コーヒーを淹れたあとに

リス(lys)

――寒さに、目を覚ます。


 最近どうにも眠りが浅く、アラームが鳴る前に目が覚めてしまう。しかし、けたたましく不快なアラーム音を聞かずに静かに迎える朝も悪くない。枕元のスマホを手に取り、それが耳に障る音を掻き鳴らす準備を始めるよりだいぶ早く、先んじてアラームを止めた。

 北向きの部屋は家賃がお手頃で、その代わりにほとんど一年中冷え冷えとしている。一定湿度を保つように設定してあるエアコンは低い音を立てて稼働し続けている。部屋には、寝る前に焚いた白檀びゃくだんのお香の残り香がまだ濃厚にくすぶっていた。白檀、ムスク……そういった香りがお気に入りの私は、柔軟剤や香水もその系統で統一している。

 狭いベッドから抜け出し、すぐに近くに置いてあった厚手のカーディガンを羽織り、外れかけていたネックウォーマーのボタンを留め直す。例年と違って風邪を引かずに冬を越えられたのは、寝るときにも着けるようにし始めたこのネックウォーマーのおかげかもしれない。子供の頃から、冬になると大人が「首を温めなさい」と言ってきた意味がこの歳になってようやく分かってきた。


 カーテンの隙間から外を見る。もう暦の上ではとうに冬は終わっているというのに、季節外れの雪がチラついていた。

 ……道理で、寒いはずだ。比較的温暖な地方出身の私にとって、この街の寒さはとても厳しい。でも同時にそれが新鮮でもあり、鋭い冷たさに静けさ、そして不思議と荘厳さのようなものも感じられて心地良い。幼い頃から、雪国への憧れを無意識に抱いていたのかもしれない。

 早朝の薄暗い世界をハラハラと舞い落ちる雪。きっとこれが、最後の雪になるだろう。後にはすぐ、嫌いな夏が来る。名残惜しい気持ちでキン、と冷える窓枠を一撫でしてから、またカーテンを閉め直し、冷えていくベッドに目をやって、そっとその場を離れた。


 1Kの間取りを仕切る扉を静かに、薄く開けて体をキッチンへ滑り込ませる。扉の隙間は冷気が通らないように塞いであるから、開け閉めも迅速に。

 コーヒーのドリップに適した、注ぎ口が細長いタイプのケトルでお湯を沸かす。待つ間に、小さなトレーに準備を進める。

 お気に入りの白いホーロー製のマグカップを小さな食器棚から取り出し、プラスチック製のコーヒードリッパーを載せる。……ドリッパーの素材で味に差は生まれるんだろうか。ドリップコーヒーを淹れるようになってから何年も、このプラスチック製のマグカップ用ドリッパーを使い続けているからわからない。

 完全に壊れてしまうまで使い続ける性質たちだから、なかなか次のものに買い替えることが出来ないのだ。


 コーヒーフィルターを一枚取り出しドリッパーにセットする。何気なくいつも茶色い無漂白のものを買ってしまっているが、白いフィルターと味に違いはあるのか。

 わざわざドリップコーヒーを淹れるくせにそんなところには無頓着なんだよね……。

 自分の中途半端すぎるこだわりに思わず笑ってしまいながら、コーヒーの粉を専用の計量スプーンでおおまかに計ってフィルターに入れる。


 コーヒーの豆や粉にもこだわりがあるかというと、そうでもない。近所にコーヒー豆の焙煎所兼カフェをやっている店があり、そこでブレンドの粉を買うこともあれば、買い物ついでにスーパーで豆や粉を買ってしまうこともある。

 一応、豆を挽くためのミルは手動のものを持っている。ガリガリと音を立てて、少し力を入れて豆を挽くのはストレス解消にもなるし、やはり挽きたての粉で淹れたコーヒーから立ち上る香りと味は、あらかじめ粉で買ってきたものとは格段に違う。でもどうしても寒い時期には何杯もコーヒーを飲むことになるし、最近は特に飲む量が多いから、さすがに1日に何度も何度も挽くのは難儀だ。だから今日飲むこのコーヒーも、近所の焙煎所で買い、そのときにお店で挽いてもらったものだ。 


 そうこうしているうちに、ケトルがシュンシュンと音を立て注ぎ口から湯気が上がる。キッチンではなく部屋でドリップするため、トレー上の、マグカップの隣に小さな鍋敷きを置いてケトルを載せた。

 火傷をしないように慎重に、しかし手早く部屋へと続く扉を薄く開けて通り抜け、ベッド脇の小さなテーブルにトレーを置く。


 まずはフィルター上の粉全体を湿らせるように少しお湯を注ぎ、そのまま暫く待つ。このときに顔を近づけてその湯気と香りを吸い込む時間が好きだ。苦いのに甘くて、昔誰かが吸っていたタバコの匂いに似ている。

 少しずつ、お湯を注ぐ。注ぐスピードを早くすればあっさりとした味わいとなり、ゆっくり注げば重厚な味わいになるそうだ。私はコーヒーの苦味が好きだから、ゆっくりゆっくりと時間をかけて、お湯を注ぐ。外も部屋も静かで、ポタポタとカップ内に雫が落ちる音しか聞こえない。

 お湯が落ちきるのをじっと待ちながら、部屋の隅に置いてある少し深めのトレーを近くに手繰り寄せる。完全にドリップが終わると、出涸らしは捨てずにこのトレーの上に広げて乾燥させる。こうして乾燥させてあとから不織布の袋などに詰め替えると、乾燥剤や消臭剤として使えるのだ。毎日何杯もコーヒーを飲んでいるから、たくさんの消臭剤が作れた。


 淹れたてのコーヒーの香りを胸いっぱいに吸い込み、一口ずつ、味わう。その温かさに、冷えていた唇がジンジンと熱を持つ。部屋中がコーヒーの良い香りに満たされ、夜に焚いていた白檀の残り香と調和し、ひそやかな幸福感に包まれる。


 なんて、美しい朝だろう。

 今日もきっと、良い一日になる。











 ベッドの上、壁際にある長さ180cm程の、黒い袋のジッパーを開ける。

 中から、コーヒーの消臭剤がいくつかこぼれ落ちる。





 ……ねぇ。


 全部全部、あなたとの約束を守るため

 ずっと一緒にいようって、約束

 ううん、もちろん、永遠に一緒にいられないことなんて最初からわかってる

 でも、叶うなら、いつまででも

 あなたがいつまでも、腐らず、だれかにここから連れて行かれて、燃やされてしまわないように

 冬でも暖房をつけずに除湿運転をし続けて

 部屋の温度が上がらないように日光を遮って 

 夜には白檀のお香を焚いて

 朝からずっとコーヒーを淹れ続けて

 部屋を良い香りで満たして

 こうして毎日、あなたへ愛を囁いている





 ベッドサイドに膝をついて、手を伸ばす。

 彼のかさついた冷たい手を優しく握りしめ、そっと握り返してくれるのを、いつまでも、祈った。


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コーヒーを淹れたあとに リス(lys) @20250214lys

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