10: ハーモニー村
きなこは、崖の縁に立ち尽くしながら、深い谷底を見下ろした。
風が吹き上げ、彼の毛を逆立てる。
目の前で起きた出来事の余韻が、彼の胸に重く沈む。
突如として目の前に浮かび上がるウィンドウ。
【レベルが2になりました】
【レベルが3になりました】
——さらに【アイテム獲得!】の文字が重なる。
無遠慮な通知に、きなこは眉をひそめた。
「……なんだ、これ?」
未知の冷たい光は不気味だった。
今はただ、弟の安否が気にかかる。
邪魔な表示を無視し、弟の元へ駆け出した。
地面に横たわる弟を見た瞬間、胸が締め付けられる。
不安に駆られ、震える声が漏れる。
「……くろみつ……」
かすかな声が返ってきた——弱々しく、それでも確かに。
弟の声を聞いた瞬間、安堵の涙が溢れた。
胸の奥がじんと熱くなる。
「よかった……」
涙を拭い、リュックから、弟が作り置きしてくれた傷薬を取り出す。
「くろみつの薬があって、本当に助かったよ」
優しい手つきで、弟の体に薬を塗っていく。
ボロボロだが、命に関わる怪我ではない。
きなこは小さく息をつく。
吹きつける風が、体温を奪う。
ふと視線を上げる。
崖の縁に立つカノンの背中が目に入った。
彼女は、震える体で谷底を見下ろしている。
その背中から伝わる悲しみと絶望に、きなこの胸は締め付けられるようだった。
「お父さん……」
彼女の嗚咽混じりの声が、静寂の中で響いた。
きなこは、彼女に何か言葉をかけようとした。
しかし——
喉が詰まる。
声が出ない。
彼自身も、父親ペンギンの最後をどう受け止めればいいのか、答えを見つけられずにいた。
弟を傷つけた敵でありながら、子ペンギンにとっては優しい父親——矛盾した存在が、目の前で消えていった。
きなこはそっと彼女に歩み寄り、ようやく声を絞り出した。
「……君、大丈夫」
言葉が続かない。
彼女の悲しみの前で、そんな言葉を口にすることが、ただの空虚な響きに思えたーー大丈夫なわけがないのに……。
少女はその声に気づき、きなこの方を振り返る。
涙に濡れた瞳で一瞬見つめ、言葉を探すように間を置いた。
「さっきは……助けてくれて、ありがとう」
かすれた声で、でもはっきりとそう言うと、彼女は再び視線を落とした。
「巻き込んじゃって……本当にごめんなさい……」
彼女の言葉には、拭いきれない罪悪感と深い悲しみが滲んでいた。
彼女の瞳に揺れる痛ましい光を、きなこは静かに見つめる。
ゆっくりと首を横に振ると、ひとつひとつ大切に言葉を紡ぐように口を開く。
「君のせいじゃないよ。きっと……誰のせいでもないんだ」
途切れそうな声は、まるで壊れやすい硝子細工のようだった。
その言葉にそっと寄り添うように続けた。
「誰にも、どうすることもできなかった」
しばしの沈黙の後、彼女の肩にそっと手を添えた。
「そんな中でも、君は必死に抗った。その強さを、誇っていいと思う」
最後に、遠い目をして、まるで自分自身に言い聞かせるように呟く。
「ただ……運命が、あまりにも残酷だっただけなんだ」
カノンは涙を拭いながら、きなこを見上げた。
きなこは薬を差し出し、彼女にそっと促した。
「君もこれを使って。少しは楽になるはずだよ」
彼女は、少し躊躇いながら薬を受け取り、小さく頭を下げた。
「ありがとう……」
その瞬間、きなこはふと思い出したように言葉を続けた。
「自己紹介がまだだったね。僕はきなこ。あっちで倒れてるのが、弟のくろみつだよ。君はカノン……だったよね?」
彼女はふと胸に手を添え、言葉を探すように、名乗った。
「……そう……カノン」
彼女の声は、その大切な響きをそっと確かめるように、か細く震えていた。
しかし、次の瞬間、その瞳の奥には、微かな光が灯る。
これは父がくれた大切な名前――なぜカノンという名なのかと幼い彼女が問いかけた時、父はこう語ったのだ。
「どんな時も、希望は君のそばにある。そして、家族の絆は永遠だ。だから、もしカノンが希望を見失いそうになったとしても、この名前を聞くだけで思い出せるように」と。
父の温かい言葉が蘇った瞬間、彼女の胸の奥底から、静かで確かな力が湧き上がってきた。
「私の名前は、カノンよ……素敵な名前でしょ?」
涙で濡れた瞳の奥には、拭いきれない悲しみの中に、それでも確かに、一縷の誇りが宿っていた。
彼女は名前を伝えた後、自分の傷に静かに傷薬を塗り始めた。
声にはまだ震えが混じっていたが、その仕草にはどこか落ち着きを取り戻そうとする意志が垣間見えた。
夕日が沈み、森の影が長く伸びていく。
カノンはふと顔を上げ、きなことくろみつを見つめた。
「私の村が近くにあるの。そこなら、安全に休めるし、手当てもできるわ」
きなこは、カノンの言葉を聞き、くろみつに目を向けた。
弟の顔は青ざめ、息も浅い。
額には汗が滲んでいる。
「……村まで、遠い?」
かすれた声でくろみつが尋ねる。
「すぐそこよ。あと少し、頑張れる?」
カノンの問いかけに、くろみつはわずかに頷いた。
「頑張る……でも……痛い……」
その言葉に、きなこはぎゅっと唇を噛む。
弟の弱々しい声が、胸に鋭く突き刺さる。
「俺が支えるから、大丈夫。一緒に行こう」
そう言いながら、くろみつの腕をそっと肩に回した。
その瞬間、彼の体の重さがずしりと伝わる。
「……私も手伝うわ。反対側、支えるね」
カノンがそっと寄り添い、体を支える。
「……ありがとう」
くろみつが小さく呟く。
三人はゆっくりと歩き出した。
一歩踏み出すたびに、鈍痛がきなこの全身に響く。
それでも、弟の苦しげな呼吸が微かに伝わるたび、痛みを押し殺し、前へ進んだ。
「この先を抜ければ村が見えるわ。頑張りましょう!」
カノンの言葉に、きなこはわずかに顔を上げた。
――――――
やがて、木々の間から小さな明かりがちらちらと見え始めた。
柔らかな光は、暗い森の中で安心感をもたらす希望の灯だった。
「ここが……ハーモニー村よ」
カノンは、少し微笑みながらきなことくろみつを見た。
村に入ると、カノンの姿を見た村人たちが驚きつつも駆け寄り、彼女を温かく迎えた。
「カノンちゃん!無事だったんだね!」
村人たちは彼女を囲み、優しく声をかけた。
村に入った瞬間、目の前に邪魔板が浮かび、
【ミッション達成!】
という通知を冷たい光で表示した。
しかし、きなこはそれを気にも留めず、目の前の状況に集中していた。
くろみつの肩を支えながら、村の中を進む。
きなことくろみつも村人たちに迎え入れられる。
その中で、ひときわ威厳を感じさせる年配の男性――村長が歩み寄り、柔らかな声で話しかけた。
「大変だったじゃろう。まずは傷を手当てして、ゆっくり休みなさい」
しかし、彼は少し間を置いてから、申し訳なさそうに続けた。
「とはいえ……本当に申し訳ないのう。傷薬はアルバニアスから頼りなんじゃが、最近、“プレイヤー”と呼ばれる異質な存在が大量に買い占めているらしくてな……手に入らんのじゃ」
(“プレイヤー”……)
きなこは彼の言葉を聞き、少し考え込んだ後に口を開いた。
「傷薬なら弟が作ったものがあります。今は、それでなんとかなりそうです」
村長は驚いた表情を浮かべ、
「そんなことができるのかね?」
と問う。
きなこがリュックから傷薬を取り出し、見せると村長はその出来栄えに感心したように目を輝かせた。
「これは素晴らしい……これほどの高品質なものを作れるとはなあ。できれば、少し分けていただけるとありがたいのじゃが……もちろん、弟君の回復が一番じゃ。彼の具合が良くなったら、ぜひ話を聞かせてほしいのう」
きなこは頷き、
「弟が回復したら聞いてみます」
と答えた。
――――――
その後、村長はきなことくろみつを自分の家へ招待し、
「せめて、傷が治るまで、ここでゆっくりしていきなさい」
と勧めた。
村長の家で食事をいただきながら、村長がふと口を開いた。
「村の者が迷惑をかけたようで、本当に申し訳ないのう。そして、君たちが助けてくれたこと、心より感謝しておる。ありがとう」
村長は深く息を吐き、申し訳なさそうに頭を下げた。
きなこはそれを受けて少し考え込みながら尋ねた。
「どうしてあんなことになったのか、何か知りませんか?」
村長はその問いに一瞬躊躇したが、すぐに顔を上げて言った。
「これほど迷惑をかけたことじゃ、……隠すわけにはいかんのう。詳しい話は、傷が治ってからにしよう。まずはゆっくり休みなさい」
その提案を受け入れ、村長の家の客室へ移動した。
質素ながらも清潔なその部屋には、シングルベッドが二つ並んでいる。
小さな机が窓辺に置かれ、静かな村の夜空が見渡せた。
部屋の中で眠っているくろみつを確認すると、窓辺に座り、星空を見上げた。
リュックから大切そうに天体望遠鏡を取り出し、久しぶりに星を観測する。
彼の瞳には、宇宙の無限の美しさと広がりが映り込む。
その中で、彼は不穏な動きをする星を発見し、胸騒ぎを覚えた。
「またか……」
きなこは小さく呟きながら、父親の研究ノートをリュックから取り出し、その星の動きを記録していった。
しかし、視界の端で邪魔板が点滅し、きなこの思考をかき乱す。
その光がしつこく視界を遮るたびに彼は眉をひそめた。
「邪魔だなぁ……」
耐えきれず、きなこは邪魔板を仕方なく確認する。
そこには
【レベルアップ!】
【アイテム獲得】
ペンギンの爪×1
S.E.C × 1
500G
【ミッション:ハーモニー村までたどり着け】達成!
【報酬:ガイド機能解放】
と表示されている。
きなこは不信感を抱きながら、表示されたOKボタンに触れる。
それは、まさにその瞬間だった。
突然、妖精の姿をした小さな男の子がきなこの目の前に現れた。
彼は薄青い光をまといながら、宙に浮いてきなこを見つめていた――。
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