カクヨムに投稿された主婦の体験談⑨

 姉は救急車で搬送され、早期流産と診断されました。

 妊娠三カ月の段階では母体の行動によって流産するということは考えにくいらしく、片道二時間電車に乗って遊びにきたことは原因ではないとのことです。胎児の受精卵の染色体異常ではないかという医師の診断に対し、姉は「違う、そんなのじゃない」と金切り声をあげました。


「栓が抜けてたの」

 姉は涙で掠れた声で訴えました。

「お胎の赤ちゃんが排水口に引っ張られて。へその緒が突っ張って、痛い! と思ったら、ぶちんって。切られたの。ちぎられたの。ちゃんと感じたんだから。引っ張られた赤ちゃんが叫んだの。『まま』って。『助けて』って。吸い込まれちゃった、連れていかれちゃった、かえして、かえしてよ、かえしっ、かえして」


 姉は段々と語調が激しくなり、最後は過呼吸になってひゅうひゅうと喉を震わせながらも喚き続けました。医師や看護師が落ちつかせようと試みますが、ダメでした。「ご家族は退室を」と促され、私はうす暗い病院の廊下へと連れだされました。



 少し経ってから、急きょ出張先から帰ってきた姉の旦那が慌ただしく廊下を通りすぎていきました。病室から洩れてくる姉の泣き声を聞きながら、私は長椅子に腰かけ、小刻みに背を震わせていました。


 もちろん、恐怖ではありません。歓喜です。


 だって、そうではありませんか? 姉の赤ちゃんは産まれてくるべきではないでしょう?私から奪ったものなんですから。盗んだもので幸せになるなんて、理想の家をつくるなんて、絶対に許さない ―


 姉は三日後に退院しました。通常の流産では考えられない量の血を流したせいか、貧血等の諸症状はあったそうですが、重篤な後遺症はありませんでした。

 でも、精神のバランスを崩してしまった。

 流産から約二週間経ってから姉の旦那に聞きました。

 風呂を極度に怖がって過呼吸になるので、入浴どころか洗髪すらできないそうです。洗髪は美容室に連れていくこともできますが、暑い日が続くなかで入浴できない彼女の体臭は酷く ― 実際にはどうか分かりませんが、姉自身が神経質になっているらしく、家にこもり続けているのだとか。


 ところで、風呂の浴槽の栓を抜くと、何があると思いますか?

 そう、排水口です。我が家では数少ないまともなところについた排水口なんです。

 私たちの家には異常な数の排水口があり、床を剝がせば入り組んだ排水管が絡みあい、交尾する蛇のようにもつれあっているはずです。

 そこにはナニカがいます。

 それはどうやら、私の味方らしい……私の願いを叶えてくれたのですから。


 ええ、そうですよ。願いました。妊娠した姉を「よかったね」と抱き締めながら、心のなかでは「流れちゃえ」って。

 でも、違った。間違っていた。

 味方なんて。いなかった。私は間違えた。きちんと怖がるべきだったんです。


 ふしぎですよね。昂奮している時って、何があっても怖くないんですよ。怒っている時とか悲しんでいる時とか。恐怖という感情が麻痺してしまうんです。

 変だと思いませんか? 恐怖がいちばん本能と密接した、命をまもるための感情であるはずなのにね。


 私があの家に住み続けられたのも、そういうわけなんです。今、こうして書き続けられているのもたぶん。



 □



 秋になって、家はすっかりと落ちついていました。

 前より拓海は家族のことを考えてくれるようになって、家族でハイキングにいって駿河湾越しに富士山を眺めたり動物公園で猿に餌をあげたりしました。デッキではバーベキューもしましたね。碧依は花火のほうが楽しかったみたいですが。

 私はすっかり排水口のことは忘れていたんです。姉がその後どうなったのかも知りません。姉の旦那はこまめに連絡するひとではなかったし、姉から連絡もなかったので。


 十月のある土曜日のことです。私は碧依と一緒に入浴をしていました。碧依は三歳児にしては珍しくお風呂が好きで、恐竜の玩具を浴槽に潜水させて遊んでいました。

 実をいうと、私は碧依が恐竜や列車の玩具で遊ぶのがあまり好きではありませんでした。遊びかたが乱暴になるからです。だからといって取りあげたりはしませんが。


 私はそのあいだに髪を洗っていました。恥ずかしい話なのですが、私は頭をあげて洗髪する事ができませんでした。バスチェアに腰かけ、前かがみに頭をさげて洗うのです。

「さんぽでねぇ、ぴちぴち、きてね」

「うんうん」

 ぴちぴちというのは雀のことです。最初は魚かと思っていました。子どもらしい他愛のない会話に相づちを打ちながら、充分に泡だったシャンプーを洗い流します。

「でねー、ぽっぽ、ね……」

 シャワーのノイズのむこうで楽しそうに喋っていた碧依の声がとつぜん途切れました。

「ポッポがどうしたの?」

 尋ねかえしましたが、不自然な沈黙だけが続きます。

「ねえ、なに」


 ふざけているのかなと思いました。

 このごろ、碧依は私をわざと心配させるという大変に迷惑な遊びをおぼえました。先週スーパーに出掛けた時もそうでした。セール品を積んだワゴンの後ろに身を屈めて隠れ、どれだけ呼んでも出てきてくれないのです。迷子になった? 連れ去られた? なんて考えて 頭が真っ白になりました。アナウンスを頼むため、サービスカウンターにいこうとしたところで、後ろから碧依が跳びかかってきたのです。びっくりする私をみて、けらけら笑うんだから、ほんとうにもう。


 ですが、母親の勘というのでしょうか。これはいたずらではないと直感しました。

 私はシャワーをとめ、洗いかけの泡が垂れてくるのも構わずに視線をあげます。碧依がいません。身を乗りだして覗きこむと浴槽のなかでうつぶせになっていました。


 溺れている。


「碧依!」

 慌てて碧依を助けだそうとしました。ですが、できませんでした。


 いつもだったら、かんたんに抱きかかえられる碧依が異常なほどに重いのです。水を吸った綿みたいに。なんで ― パニックになった頭のなかで姉の声が繰りかえされました。栓が抜けて。引っ張られて ― 姉が、笑いました。ざまあみろ。


 私は絶叫しました。浴槽の外からでは力が入らないため、なかに踏み込んで身を屈め、力のかぎりに碧依の身体を引っ張ります。


 その時、バスタブの底でナニカが動きました。細長いもの。栓の抜けた排水口から伸びたそれは、ユラユラと不安定に水のなかを泳いでいます。蛇かと一瞬、思いました。でも、違いました。その先端にあるのは蛇の頭ではありませんでした。碧依の腕をつかんでいるのは鳥の嘴だったのです。


 嘴が、碧依をつかんで、排水口に引っ張りこもうとしているのです。え、嘴はつかまない?

 いいえ、だって碧依の腕に絡みついていたのは指。指、指。人間の指だったんです。鳥の嘴からは夥しい指の群が這いだし、わらわらと蠢いていました。イソギンチャクっているじゃないですか。海にいる触手を持った無脊椎動物。まさにあんなかんじです。


「あげない!」

 私は泣きながら叫びました。

「あげるものかっ」

 抵抗を続けていると諦めたように嘴が緩み、指がひとつ、またひとつと剝がれていきました。私は碧依を抱きかかえて、後ろに尻もちをつきました。

 みるみる浴槽の水かさが減っていき、大量の水が排水管を流れていく震動がどうんどうんと響きました。


 どれくらい経ったでしょうか。湯はすでに半分ほどまで抜けていました。私は我にかえって、碧依の呼吸を確かめます。息がない。

「拓さんっ、拓さんっ……碧依、碧依が……!」 私は裸のままで拓海の寝室に駆けていきました。


 あれだけ騒いでいたのに、拓海がドアをあけたのは私がドアノブに手をかける直前でした。拓海は錯乱した私と抱きかかえられてぐったりとしている碧依をみて、さっと青ざめました。

「きゅ、救急車……」とだけつぶやき、慌ててスマホを取りに寝室のなかに戻っていきます。意識のない碧依を抱き締めながら、私は「ごめんね」と喉を震わせました。ごめんね、ごめん。私のせいだ。私が姉の不幸を願ったから。


 碧依の笑顔が、泣き顔が、頭をかすめては遠ざかりました。

 鮮烈に思いだしたことがあります。碧依が二歳のころです。家事で疲れていたせいで、ち ょっとしたいたずらを酷く𠮟ってしまったことがありました。しばらく経って、あんなに𠮟ることはなかったなと自己嫌悪で落ち込んでいたら、碧依がおずおずと近寄ってきました。小さな手で私の服の裾を引っ張って、泣きながら訴えるのです。「まま、しゅき」「まま、しゅき」って。それは「わがままばかりでごめんなさい」も「料理、作ってくれてありがとう。お疲れさま」もまだ言葉にできない幼い我が子の何より雄弁な愛でした。


 可愛い碧依。たいせつな、私のたからもの。

 どうか、許してください。碧依を連れていかないで。いやだ、いやだ、いやだ ―

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