開口一番そう告げると、彼らの表情が消え去った。
それから、場が爆発した。ある者は失望を隠そうともせず島の中へ戻ろうとし、ある者は興奮を露わにして隣の人間を見やる。こちらに手招きをしようとする者がいれば、それを阻止しようと腕を掴む者が現れる。彼らが取っ組み合いになったのを止めようとする者が出て、それに巻き込まれていく者がいる。あっという間に人間同士がもみくちゃになって団子になった。作家はテレビ中継で見た野球の場外乱闘を思い出していた。
と、騒ぎを抜けて一人の若者がこちらにやってきた。彼は作家たちを手招きすると離れた場所まで連れて行き、気まずそうな表情で話し出した。
「十数年前にも、あなたたちみたいに人が来たことがあるんです。自分たちの親世代は彼らに協力しました。けれど、彼らはヴァニサゴそのものを捕ろうとして、災いを受けました。ヴァニサゴは自分たちにとって特別な魚です。海の象徴で守り神。無闇に触れようとしてはいけない。それ以来、ヴァニサゴは姿を現していません。少なくとも、僕たちの代では誰もヴァニサゴを見たことがないんです」
告げられた事件。そんなことがあれば確かにヴァニサゴについて触れたくないのもわかる。
「ただ、いい加減ヴァニサゴの加護を戻すべきだという意見もあって、村は二つに割れているんです。そこにあなた達が来たので、もうこの衝突は避けられませんでした」
そういうことだったのかと納得する作家の隣で、魚商は沈黙していた。見れば、瘧でも起こしたかのようにぶるぶると震えている。
「どうしたんです。来る前に食べたエスカベッセでも
安さを求めた結果、衛生面が仇になったかと店選びを悔いた作家に、魚商は首を振る。
「十数年前にヴァニサゴを捕ろうとしたやつらがいるって言ってただろ。俺の師匠は、その一人だ」
衝撃の発言に作家は目を見開いた。
「前に見せた誓約書、あれはヴァニサゴについて金輪際触れないって内容なんだ。触れようにもヴァニサゴの釣りに失敗して以降、船に乗ろうとしたら眩暈がするようになって漁業すらできなくなったんだけどな。……災いって、あれのことだったのかよ」
魚商の力無い笑みに沿って深まる頬の皺は、彼の人生が懊悩と共にあった証だった。
「師匠はなぜ神聖視されてるような魚を釣ろうとしたんです」
魚商はぐ、と喉を鳴らす。深海のように暗く重い事情をこのような場で語り明かすことは憚られるのだろう。けれど、魚商は告げた。
「『伝説の魚がいるなら釣りてえだろ!』ってさ」
「発想が小学生すぎる」
吐き捨てた作家に、魚商は掴みかかるように返す。
「仕方ねえだろ漁師なんだから! そこに魚いたら釣るだろ⁉」
「釣り師なら百歩譲って分かりますよ? けどアンタら漁師でしょうが」
「釣り師と漁師って違いあんのか?」
「……知りませんよ、そんなの」
作家は項垂れるように息を吐いた。こうなったら自力でヴァニサゴについて情報を集めるしかない、と連日の徹夜への覚悟を固めたところで魚商が大声を上げた。
「うぉわ! なんだこのジジイ……!」
見れば、彼らの前に杖をついた小柄な老爺が立っていた。灰煙を固形にしたような毛が顔の下半分を覆っている。彼はくぐもった声で言った。
「儀式をしなされ」
「儀式?」
「儀式をしなされ」
「儀式ってなんだ」
「儀式をしなされ」
「それしか言えねえのかこのジジイ」
儀式をしなされbotと化した老爺に作家と魚商が困惑していると、遠巻きにこちらを伺っていた島民たちが再び騒ぎ出した。
「儀式を行う。あなたたちも動きやすい格好になりなさい」
言うが早いか振り返った老爺が島民たちに杖を振ると、彼らは駆け足で島の中へ戻っていく。その反応は悲喜こもごもだが、誰もが彼の意向に従っていた。不思議な現象だと思ったところでこの老爺は島の長かと、作家はようやく思い至った。
◇ ◇ ◇
まもなく、作家たちは島の中心広場にいざなわれた。周囲に島民たちが並んで騒ぎ立てている様は、さながら
広場の奥には祭壇のような高場が用意されており、島長と島民が四名、松明を持って並んで座っていた。着飾った彼らはこの場において特別な役割を持つのだと一目でわかる。
祭壇の前には自分たちを取り成してくれた若者を含めた数人の島民がいた。
「これから僕たちは儀式に挑みます。選ばれるかどうかは、彼らが決めます」
彼は言った。これから行われるのはヴァニサゴに
そうして彼は一冊の古い紙束をこちらによこした。
「なんだこりゃ。ずいぶんボロいな」
「ボロいとかいう程度じゃないですけど、これ」
干し草を束ねたもので綴じただけの、手垢と風砂に煤けたそれには特徴的な絵柄でいくつもの人物画が描かれていた。
「僕らが儀式に使う踊りの一覧です」
そこにはいくつもの動きが描かれているが、どれも奇怪なものばかりで、どんな意味が持たされているのかわからない。
「これらの中からいくつかを組み合わせて、意味を持たせた一連の動きとするんです。それを祭壇の上にいる彼らが審査して、誰がより良い舞いを神に見せられたか決めます」
説明を受けた作家は得心いったようにうなずく。
「つまり、儀式は舞の奉納ってことなのか」
「どっちかっていうとダンスバトルじゃねえか? あいつらより良い踊りできたら勝ちってわけだろ?」
「わけだろ、って踊れるんですか?」
「ステップなら踏めるぞ。酒飲んだ時とか」
「千鳥足でしょうそれ」
プロのダンサーでもない限り、初見の動きをコピーするのは難しい。それでも少しでも動きを理解しようと目を皿にして、作家はそれぞれの絵の横に小さく記された文章に気づいた。
「これ、文章はなんて書いてあるんですか?」
「さあ、僕たちもよくわかりません。長老もわからないと」
「なんでだ……」
「俺たちだって百年以上前の物なんてほとんど読めないだろ。そういうもんだ」
言いながら魚商はパラパラと紙をめくり、ブツブツと呟いている。
「そういうあなたは読めるんです?」
「師匠の影響で少しな。見た感じ、踊りの動きじゃなさそうだが……完全に解読する時間はなさそうだから後でだな」
魚商が紙束を閉じるのと同時に、地の底から響くような音が幾重にも鳴り始める。音楽隊が多種多様な打楽器を打ち鳴らしているのだ。ここが崖下か、洞窟の最奥であるかのような錯覚とある種の高揚感をもたらす音楽に合わせて、一人が踊り始めた。
不思議な踊りだった。というより、それは踊りなのだろうか。
決してでたらめではない。何かの規則、あるいは法則に則った動きであることはわかる。だが、作家が見てきた踊りという枠組みの中にこんな体の動き、拍の取り方、足さばきは存在していなかった。何よりもその異様な情熱と迫真さ。目を離せない。
音が一段と大きく、複雑さを増した。ふいに後ろに控えていた一人が踊り手の身体に抱き着いた。勢いに任せるまま、二人は円を描くように中央を歩いて、踊り手が抱き着いてきた方の身体に手をかけた。
持ち上げた手は抱き着いた側の服を引っ掛け、上半身が露わになったが、その身体を見た作家は呻きを上げた。細く筋肉のついた両脇には、五つの赤い線がハッキリと残っていた。つまり、踊り手は肉を抉る勢いで思い切り爪を立てていたのだ。
抱き着いた側はその場に倒れ、指先を赤く染めた踊り手は両手を内側に高く掲げて咆哮を上げた。そうして、音楽が止まった。
祭壇上にいる審査員たちは松明を床にどんどんと叩きつけた。島民たちが声を上げ、拍手喝さいしているのを見るに、認められたのだろう。唯一、島長だけが微動だにしていない。やがて、彼らの視線がこちらに向き始めた。
「どうする」
魚商が顔を寄せる。その頬に汗が流れているのは熱気のせいだけではないだろう。
「……僕が出ます」
「今のやつ、踊れるのか?」
「踊れませんよ。プロのダンサーでも振付師でもないんですから」
「じゃあどうするんだよ」
「やれることをやるだけです」
魚商が目を丸くするのを横目に、作家は中央へ進む。
やがて音楽隊が打楽器群を打ち鳴らし始める。地の底から鳴り響くような音楽をBGMに、作家は構えを取った。
それは、一般に四股踏みと言われる姿勢だった。
正面に向けた腕を左から右に波立たせ、四カウント目でもう片方の手に入れ替える。
下に向けた手をぐるぐると回しながら上げ、最後は天に向かって叫びと共に突き上げる。その動きを三度繰り返した後、飛び上がる。そして、再び腰を低く落としながら、
「どっこいしょー! どっこいしょっ!」
腰を落として腕を引き、裂ぱくの気合で叫んだ。
「ソーランソーランッ!」
物を抱えるように腕を寄せ、背後へ思い切りよく放るイメージで立ち上がる。
「ニシン来たかとカモメに問えばッ! わたしゃ立つ鳥ッ、波に聞けッチョイ!」
その場にいる誰もが呆気に取られていた。魚商は開いた口が塞がらなかった。当の本人はそんな衆目の反応は意に介さず、北海道の民謡『ソーラン節』を用いた踊りを一心に踊りきった。
「アンタ……なんでソーラン節なんか踊ったんだ?」
明日は全身筋肉痛だろうと確信しながら戻ると、開口一番に疑問が飛んできた。
「小学校の運動会で踊ったんですよ。やりませんでした?」
「そういうことが聞きてえわけじゃねえ、わかってんだろ」
俺んとこは花笠音頭だったしな、と魚商はぼやく。
作家は汗をシャツの腹で拭いながら答える。
「すもうと同じだと思ったんです」
「すもうって……この相撲か?」
張り手の動きをする魚商に作家は首肯を返す。
「相撲の本質も、神に対する奉納なんです。誰が一番上手く綱を取れるかではなく、神を楽しませることが目的。一番を決めるのは神により楽しんでもらうためでしかない」
人々の方へ振り返り、作家は滔々と語る。
「この儀式の本質は、聖なる船出に向かうに足る人間を見定めること。誰が一番キレのあるステップを踏めるか決めることじゃない。だから僕は己の意義を示し、意思を伝えるのに最も適した舞を踊った。それだけです」
祭壇に目を向ければ、島長はこちらを向いていた。
他の四名がそれぞれを困惑気味に見やる中、彼はゆっくりとうなずき――
◇ ◇ ◇
十分後、二人は入り江で突っ立っていた。
「全然ダメじゃねえか」
島長と四名の島民たちの話し合いが終わったと思ったら、有無を言わさずここまで連れてこられ、彼らはそのまま島の中へと戻ってしまったのだ。
「漁じゃないのに漁の唄を選んだのはやっぱり良くなかったですかね」
「そういう問題じゃねえだろ」
二人の間を、重たい潮風が吹き抜けていく。
「これからどうする」
「とりあえず
「間に合うのかよ? あと三日しかねえんだろ?」
飛行機のチケットは最悪当日に取れるとはいえ、諸々の時間を鑑みればまともに行動できるのは二日もないだろう。
ひと一人の社会的、あるいは本当の生死が懸かった事態の進退に憂慮する魚商に対し、作家は広大な海原を眺めながら不敵に笑ってみせる。
「間に合わせますよ。僕は締め切りを一度だって破ったことはないんです」
「そりゃ結構なことだ」
「いつも頭下げて伸ばしてもらってますからね」
「いつかそうして地面にキスしたまま死ぬことになりそうだな」
そんなこんなで二人が船に乗り込もうとした、その時だった。
「おーい!」
声がした方に顔を向けると、入り江の左手側から回り込むようにして一艘の小舟が姿を現すところだった。舳先では先ほどの若者がこちらに向かって手を振っている。
「さっさと追い出したくせに見送りはしてくれるらしいな」
「後ろにも何艘か出てますね」
「何艘っていうか……何十だよ、これ」
現れたのは都合、三十艘の小舟だった。一艘につき二人か三人乗っているので、島民のほとんどがいる計算になる。ちょっとした大艦隊だ。
盛大すぎる見送りに二人が困惑して立ち尽くしていると、
「そんなうるさい船じゃダメです。早くこっちの船に乗ってください!」
「乗れって、僕らこれレンタルしてるから返さなくちゃいけないんですけど……」
二人に対し、若者はもろ手をあげながら叫ぶ。
「あんなに情熱的な踊りをしてくれたのに、ヴァニサゴに会いに行かないんですか⁉」
◇午後 フィリピン海沖
二人は若者に連れられるまま海に出た。
「ソーラン節で通じたな……」
「花笠音頭でもいけましたね」
「いけてたまるかよ」
午後になって日差しはきつくなるかと思いきや、雲が出てきたので日光は問題なかった。それどころか海上は風が常に吹いていることもあり、涼しいくらいだった。
「それより、なんでこんなに人がいるんだ? 儀式は飾りだったのか?」
振り返れば、等間隔にいくつもの小舟が続いていて水平線には小指の爪ほどになったアンディス島が見える。若者が釣竿を取り出しながら言う。
「実はいきなりヴァニサゴに会えるわけではなくて、ヴァニサゴを呼び寄せるために海竜を呼ぶ必要があるんです」
「は、海竜?」
魚商が素っ頓狂な声をあげるが、若者は平然と続ける。
「なので、まず海竜を呼ぶための
「なるほど」
うなずく作家に対し、魚商は信じられないという視線を向けてくる。
「今の話に頷ける部分あったか?」
「今の話で首を捻ってるくらいなら “焼けない肉”なんか探してないですよ」
「……それもそうか」
若者が釣竿を振れば、針先はひゅんと
「人手が要るって言ってましたけど、もしかして時間もかかります?」
作家はその長閑さに嫌な予感を覚えた。
「僕の父親は二週間かけたと聞きました。物凄く運が良ければ今日中に釣れますよ」
「物凄く運が悪かったら?」
「来年の夏ごろにまた挑戦することになります」
思わずため息を吐きそうになるのを、へたくそな口笛でごまかした。
「僕たちが再挑戦するのは来世になりそうですね」
「弱気なこと言ってんなよ。俺ァむしろ安心したぜ。簡単に釣れるんじゃあ神じゃねえ」
今からでも土下座の際に添える口上を考えておこうかと作家が現実逃避をしている間、魚商は釣りの準備をしていた。
「さっきまで海竜がどうのって言ってたのに」
「アンタの言うことに納得したからだよ。俺が釣ってやるから待ってろって」
彼にとっても今回の旅は得難い僥倖であり、乗り越えるべき試練なのだ。
普段はてんで頼りにならないが、こと釣りに関しては心強いなと思ったのと同時、魚商が振った竿の針先に明らか大きなモノがついているのを作家は見逃さなかった。
「なんか今でかいのついてませんでした?」
「ああ、餌にこれ使ってる。さっきのやつに餌として使えるって書いてあったからよ」
魚商が示したのは今朝がた魚市場で買っていた小魚のパックだった。隣には儀式の際に見た古い紙束がある。
「どっちもいつの間に持ってきたんですか。というかそんな死んでる魚で釣れるわけ、」
「お、かかった」
「うそだろ」
何の冗談だと言いたくなるようなタイミングだった。魚商が手首をしならせ、手前に跳ね上げれば黒々とした魚が釣れた。それを見た若者が目を輝かせる。
「
「よせやい、腕が良いだけだっての」
騒ぎ立てて周囲の船にも餌魚が釣れたと報告をする二人に作家は半ば呆れながら、珍しい魚だという若者の発言を思いだして、船床で生を求めてのたうち回る魚を見下ろしてみる。そして動きを止めた。もしかすると、呼吸すら止まっていたかもしれない。
「……肺魚だ」
見間違いではないかと己の目を疑うが、やはり間違いではない。全体観としてなまずに近い形状をしているが、決定的な違いとしてこの魚には後ろヒレがある。上から見れば爬虫類に進化していけそうな、四肢じみた立派なヒレが。
「おかしい、なんで肺魚がいる」
「どうしたよ、そんなに騒ぎ立てて。その魚がどうかしたのか」
傍からも作家の狼狽ぶりは見えたらしい。先ほどまで騒いでいた魚商が声をかけてくる。
「こいつは肺魚っていう、エラじゃなく肺で呼吸をする魚なんですけど」
「あー、ガキんときに教科書で読んだ覚えあるな。もしかして珍しい種類なのか?」
「珍しいとかそんな次元の話じゃありません。現存している肺魚はすべて淡水種であり、海にいないんです。百歩譲って汽水種や海水種がいたとしても『肺で息をする』という生態上、こんな沖合にいるはずがないんです!」
イルカやシャチ、アザラシなど肺呼吸をする海棲生物はもちろんいる。だが、それらは全て哺乳類であり、魚類ではない。水底から水面に数十メートルもの距離をかけて酸素を補給する行為を一日に何度も行えるほどの活動能力を肺魚は持ち得ない。
魚商は事の異常性をあまり深く捉えられておらず、緩んだ声をあげる。
「じゃあ新種発見ってことじゃねえか。なんでそんなおっかない顔してんだよ」
「海の中からエラ呼吸できる人間が目の前に現れたとしたら、どう思います?」
へらへらと歪んでいた魚商の唇が逆方向に曲がった。
「……そりゃおっかねえな」
◇ ◇ ◇
肺魚を釣り上げた後、他の船は島へと戻っていったが一行はさらに沖へと出た。
「この辺りでやります。止めてください」
首にぶらさげた球形のコンパスじみた計器と彼方の水平線を何度も見比べていた若者がついに声をあげる。
「腕が折れるかと思った……」
「こいつァ胸にくるな」
櫂を手放し、息を吐く二人の全身は滴った汗と入り込んだ海水でしとどに濡れていた。
いったいどれほど漕いだのだろうと辺りを見回してみれば、日に染まる橙の海原と水平線が続くばかりで、海鳥の影ひとつすら見えない。神様は静かな場所を好むのだな、と年甲斐もないことを考える。
「日が暮れる前に餌魚の準備をしましょう」
若者はナイフを取り出すと肺魚へと突き立てた。腹を掻っ捌き、その身を開けば凄まじい悪臭が噴出する。
「くっせぇ、なんだこれ!」
形容しがたいが、磯の香りを百倍強めたような強烈な臭いだった。そのなかに古井戸や掃除されずに長年経った側溝から立ち昇るような臭いも混じっている。
「この臭いに釣られてヴァニサゴの餌魚がやってくるんです」
青年は肺魚の心肺を切り出すと、針先に付けて海に投げた。
「一緒に竿を持ってください。とてもじゃないですが、僕一人では海竜を相手にできません」
「確かに。そりゃあ竜だしな。ほら、アンタも」
「持ちますけど、三人は邪魔になりません?」
そうして言われるとおりに竿を持った時、若者の手が震えていることに気づく。
「緊張してます?」
「ええ、すごく怖いです。なにせこれから来るのは嵐ですから」
「嵐?」
変な言い回しだな、と思うのもつかの間、若者が「来ます!」と声高に言った。
顔をあげれば、遠くに波が立っている。
「なんだ……?」
最初はただの水飛沫かと思った。しかし、水飛沫はうねうねと軌道を描きながら、徐々にこちらへやってくる。
その光景に作家は、リバイバル上映で見たジョーズという映画のあるシーンを思い出した。おどろおどろしいBGMと共に波間から出た背ビレがゆっくりと、けれど確実にこちらのボートへ近づいてくる有名なシーンだ。時代が古いため一目で作り物とわかるちゃちな背ビレに、別の場で何度も使われて安っぽくなったBGMも相まって、当時は毛ほども怖いと思わなかった。なぜこの映画がこれほどまでに人気を博したのかと、首をひねった。けれど、今ならわかる。逃げられない状況で、向こうから正体不明の何かが迫ってくるのは、凄まじい恐怖だ。
こちらへ波が近づいてくる。段々とその速度が上がっていく。船の目前まで到達した瞬間、がくんと船全体が揺れた。竿が海中へと引き込まれようとしている。
「引っ張って‼」
言われるまでもなく、船から振り落とされないように三人は全力で抗った。凄まじい膂力に竿は音を立てて軋み、作家は勢いに持っていかれて前へつんのめる。とっさに船のへりに手をやって、海面を覗き込むような形になる。そして、見た。
竿に食らいつく獰猛な
「
それはUMAに指定されている、空想上の生き物。目撃事例は古来から無数にあり、旧約聖書に記されているリヴァイアサンの元とも言われている。
目の前に、伝説がいた。
すでにまともな状況ではないと頭ではわかっていたはずなのに、こうして本物を前にしてようやく、作家は自分達があり得ざる扉を開いていたことを実感した。
大きく揺れる船の上で、魚商と共に竿を掴み続ける若者がいよいよ叫んだ。
「嵐が来ます‼」
ふっと、影が差した。
上を向けば、先ほどまで晴天だったはずの空がみるみる陰っていく。映像を早送りにしたような、こぼしたインクが広がっていくような、馬鹿げた速度で。
目の下を何かが叩いた。そう思った時には
「おいっ⁉」
魚商の声がやけに遠く聞こえて、首だけそちらに向けてみれば、彼が船のへりからこちらに手を伸ばしていた。竿を手放しちゃだめでしょうと作家は自分を棚にあげて注意しようとして、はたと気づく。
(……なんで、自分はそれを外から見ている?)
問いに対する答えは、海水の冷たさが教えてくれた。
全身を冷たい水が包み込み、激流によって身体のコントロールが効かなくなり、一瞬にして視界が回転する。荒れ狂う海流の前に平衡感覚など一切の意味を成さず、天地無用とはこのことを言うのだなと、無関係のことを思う。
関係のある思考は死んだな、とただそれだけ。
常人であれば極度の恐慌に陥り、一瞬にして肺の酸素を使い切っている場面。けれど、どうしようもない
だから、激しい海流から解放されたときも、まだ意識が明瞭だった。
そして、己が大量の魚影に囲まれているとすぐに把握できた。
(なんだこれ……⁉)
ネイチャービデオで見た小魚の大群など比にならない。上下左右、見回す視界のすべてで多種多様な魚が泳いでいる。フィリピン海の魚すべてが一堂に会している勢いだ。己が魚人王にでもなったのかと魚群を見つめ、すぐ隣を泳ぐ魚と目が合った。次の魚とも。その次も。
そこでようやく、気づいた。
気絶しなかっただけでも、奇跡と言えた。
見ているのだ。
白に一滴の黒を垂らしたような、真円の瞳が。
無遠慮に、無造作に、無感情に。
幾千、幾万もの魚が、こちらを、凝視している。
そうして、群魚が、割拠する、最中を、
割って、
現れた、あまりに、
巨大な――――。
作家の意識は、そこで途絶えた。
◇四日前。ボロンガン
目が覚めると、目の前に扇風機があった。至近距離から風に煽られて、数度瞬く。
「なん……」
口を開くと、パリッという乾燥した音を伴って唇が割れた。電撃じみた痛みに悶えて起き上がると、見知らぬナースと目が合う。
「体調は問題ない? 喋れる?」
「……喉が渇いてます」
「大丈夫そうね。ウォーターサーバならそこにあるわ。点滴つけてるから、立つときはキャスター一緒に持ってね」
女性は先ほどから続けている作業に戻ってしまい、作家は静寂に取り残された。
「あの、ここはどこなんでしょう。自分は離島にいたはずなんですが」
一見すれば病室は日本とほとんど変わりないが、備え付けられたテレビから流れるのは確かにフィリピンのニュースだった。今は天気予報をやっているらしく、ビサヤ諸島の各地に大雨のマークが並んでいる。
「ボロンガン・ドクターズ・ホスピタルよ。あなたがどこから来たかは知らない。今の私たちはあなたみたいな急患の対応で手いっぱいだから」
「僕みたいな人が他にもいるんですか」
ナースがあごで示した通り、ベッドがあるはずの部屋の角はすべてパーテーションで区切られていた。扉の向こうで足音や話し声がせわしなく聞こえてくることから、彼女の言うことは真実なのだろう。
「そういえば、この病院に他の日本人は搬送されてませんか?」
「私も全員を把握しきれてるわけじゃないから、わからないわ」
「連れが一緒にいたんです。あと、離島で一緒になった若者も」
作家は焦燥でシーツをにぎりしめる。
彼らは無事なのだろうか。もし、まだ搬送されていないのだとしたら。
ふと、作家の前に手が差し出された。顔を上げれば、ナースが耳元に手をやりながら、横目で鋭い視線をこちらに向けている。インカムで連絡が来ているから喋るな、というジェスチャーだったらしい。
黙ること数秒、インカムから手を離したナースは一転して笑みを浮かべた。
「おめでとう、退院よ。今点滴を外してあげる」
「は?」
急展開について行けない作家に、ナースがあっけらかんと告げる。
「あなたの連れがロビーに来てるわ。二人とも無事みたいよ」
◇ ◇ ◇
携帯端末はなぜか生きていて、そのことに首を捻りながらロビーに行けば、ガラス扉から大荒れの景色が見えた。バケツをひっくり返したような豪雨の中、竹やマニラ麻が強風に煽られて大きなウェーブを描いている。
ほとんど人のいないロビーに作家の足音はよく響いて、たった二人しかいない先客もすぐにこちらに気づいた。魚商と若者だった。
「這う這うの体で来るかと思ってたが、元気そうじゃねえか」
「……点滴ってすごいんですよ」
思わず涙腺が緩んだが、普段通りの調子で接してくる魚商に、作家は負けん気を起こしてむりやり笑う。
「ごめんなさい。僕の不注意であなたを危険にさらしました。ヴァニサゴの加護がなければ、僕は今ごろあなた達を海の藻屑にしてしまっていました」
隣にいる若者はすすり泣きながら頭をさげてきた。
「いやいや、海に落ちたのは完全に僕の注意不足でしたから」
「朝からずっとこうなんだ。ほっといてやれ」
「はあ……それで、二人はどうやってここに?」
「俺たちも病院に担ぎこまれたクチで、アンタより先に目覚めたってだけだ。アンタが目覚めるまでの間に話を聞いて回ってたんだが、沖に出てた人はみんなまとめて東側の海岸に打ち上げられたらしい。全員身元が取れて行方不明者もゼロだそうだ」
「行方不明者もゼロ? そんな都合の良いことがあるのか?」
作家は眉根をひそめるが、その問いには若者が答えた。
「それこそがヴァニサゴの加護です。あれは、海に生きるモノすべての味方なんです」
彼は未だ泣きながらも、瞳には強い意志を宿していた。信ずる神の御業をその身で感じながら、無関係の他者を巻き込んだことには責任を感じているようだった。
「神様に何言ったってしょうがねえ。”神様のやったこと”で全部済まされちまうんだ」
「ヴァニサゴと言えば、あれからどうなったんです? 釣れた……わけはないでしょうけど」
作家が覚えているのは海に落ちて無数の魚に囲まれた末、ヴァニサゴと対面したところまでだ。謎多き肺魚を釣り、その
作家の問いに、魚商はどこか諦念を含んだ微苦笑でタブレット端末を取り出した。
「どうやら俺たち、神様を怒らせちまったらしい」
差し出された端末を受け取れば、画面には『フィリピン海沖にて超大型台風発生』という見出しのネットニュース記事。内容は見出し通り、昨夜未明にフィリピン海沖で超巨大台風が発生したというもの。が、その詳細に作家は思わず声を出す。
「中心気圧750ヘクトパスカルの、最大瞬間風速200メートル超え⁉」
危うくタブレットを落としかけるが、魚商が上手く掴んで懐にしまいなおす。
「ダンプカーが浮いて吹き飛ぶんだとよ。そこまで来たら見てみてーよな」
「見る前に自分が吹っ飛んでますよ。こんなのが上陸したら冗談抜きで国が亡ぶ」
「じゃあもうすぐで日本はおしまいだな」
「は?」
魚商が先ほどとは別の画面を提示する。そこには日本列島へと舵を切っている台風の進路図が記されていた。
「超大型台風は生まれてからまっすぐ日本に向けて直進してる。専門家の意見ってやつによると、上陸まであと二十時間ほどだ」
作家は思わず口ごもった。察してしまったのだ。
「怒らせたってそういうことかよ……‼」
自分たちのヴァニサゴ漁は、前回以上の厄災を引き起こしてしまったらしい。
「僕がいけないんだ。みんなに認めてもらえるチャンスだって思ってしまったから……!」
頭を抱えて泣き喚く若者の肩を魚商が優しく叩く。
「悔やんだって仕方ねえよ。これを止めたらそれこそ認めてもらえるだろうさ」
こんな状況下でも他者を想いやれる精神は紛うことなき美徳だ。けれどこんな状況下だからこそ、作家は問わずにいられなかった。
「止めるって、なにか方法があるんですか」
「この台風はヴァニサゴが引き起こしてる。だからもう一度あいつの元に行くしかねえ」
「……その具体的な方法は?」
「俺たちには船しかねえだろ」
魚商の発言に作家は乾いた嗤いが漏れる。
「秒間二百メートルを超える超暴風域に船で突っ込むと? 良くて船が転覆からの高波に流されて溺死、悪くて数十メートル以上舞い上げられてからの海面叩きつけで全身挫滅ですよ。もっと悪いと途中で雷に打たれて瞬間火葬ってパターンもあります」
例えこれがシミュレーションだとして、コンティニュー権を百回得られたとしても作家は挑戦しないだろう。宝くじを一口だけ買って一等を当てる方がまだ可能性がある。
「じゃあ俺たちの故郷が滅ぶのを黙って見てるか?」
魚商が据わった目でこちらを射抜く。彼の言う通り、この場でうずくまっていても何にもならない。だが、そもそも何かできようもない。
「なあ、何かねえのか? アンタならこういう時、いつも切り抜けてくれたじゃねえか」
「無茶言わないでくださいよ。これは人間にどうにかできる範疇を超えてるでしょう」
これが人間相手ならこのまま高跳びでもすればよかった。稀代の蒐集家と言えど、流石に賭け相手の協力者を国外まで追ってくるほど暇じゃないだろう。
けれど、相手は神だ。
ヴァニサゴという生物の実態を作家は把握できていない(というか生物なのかもわからない)が、遥か昔から神と崇められるような存在であり、その一端として超自然的な所業を現在進行形で見せられているのは確かな事実だ。このまま自分たちだけ逃げても、世界中のどこか、あるいはすべてにヴァニサゴの裁きとやらが下されるだろう。個人の感情としては、自分だって何とかしたい。さりとて現実として残された手段は、嵐の中へ船で繰り出すことだけ。
「何かないのか、なにか……!」
その時、作家の身体が震えた。正確には、ポケットにあるなぜか壊れなかった携帯端末。その振動を、作家は天啓を得た際の身震いのように感じた。
これから、自分は解決策を得るのだ、と。
見れば非通知の着信で、作家は黙って通話に出る。
『初めまして。息災かな、波に流されて風邪をひいてはいやしないか?』
電波に乗って流れてきたのは雪解け水のように澄んで張った声だった。聞き心地の良いそれに警戒心を一段階下げさせられながら問い返す。
「……どちらさまで?」
『連絡先は彼に聞いたんだ。用が済めば消去するから安心してほしい』
こちらの問いに答え切っていない曖昧な返答に一瞬訝ったが、訳知りな口調に『彼』という語で電波の向こうの相手を悟る。
「蒐集家か……!」
『頭の回転が速くて好ましいね。あとは常に落ち着きを持てれば、なお私の好みだ』
脳内で描いていたイメージとまるで違う声に愕然となる。
「てっきり、男性だと思っていました」
『好きなものを集めるのに性別は関係ないさ。それよりも、中々興味深いことになってるみたいだね。突如フィリピン海沖で発生した観測史上最大の台風、それがまっすぐ日本に向かっている。まるで、強力な磁石に引き寄せられるかのように』
「……なぜあなたがそれを?」
電話口の相手が知るはずのない内容が滔々と、流水のように語られるさまに作家は己の眉間のシワが寄っていくのを自覚する。
『私には眼があってね。キミたちがフィリピンまで行ったことは把握しているんだ。すぐ視界外に出てしまったからその後の動向は推して図るしかなかったんだが……予想は当たっていたようだね』
前言撤回。この相手なら地平線の果てまで高跳びをしても、追いかけてくる。水のように澄んだ声が、こちらの体内を耳から侵していくような錯覚に陥る。
『こちらでも少し調べてみたんだが、すごいね、ヴァニサゴというやつは。出てくる情報が神話の時代、あるいは民俗伝承に伝わるそれでしかない。信仰する者には豊漁の恵みを与え、雨を降らせたり止ませたりするが、害を与えようとしてくるものは波間に沈めたり、人魚にして海を泳ぐ喜びを与えたりするんだと』
「その逸話の中に台風をけしかけたというのは」
『ないね。ヴァニサゴにとって、この程度は数ある神業の一つに過ぎないんだろう』
蒐集家はひどく楽し気な声をしていた。こちらとしても愛想笑いの一つでもしたい、というか一連の話を一笑に付してやりたいが、現在進行形の事象のせいで神話や伝承とされていることすら信憑性が増しているのだから、少しも笑えなかった。
「ところで、何の用でかけてきたんでしょう。僕たちにヴァニサゴの話を聞かせてくれるためだけとは思いたくないですが」
『もちろん。賭けについての話だ』
「もうヴァニサゴの存在は確立できたから賭けは終わりで、とかそういう……」
『何を言っている。むしろ逆だ』
逆。逆とはつまりどういうことなのか、脳内で答えを出しあぐねて黙り込む作家に蒐集家は語る。
『わかっていると思うが、私の優先事項は“蒐集”であって、今回の賭けは余興でしかない。本来的に私は私の望むものを蒐集するためなら手段は問わない。つまり、キミがヴァニサゴに接触し、“焼けない肉”を入手するためのバックアップをしてやろうというわけさ』
心強い言葉だった。自分の予感は当たっていたと作家は確信するが、同時に疑問もあった。
「けど、具体的にどうするんです? あの嵐を突っ切るためにイージス艦でも貸し出してくれるんですか?」
『ああ、惜しいな』
「は……?」
半ば冗談半分のつもりの発言だったが、蒐集家は至極真面目な口調で正答を述べる。
『わざわざ正面から突っ込む道理はないし、第一、間に合わないだろう』
「……じゃあ、どうするんです」
『もっと速い手段で、邪魔されない場所から行けばいい』
◇明け方 台風の目
時刻はもうじき午前六時を迎えようというのに、ボロンガン空港の飛行場から望む大きな空は未だ深更に沈んだような暗澹さを孕んでいる。雨と風は鳴りを潜めているが、嵐の前の静けさであることは明白だった。
作家は視線を黒雲から下へと落とし、整備が進められている白亜の飛行機に定める。
ドーヴ・D-VII。水陸両用の第六世代ジェット機、そのプロトモデル。
約二時間後、作家と魚商はあの機体に乗って台風へと向かう。極限環境での運用および帰還という開発思想が根底にあるのだという。
ジェット戦闘機は現在時点で第五世代の模索をしている最中のはずだが、それを飛び越えた第六世代の試作機を一個人が手配したことについては詮索しない方が良いのだろう。
「音速の三倍で飛ぶんだってな、あれ。どうせなら赤くすりゃいいのによ」
いつの間にか、魚商が隣に来ていた。大きなあくびをしながら缶コーヒーを差し出される。海外のコーヒーは馬鹿みたいに甘いと聞いたことがあったが、程よい甘さだった。
「予定よりずいぶん早いですけど、寝られなかったんですか」
「おう、諦めて俺が入る棺桶の具合を確かめにきた。乗り心地は良さそうだな。……そっちこそ、乗り物好きって顔じゃなさそうだが」
「憂さ晴らしがてら友人の遊びに付き合ったつもりだったのに、どうしてこんなことになったんだろうな、って考えてたら眠れなくなりました」
魚商がふっと鼻で笑って、缶コーヒーを煽る。滑走路上の誘導灯を眺める二人の間を生ぬるい風が吹き抜けていく中、ぽつりと言葉が聞こえた。
「アンタ、怖くねえのか」
「え?」
「さっき話を整理した結果、ヴァニサゴを止める方法がわかっただろ。ヴァニサゴに対面するやつは一人いればいい。つまり俺たちのどっちかはわざわざあんな空飛ぶ棺桶に入る必要もねえ。実際に、あの若者は足手まといになるって残る選択をした」
魚商は缶コーヒーを握りしめて大きなため息をこぼした。
「俺はヴァニサゴの影しか見てねえが、逆にいやあ影は見えた。そうさ、あんな影が見えるくらい、アイツはでかかった。師匠が釣れないのも当然だ。意味わかんねえだろ、あのでかさ。釣るとか釣らないとかそういう次元じゃねえ」
ヴァニサゴの姿を見たという魚商はその場にしゃがみ込んで、頭を振る。
「……俺は怖くてたまらない。今すぐにでも逃げ出してえ」
その吐露はきっと真実だった。彼は師匠の夢が破れた理由を、身をもって体感した。
「それでも、行くんでしょう」
今もこうして弱音を吐いているが、決して「自分が残る」とは言わなかった。
「なんてもん追っかけてたんだって、師匠をぶん殴りに行くために手土産が必要だからな」
魚商はどこか吹っ切れたような笑みを浮かべていた。追う夢が無くなったということは、自由になったことも意味していた。
「俺なんかより、アンタだよ。なんでそんな平気な面してんだ」
「平気じゃないですよ、僕だって怖いです」
「じゃあなんで残らない? わざわざあの台風に突っ込む理由はなんだ?」
魚商の問いに、作家は思考を整理する。先ほどのミーティングでヴァニサゴを静める方法は見つかって、それには一人が行けば良いこともわかった。なおかつ、ヴァニサゴを静める際に手に入れるであろう“焼けない肉”を魚商は譲ってやるとも言った。
客観的に鑑みて、作家がこの危険な旅に向かう必要はなかった。この場に残るという選択をしても、逃げたと非難する者は誰もいない。むしろ賢明な判断だと笑って肩を叩くだろう。
だからこそ、作家は笑って答えた。
「こっちの方が、面白いでしょう」
魚商はマジックの種明かしが魔法でしたと言われたような、呆けた表情をしていた。
「さっき思い出したんですけど、僕、冒険小説が好きだったんです」
作家は空に手を伸ばし、暗雲の向こうに隠されていた思いを語る。
「正確に言えば、冒険小説の主人公が好きだった。窮地に臆さず、飛び込んでいける強さに憧れていた。そういう風に、なりたかった」
ダレン・シャン。ローワン。リーフ。グイン。その他、無数の主人公の活躍に焦がれて夢中でページを繰った。退屈な授業も、受けたくない習い事も、いつの間にか彼らへの妄想に費やされた。『もしこういうことがあった場合、彼らならどうするだろう』と。
「僕が好きだった小説の主人公達はこういう状況に直面したとき、きっと逃げずに立ち向かうでしょう。最初は逃げ出すかもしれない。どこかで一度は折れるかもしれない。けど最終的には立ち向かう。だってそうじゃないと……面白くない」
「ぶっとんでるな、アンタ」
魚商が見覚えのある色の視線を向けていた。それは初めて会った時の、競りをした際の化け物を見るような視線だった。
「小説の主人公なんて、ぶっとんでるくらいが丁度良いんですよ」
「アンタは小説を書きたいんじゃなくて、主人公になりたかったのか?」
作家は笑う。
「そうかもしれません。描かれたかったんですよ、きっと。自分が主人公の物語に」
けれど、そんなことは起こり得ない。だから、架空の物語を書き続けた。
「思ったんだけどよ、今回のこと書けばいいじゃねえか。友だちのために宝物を見つけようと嵐に立ち向かうなんざ、冒険物語みたいだろ」
「……”焼けない肉”を宝物とは呼びたくないですけどね」
けど、それも良いかもしれない。そんなことを思いながら作家は缶コーヒーを飲み干した。
◇ ◇ ◇
コックピットの内部は完全に密閉されていて、魚商の”棺桶”という表現もあながち間違いではなかった。薄暗いコックピットの中で視認できるのは後部座席にも取り付けられた各種数値のモニタリングされた液晶のみ。高度はしばらく一万五千メートルを指し示したまま。
高所特有の耳の詰まるような感覚にようやくなれてきたとところで、ノイズ交じりの機内無線が入った。
『予定通り、所定高度および座標に到達。これよりマナウルに突入します』
ボロンガン空港を飛び立ってから一時間も経っていない。覚悟を決める時間も、現実味を感じる暇もないと、作家は薄暗い空間で一人笑う。
次の瞬間、完全に密閉された薄暗い空間でしかなかったコックピットが音もなく切り開かれた。全天型の液晶パネルが複眼レンズとリンクして、外の景色が露わになったのだ。
『これがマナウルです。今からこの台風の目に入り、降下していきます』
遠く、萌えるようなオゾン層の深蒼が地球の丸みに沿って歪んでいる。その遥か下に、塩の大地のごとく真っ白に染まった景色が広がっていた。
これこそが超巨大台風“マナウル”。二時間前、世界気象機関によって歴史上類を見ない規模から命名規則を外れて例外的にフィリピンの海神の名が冠された。中央部にぽっかりと開いた台風の目の直径は優に百キロを超えている。目の中では千々に切れた雲が渦巻いているのが視認できた。ゆったりと動いて見えるそれは、けれどここから視認できる時点で相当な速度のはずだ。
彼らが命を預けるドーヴD-VIIはこれからこの中に突入する。
『管制通信より、伝言です。“今や世界の命運はキミ達にかかっている。上手くやるように”』
冷静かつ高飛車な物言い。誰からのものかなど、聞くまでもなかった。
『高見の見物だからって好き勝手言いやがる。戻ったらこの蒐集家とやらに会わせてくれ。文句の一つでも言ってやらねえと気がすまねえ』
鼻を鳴らす音まで入れてくる魚商に、作家は笑って返す。
『ぜひ、みんなで祝勝会でもやりましょう』
ガクン、と機体が揺れた。降下が始まったのだ。
事前にパイロットから『異常を認めたらすぐ共有してほしい』と言われてはいるが、高度低下に準じて変動していくモニタを睨んではいるが、何が正常かもわからない状態で報告でるはずもない。と、思っていた。こんな自分でもわかる異常に、作家は思わず声が漏れる。
『……なんで気圧が下がってる?』
大前提として、気圧は空気の圧と書いて気圧だ。言い換えればその地点の上空にどれだけの空気があるか、ということであり、台風の目という極端に気圧の低い環境でも高度が下がっていくのなら気圧は上がっていくはず。だというのに気圧はみるみる下がっていく。
パイロットはまだ気づいていないのか、降下は続いている。あっという間に高度一万メートルを切ったが、気圧も未だ下がり続けている。作家が報告をしようと無線を押した瞬間、けたたましいアラート音が機内に鳴り響いた。それは機体に異常が発生した合図。
『何があった⁉』
『エンジンがフレームアウトした! 想定環境より酸素濃度が低すぎる!』
パイロットの叫びに、作家の喉がひゅっと鳴る。本来であれば高度に応じてエンジンの燃焼状態も調整されていくが、現在高度に対して気圧が低すぎるため、自動調整では燃焼に必要な酸素供給が足りず、エンジンが停止してしまったのだ。
このままでは物の数分で海面に墜落してしまう。
『再点火は⁉』
『試みている! キミ達は
作家は座席下から脱出用ハンドルを露出させていつでも手をかけられる状態にする。だが、こんな高高度からの脱出はできない。もっと高度が下がってからでなくては……と、再度モニタの数値を見て、目を疑った。50気圧を切っている。
『アームストロング限界を超えてる! もっと気圧の高い場所に!』
すでに水が人間の体温と同程度でも沸騰してしまうほどの低気圧に達していた。生身でこの気圧に晒されたら肺胞が一瞬にして沸騰し、あっという間に酸素不足に陥ってしまう。
『無理だ、機体のコントロールが効かない! 第一、高度が下がっているのになんで気圧が上がらないんだ⁉』
パイロットの悲痛な叫びが音割れと共に無線を流れる。まったく同じ気持ちだったが、作家にはどうしようもできない。この瞬間、ドーヴD-VIIは自由落下する鋼鉄の棺桶と化した。
『……詰んだか、これ』
台風の乱気流とフレームアウトによって、機体はゆっくりと水平に回転しながら落下を続ける。なすすべのない作家はせめてこのまま気圧が0になるのか行く末を見届けようとしたが、魚商の大声によって遮られた。
『おい! 外、外に! でけえのがいる!』
『でけえのって、なん……』
こんな
呼吸が止まったまま、過ぎ去った何かを視線で追えば、目眩のするほど超大な純白の絶壁を、一筋の碧が踊るように昇っていく。見間違いでなければ、あれは、
『龍……?』
一同は暫しの沈黙に包まれる。が、それも一瞬のことだった。
『エンジン再点火! 機体コントロール回復! いけるぞ!』
パイロットの歓声にモニタを見れば、気圧が戻っていた。もはや疑問を抱く余裕もない。
すでに高度は五千メートルを切っている。ただこの好機を逃してはいけないと、パイロットは全力で事態の好転を狙う。
『おい、雲のなかに突っ込んでねえか!?』
魚商の声に視線を上げれば、バーンアウトさながらに視界が漂白されている。
『ありえない! 目のど真ん中だぞ!』
逼迫した声を上げながらも、熟練のパイロットは計器と己の感覚を用いて機体の体勢を完璧に保つ。だが、災禍は連なってやってくるものだ。
いよいよ高度が二千メートルを切ったというところで異常事態のアラートがまたもや無情に鳴り響く。
『今度は何だ?』
『エンジン内部が超高温……まずい、内部が融解している!』
『なっ……なんでだ⁉』
『わからない! おそらく再点火時に燃焼が激しくなりすぎた!』
原因不明の事態の連続に作家はアームレストを叩く。だが、原因究明などしている暇はない。もはやいつ機体が爆発してもおかしくなかった。
『総員、今すぐ脱出しろ!』
言われるがまま、作家は脱出用ハンドルに手をかける。その時、魚商のがなり声が耳に届いた。
『先生ェ、手はずは覚えてるな!?』
『……もちろん』
『なら、後は任せた。後で会おうぜ』
背後で座席射出の爆音が鳴る。間もなく前方からも射出音がした。一人、機体に残った作家は細く息を吐き、それからハンドルを引いた。
射出。
脱出直前に速度をかなり落としてくれていたとはいえ、時速百キロ超えのジェット機から叩き出されたことによる強烈なGに全身を引きちぎられそうになる。奥歯を砕かんばかりの勢いで食いしばって耐えれば、今度は激烈な雨と風が全身を抱擁してきた。
高度低下を感知して自動的に開かれたパラシュートの傘形状がその颶風を余すことなく受け止める。結果、作家は弾丸よろしく横向きに吹き飛び始めた。子どもの振り回す凧揚げの凧になった気分だった。無邪気な神の気まぐれに振り回されている、という点では同じだ。
薄めを開ければ、真っ黒な海面が数十メートル下に見えた。異常事態の連続に見舞われたが一万五千キロの旅路の果て、目標は目と鼻の先というところまで来ている。だというのに、気まぐれな風に煽られるばかりで一向に近づかない。風向きが下に変われば海面に降りられるが、その場合はとてつもない速度で叩きつけられることになる。
……どうすればいい。
唇を噛んだその瞬間、視界が鮮明になった。一瞬で太陽が頭上に昇ったような明るさ。それが雷の閃光によるものだと、作家は耳を聾する雷鳴の轟きによって気づかされる。だが、気づきを得る直前、クロノスタシス効果によってたった一秒が作家の脳内では何倍にも引き延ばされた。その知覚時間で、作家は確かに見た。
海中に浮かぶ巨大な影を。
同時に、作家は出発前にした魚商との会話を思い出していた。
◇ ◇ ◇
「ヴァニサゴを鎮める方法がわかった。あの儀式だ」
ドーヴ・DーVIIでマナウルに向かうことが決まり、それまで体力を温存すべく仮眠を取ろうと別れたばかりなのに、ノックもなしに飛び込んできた魚商は開口一番にそんなことを言った。
「どういうことです?」
作家の問いに、魚商は興奮した様子はボロボロの冊子を差し出してくる。それは島長に預けられた儀式の手順書だった。彼らの携帯端末と同じく、この冊子もなぜか無事だったらしい。めくってみれば、前と同じく意味のわからない絵と文字が記されている。
魚商は興奮そのまま、己の胸元に指を立てる。
「ヴァニサゴは胸のあたりに一点、”苦悩の芽”と呼ばれる部位があるらしい。それはあらゆる海を巡る過酷な旅によってできる魚の目みたいなもので、ヴァニサゴは数年に一度、”苦悩の芽”を取ってもらいにやってくる。儀式はその手順を表したものなんだと」
作家はあらゆることに納得して、息を漏らした。
”焼けない肉”の正体。
儀式で見た、相手の肉を抉るほどにかきむしる動作。
ヴァニサゴが人間と触れあおうとする理由。
それらはすべて繋がっていたのだ。
すべてに納得すると同時、これから自分たちがあの巨大な台風に向かい、ヴァニサゴ相手に儀式を行うことの異常さを考えてしまう。
「僕たちにできるんですかね」
「やるしかねえよ。できなかったら終わるだけだ」
にべもない魚商の言い分に、その時の作家は「何にせよ、仮眠は取らないと」と返すことしかできなかった。
◇ ◇ ◇
消えゆく閃光と入れ替わるようにして雷鳴が轟く。どこかこちらを嘲笑うようなその響きは、けれど作家の意識に届いていない。彼の意識と視界には、焼き付いたヴァニサゴの残像のみ。
再び見えた相手を前に、作家は苦笑を漏らす。今から、こんなものを相手にしなければいけない。
だからこそ、笑みが凄絶なものに変わる。
だって、それはまるで、憧れたあの主人公のようで。
「やってやるよ」
作家は一息にパラシュートのロックを解除し、脱ぎ去った。たった今、彼を空中に留める物は何も無くなった。名残惜しそうに颶風がその身体を掠めるが、落下点を数メートルずらす程度。
そうして、作家は海面へと飛び込んだ。
前回同様、めちゃくちゃな水流によって瞬く間に海中へと引きずり込まれていく。けれど、今回貸与された飛行服とヘルメットは水中でも運用できるもので、作家は平静を失うことはなかった。
水流に運ばれる最中、ふと小さな影がすぐ横を通り過ぎる。それは一匹の小魚だった。
視線で追おうとすれば、今度は二匹が作家を通り越していく。瞬きをするたびにその数は増えていった。十、百、千、万。
振り返れば、無数の魚がそこにいた。視界を埋め尽くすほどの大質量。その圧倒的なスケールに、作家は恐れを通り越して神秘的な感情を抱く。
山のような魚群は、まっすぐこちらに向かってきていた。
作家は黙してその場に留まる。
みるみるうちに、山が近づいてくる。遠くから見れば山のようだったそれは、近づいてくるほどに無数の触手を蠢かせる巨大な怪物のように見えてくる。理解は神秘性を取り払い、本能的な嫌悪と恐怖を喚起する。
それでも、作家は動かない。
果たして数秒後、作家は怪物に飲み込まれた。
種類にもよるが、全速力で泳げば多くの魚は時速数十キロを超える。日常生活で例えれば、自転車を全速力で漕いだのと同じ速度。過去にダイバーが錯乱した魚と衝突して怪我や骨折、死亡事故を起こした事例は枚挙に暇が無い。
恐ろしい速度で行軍する無数の魚群に人間が飲み込まれれば、全身打撲は避けられない。挫滅を起こしてバラバラになる可能性すらある。
けれど。
作家は向かい来る魚群の中で、そこにいた。
まるで見えない膜に守られているかのように、無数の魚が彼のすぐ横をすり抜けていく。魚同士でぶつかった鱗の音が葉擦れのようにザァ……と作家の耳に届くが、彼自身に触れるものは一匹もいない。
モーセが海を割った奇跡もかくやという光景だが、それを引き起こしたのが何者か作家はよくわかっていた。
ふいに魚群が割れる。
開けた視界に広がっているはずの青はなかった。
そこにあったのは、
巨大な――――。
作家は湧き上がる根源的な恐怖をぐっと抑え、じっと見すえる。
それは、真っ白い巨大な手だった。
霊長目のような、細長い枝のような五指。それらを生やす掌と大木じみた生白い腕が、目前に迫っていた。
掌の形をした”死”に思考が麻痺しかけるが、生存本能がそれを上回り、腰部にあったスイッチを起動する。スーツに組み込まれたジェットスクリューが回転し、生み出された推進力によって作家は間一髪で衝突を回避した。巨体の生み出す水流によって身体もろとも反転した視界の中、過ぎ行く腕の奥にビルを横倒しにしたような胴体が現れ、ついにヴァニサゴの全容が明らかになる。
端的に言えば、それは人魚だった。
巨大な、真っ白い人魚。その姿を見て、作家は正体を確信する。
全長十数メートルという巨大な体躯を持ち、南極隊員から確かに見たと何度も報告が上がっているように南極や北極での観測報告数が多い。白い人のようなシルエットをしていることからヒトガタと呼ばれているが、その詳細は一切わかっていない。
今、改めてその全容を観察してみると、頭部と思わしき部分には何もなかった。目や口といったパーツも、髪の毛のような付属器官もない。どこを見回しても魚のような鱗も、えらも見当たらない。
こいつがどんな生物であるのか、自分には判別ができない。脳が理解を拒んでいる。だが、そんなことはどうでもよかった。
今やるべきことは、ただひとつ。スクリューが壊れるか、酸素ボンベの中身が尽きる前にヴァニサゴの胸部に辿り着き、”苦悩の芽”を取り除く。できなければ作家は海の藻屑と消えて、世界は超巨大台風に蹂躙される。
ここからは、短期決戦だ。
作家は右腕を伸ばし、腕部に備えられたアンカーを胴体めがけて射出した。ワイヤーは滞ることなく水中を飛んでいき、その胴体へと突き刺さる。
作家はスクリューをフルスロットルで回転させ、全力でワイヤーに追随する。全身に圧しかかる激流に耐えながら、巨体に縋り付く。
左腕のアンカーを取り出し、胸部により近い方に向かって突き刺す。雪山で使うアイゼンピッケルの要領で”苦悩の芽”に向かって登っていくのだ。
凄まじい速度で海中を進んでいくヴァニサゴに取り付くのは、己の身一つで滝登りをしているような感覚だった。実際、その向きが横になっているだけで遡流には違いない。
だが、耐えられないほどでは無い。このままいける、そう思った瞬間。
「――――――――」
巨大な金属塊を擦りあわせたような、くぐもった音が海中に響いた。
どこから発しているのかもわからないが、ヴァニサゴが鳴いていることは確かだった。
アンカーが突き刺さったことによる痛みを感知しているのだ。その生態から表皮が厚く、小さなアンカーを刺した程度では大した反応を見せないだろう、という作家の目論見は外れていた。
けれど、ここまで来たらやるしかない。
作家は右手のアンカーをさらに上へ突き刺す。
ヴァニサゴが呻き、震わすように巨体をよじる。それだけで矮小な人の身は木枯らしの葉のように振り落とされそうになる。
それでも必死に縋り付き、耐える。身のよじりが治まるわずかな間に一手ずつ、前へと進めていく。”苦悩の芽”がすぐそこまで見えていた。
もう、あと二、三手で届くというところまできたところで、ふいにヴァニサゴの速度が緩んだ。
勢い余って身体が浮き上がる。流されてしまわないよう、たゆんだワイヤーを掴んで修正する。その際の角度のずれによって、視界の端に、見えてしまった。
ヴァニサゴが、こちらを覗き込んでいる。
「……っ⁉」
背筋が凍り付く、とはこのことを言うのだろう。ヘビに睨まれたカエルも、丸呑みされる直前はこのような気分だったはずだ。
何もないはずの貌で、確かに見つめられている。絶対的な上位存在に見定められた獲物の感覚。人間としておよそ感じる機会のない、けれど遺伝子に深く刻み込まれたそれに、作家の五感が全力で警鐘を鳴らす。
なぜか、脳が想像力を働かせた。今、ヴァニサゴがにわかにその手を伸ばしてきたら。そして、掴まれてしまったら。
生白い手は想像通りの、いや超えて芯から凍り付くような冷たさ。けれどこちらを労るような柔らかい手つきに、何か意図があるのかと顔を上げた瞬間、粟を握るがごとく潰される。
小枝のように骨がひしゃげ、粘土のように肉が潰れ、破れた水風船のごとく内臓が口から、腹から、尻からまろびでる。己の意識が火の粉のようにかき消える刹那、無貌がじっと覗き込んでいるのが見えて、そのままそれが最後の景色になる。
あまりに精細で質感を伴いすぎた映像。想像だけで失神してしまいそうなそれに、むしろ作家は現実へと引き戻された。
……なんだ、今の。
人間は絶体絶命の状態に陥ると、脳が状況打開のために有用な情報を探し出すべく記憶を片端からひっくり返すことがあるという。いわゆる走馬灯だ。だが、今のは明らかに走馬灯ではない。何せ見たこともない、ただの想像なのだ。あるいは、
絶体絶命の状況では、未来予知もすることがあるのだろうか?
普段なら抱くことすらない、もし誰かに問われたら鼻で笑い飛ばすようなばかげた問い。
けれど、今はまったく笑えなかった。なぜなら、
今まさにヴァニサゴの手が、こちらに伸ばされているのだから!
「なんだ、これ……⁉」
脳内で流れ出した映像と寸分違わない角度と速度。掌だけで作家の身長を優に超えるそれは、向けられるだけで視界のほとんどが覆われてしまう。初見であれば、その占有率に比例するように思考も死への恐怖に染められていたことだろう。
まったくもって未知な既知の状況に、作家の感情は極まった困惑と興奮でない交ぜになる。 だが、同時に確信した。
「今しかない」
”最大のピンチは最高のチャンスでもある”とは、誰の言葉だったか。こちらの首を刎ねんと剣を振りかぶった者は、まさにその瞬間が最も無防備だ。
作家はヴァニサゴの胸部を蹴って跳んだ。火事場の馬鹿力によって、水中での跳躍とはいえ一蹴りで三メートルもの高さへ跳び上がる。
「――――――――」
胸を強烈に蹴られたヴァニサゴは呻きのような音を上げて、こちらに向かって両手を広げた。
それは親が愛する我が子を慈悲深く胸中で迎えようとする様にも、飢えた人が降り来る果実を死に物狂いで捉えようとする様にも見えた。けれどその実は、死神の純粋なる抱擁に他ならない。否、本当はヴァニサゴがただ外敵と認識した相手を排除しようとしているだけ。生物が行う当然の行動だ。
「……そうか。お前も、精一杯生きてるんだな」
その時、作家は初めて目の前の相手を正しく認識できた気がした。こいつは人智を超えた神なんかじゃなく、血の通った同じ生き物だと。
向かい合うように両手を伸ばして、アンカーを射出。胸部に取り付いた瞬間、リールを全力で逆回転。同時にスクリューを起動し、ワイヤーが巻き取られるのに合わせて急速前進。結果、ヴァニサゴの抱擁は空を切った。ついに”苦悩の芽”へたどり着いた作家は、抱え込むように”苦悩の芽”の根元に手を食い込ませる。
「けど、いい加減大人しくしてくれ……ッ!」
岩を引きちぎるつもりで力を込めるが、”苦悩の芽”はあっけないほど簡単にめくり取れた。勢い余って鞠のように飛んだ”苦悩の芽”にアッパーを受け、その衝撃でヘルメットがズレる。
流れ込んでくる大量の海水。身体の脱力とタイミングが重なり、作家は息を吸い込む代わりに多量の水を飲み込んでしまう。
「ぁ……!」
ぼやける視界。酩酊する思考。最後の最後まで、”苦悩の芽”を追って指先を伸ばす。
沈んでいく意識の中、船が出航する際の汽笛のような、甲高く、奥深い音が聞こえた。
◇ 一日前
目が覚めると、見知った天井があった。いつかの地震で一部が取れて稲妻のようになっている塗装剥がれ。前の居住者が置いていったのをそのまま使っているせいで黄ばんできたシーリングライト。
身体を起こせば、いくつものダンボール箱が狭い床面積の半分を占めている。中身はいつか読もうと思ってほったらかしにしている無数の本。確認するまでもなく、ここは都内の1Kで、仕事場と寝室とダイニングが一緒くたになった作家の牙城だった。安普請の八畳部屋で、作家はしばし放心する。自分はいったい、何をしていたのだったか。いや、覚えている。覚えているのだが、あまりに現実感がない。すべて夢だったのか?何も実感がない。
だが、ひとつ確かめる術を思いつき、やおら立ち上がる。そうして遮光カーテンを引いて、作家はあんぐりと開口する。そこには真っ青な空があった。彼の想定では今も頭上に黒々と垂れ込めているはずの雲は一つとしてない。清々しすぎてつまらなさすら感じる朝の青空。
「夢だった……ってことか」
なんと壮大な夢だったのか。ここ数年は夢を見ることなどほとんどなかったというのに。
その時、玄関のチャイムが鳴った。
作家がそちらを向けばひとりでにロックが回り、ドアが開いていく。
そうして姿を現したのはサングラスを鼻筋にひっかけた金髪男、作家の悪友である富豪だった。
「お、元気そうだな」
「帰れ」
「ひでえな、独り身の貧乏人が孤独死してないか見に来てやってるっていうのによ」
顔を洗いに洗面所へ向かいながら忌避の言葉を投げれば、富豪も軽口を返すばかりで平然と部屋にあがりこんでいく。タバコでも買ってきたのか、ビニール袋の摩擦音を伴っている。
「朝飯たかりにきてるだけだろ。金はあるんだからウーバーでも使っておいたらどうだ」
「ウーバーだぁ? あんなバカ高ぇ送料いちいち払ってられるかよ」
染みついた貧乏性からか、腐れ縁を大事にしているのか、富豪が週に二、三度は作家宅で朝食を食べる習慣は学生時代から続いている。
それでも富豪は金を手に入れてから『食材費』と称して明らかにオーバーした金額を毎月作家に押しつけてくる。が、作家はそれに一切手を付けていない。富豪の性格上、身持ちを崩していつか私生活すら危うくなることは明らかなので、その時のために専用の口座を作って全額突っ込んでいる。
「おい、冷蔵庫になんも入ってねえじゃねえか。俺の飯はどこだよ」
勝手に物色しているらしい富豪に、作家はそれ以上の蛮行を止めるべく顔を拭きながら洗面所を出る。
「お前月曜はいつも来ないだろ。今日ばかり急に来て、何の気まぐれだ」
「何のってそりゃ、こいつを焼くために決まってる」
富豪が腕ごとビニール袋を上げてみせる。
「こいつってなんだよ」
「何って、”焼けない肉”だろ」
富豪がビニール袋から、さらに紙袋につつまれた中身を半ば取り出す。
それは波のような紋様の入った、生白い肉塊だった。
「……は?」
視界が揺れる。脳が揺れる。現実と夢の狭間で、世界そのものが、揺れているような感覚。
けれど、それは一瞬にして収束する。
確かにそこにある肉塊を前に、作家は今度こそ確信した。
すべて、夢ではなかった。
放心したように固まる作家に、富豪がニッと唇を歪ませる。
「言いたいこと色々あるだろうけど、とりあえず焼いてみようぜ?」
◇ ◇ ◇
結果から言えば、確かに焼くことができなかった。
「くっせええぇ! なんだよこの臭い!」
”焼けない肉”の一部を手頃な大きさに切り、油を薄く引いたフライパンにかけること約三十分。油はばちばちと跳ねているにもかかわらず、”焼けない肉”は焼き色一つつかなかった。
「色も、肉質の変化もなしか」
菜箸でつついてみるも、火にかける前と色や感触は全く変わらない。唯一の変化は時間をかければかけるほど発生する生臭い異臭。換気扇を全開で回したが、臭いはキッチンに残ってしまった。
「結局”焼けない肉”はなんなんだろうな」
富豪が鼻をつまみながら肉塊を見下ろす。作家は”焼けない肉”を焼きながらぼんやりと考えていたことを呟く。
「バラムツって深海魚を知ってるか」
「名前は聞いたことあるな。どんなんだっけ」
「珍味の一種で、味自体はとても美味らしい。ただ脂が特殊で、人間の消化器官じゃ消化できないんだ。食べたら最後、脂がすべて出切るまで尻から垂れ流しになる」
「へえ。じゃあなんだ、こいつの場合も脂が特殊だって言いたいのか?」
ただの説明ひとつでこちらの意を汲み取った富豪の声に、作家はうなずきを返す。伊達に学生時代から腐れ縁を続けていない。
「可能性の話だ。深海魚は往々にして特殊な進化を遂げる。あるいは、ただの推測に過ぎないけど、そもそもの組成が肉じゃないのかも知れない」
「は? どういうことだよ」
「そのままの意味だよ。”焼けない肉”を現地では”苦悩の芽”と呼んでいた。人間でいう魚の目みたいなものらしい」
「なんだそりゃ。肉じゃねえじゃん」
魚の目というのは、皮膚が長時間圧迫を受け続けてその部分の角質が増殖することだ。足裏で円状に生じやすく、その見た目から”魚の目”と呼ばれる。
つまりどういうものかと言うと、固くなった皮のこと。
「魚の目自体はな。けど、ヒトガタの生態なんて誰も知らない。本当に肉の可能性もあるし、もちろんヒトガタの体表の一部が固くなっただけって可能性もある。けど、肉じゃないとしても、生物の一部が焼けない時点で十分異常だ」
異常な生態。異常な組成。ヒトガタという生物の謎を人類が解き明かす日は来るのだろうか。恐らく来ないだろうな、と作家は内心で含み笑う。
「で、焼けないことはわかったが、どうするんだこれ」
鼻をつまみながら問えば、同じく鼻をつまんだ富豪が即答する。
「そりゃ食うだろ」
「言うと思ったよ」
勝手知ったる様子で戸棚から皿とカトラリーを取り出してくる富豪に呆れつつ、作家は”焼けない肉”を盛り付けてダイニングテーブルに運ぶ。朝からステーキと言えば聞こえは良いが、実際は得たいの知れない物体を毒味するだけ。
作家は席につき、改めて皿の上の肉片を見下ろす。
ただこれだけのために、五日余りの命懸けの旅をした。
最初は魚市場に行けば手に入るものと思っていた。が、どう見てもカタギではない面々とやったこともない競りをさせられ、それからフィリピンへと飛ぶことになった。
孤島へと行き、意味もわからず儀式に参加させられ、半ば自棄の状態でソーラン節を踊ったら認められた。
そうして本題であるヴァニサゴを呼ぶための釣りをすることになったが、釣ったのはそこに生息しているはずのない肺魚と伝説上の存在である大海蛇。釣ったは良いものの、即座に呼び出された本命のヴァニサゴは巨大UMAヒトガタであり、未曾有の巨大台風を生み出し、日本へと向かい出してしまった。
ヴァニサゴを止めるべく、今度はジェット機に乗って台風の中へ突入。途中で龍に遭遇した結果、機体が爆発してそのまま海へとダイブ。ヴァニサゴとの一騎打ちになったが、極限状況で起きた未来予知によって”苦悩の芽”を取り除くことに成功した。
「思い返しても、意味がわからないな」
荒唐無稽を通り越して意味不明。こんな話をして、信じてくれる人がいるだろうか?
わからない。だが、ひとつ言えるのは、
「……面白かったな」
「ん、何か言ったか?」
「次に書く題材を思いついただけだよ」
「へえ、そりゃ良かったな。スランプ脱出か」
富豪が笑みを浮かべながらナイフとフォークを手に取る。作家もそれに倣う。
「じゃあ……いただきます」
ナイフとフォークでほんの少しの肉片を取り、二人同時に口へと運ぶ。
舌の上に乗せ、ゆっくりと咀嚼して、二人同時に感想を述べる。
「「まずい」」
とても、食えたものではなかった。
◇台風一過の青空の下。とある焼き肉屋にて
原稿を読み終えた私はしばらく固まっていた。氷の溶けるからんという音でようやく思考を取り戻す。そうして、口をついたのは作中の要素の疑問。
「この作家は、どうやって自宅にもどってきたんでしょう」
「救助されたから、ごく普通に飛行機で戻って来たそうです。受け答えもきちんとしていたらしいですが、本人はてんで記憶がないみたいで」
「は、はぁ……」
よどみなく答えを返されて、私はため息交じりの声を返すしかなかった。
「面白かったですか?」
顔をあげれば、先生と目が合った。
どこか冷えたような印象を初めて会った時に抱いた。
けれど、今目の前にいる人の目には、確かに熱が宿っていた。
熱に当てられて、私は本心を語る。
「面白かったかは……正直、わかりません。いったい何を読まされたんだろう、という気持ちが一番です。ですが、私が読んできた先生の作品たちの中で、一番活き活きとしていました」
未だ新人の域を出ない私でも、書きたい景色を書けている作家の筆の乗り具合くらいわかる。この作品は、先生が本当に楽しんで書いたのだろう。
「持ち帰って編集長にかけ合って見ます」
「本当ですか」
「流石にレーベルは変わるでしょうが、代わりの担当を用意できないか、その辺も含めてなんとかできるか相談してみようかと」
「……ありがとうございます」
先生は深々と頭を下げた。私がよしてくださいと言っても、しばらくそのままだった。
やがて顔をあげると、先生は何かを思い出したように腕時計を見やる。
「こちらか呼び出しておきながら心苦しいんですが、もう行かないと」
「何かご用事があるんですか?」
「ええ、祝勝会があるんです。お会計いくらでしたっけ」
「経費で出すので大丈夫ですよ」
私が先んじて伝票を取れば、先生は苦笑してまた頭を下げた。そんなことより、私は先生の言う『祝勝会』という言葉が気にかかっていた。どこかで見聞きした気がする。どこで?
考えて、すぐに思い出す。先ほど読んだ作品の中だ。
……まさか、本当に?
私が荒唐無稽な妄想に陥りかけたところで、先生は立ち上がった。そうして個室を出ていく直前にこちらを振り返る。
「お土産、そこにあるので良かったらぜひ」
視線を追って、気づく。先生の座席の横に、ビニール袋が置いてある。
私は何と無しにビニール袋を手に取った。中には紙袋の小包があった。どくん、と心臓が高鳴る。震える手で紙袋をめくってみれば、そこにあったのは。
「うそ……」
波の文様のような筋のついた、生白い肉塊だった。
了
焼けない肉の、食えない話 にのまえ あきら @allforone012
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