カクヨムに投稿された主婦の体験談⑧
碧依の誕生日、姉は幸せそうにお腹をさすりながらやってきました。
「子どもができたの。妊娠三ヵ月だって」
まだそれほど膨らんでもいない腹を、愛しげになでる手つきからは新たな命を宿した母親の幸福があふれていました。姉の旦那は出張とのことです。
「ほんとうに嬉しい。ずっとずっと待ってたの。やっと私のところにもきてくれた」
おめでとう。そう声をかけてあげないと。持ち家を購入した時、姉が喜んでくれたみたいにお祝いしてあげないと。
私は姉に笑いかけ「よかったね、頑張ってたもんね」と抱き締めました。表情がひきつれていても、抱き締めていたら気づかれません。姉は感極まって私の腕のなかで洟をすすりました。
喉に蓋をしないと。腹の底からこみあげてきた言葉があふれだしそうで ― それで、その赤ちゃんって、誰との子なの?
賑やかに飾りつけたリビングにはすでにテーブルが埋まるくらいのご馳走が並べてあります。ポテトサラダにグラタン、ちょっと奮発した鶏ももの照り焼きはまだオーブンのなかです。姉に続けて拓海が帰ってきて、拓海の実家の親がそろい、碧依の誕生日会が始まりました。
夢にまでみた持ち家。三歳を迎えた我が子。普段通りの拓海。孫の成長を喜び、はるばる横浜から腕一杯のプレゼントを抱えてきてくれた義親。新しく母親になる姉の幸せそうな声を聞きながら、私は幸せから最も遠いところにいました。
「どうした、なんか疲れてるみたいだけど」
「そんなこと、ないよ」
「張り切ってご馳走なんかつくったからじゃないのか」
ご馳走なんか、か。そういえば拓海は私の料理を褒めてくれたことがありません。いつだって、もそもそと表情を変えずにたいらげるだけ。
碧依は姉の持ってきてくれたハンバーガーを頰張って、「きゃっきゃっ」と弾けるような歓声をあげていました。私の手料理なんかには眼もくれず、ケチャップで手やら口のまわりやらをベタベタにしています。
姉はそんな碧依を微笑ましげに眺めながら、これみよがしに腹をなでています。結婚から七年経っても妊娠できなかった姉。そのうちの二年は不妊治療を続けていましたが、成果はありませんでした。
医師から旦那側の検査を促される前から、姉は疑っていたはずです。不妊の原因は旦那のほうにあるのではないかと。
だとしたら、なぜ、姉はいきなり妊娠できたのか。
妊娠三ヵ月だと姉は嬉しそうに語っていました。三ヵ月前というと拓海が朝帰りしたあの晩と重なります。妹の旦那を盗っておいて、どうしてこんなに嬉しそうに報告できるのでしょうか ―
いったい、いつから不倫していたの? この家にきてから? それとも引っ越すまえから? だから拓海は私のことがどうでもよくなったの? 女のほうが可愛くて、子どものことが可愛くなくなったの?
姉は私が拓海の愚痴をこぼしていたとき、どんな思いで聞いていたのでしょうか? 嘲笑ってた? 哀れんでいた? それでも妊娠できなかったら、今の旦那と離婚して拓海と再婚でもするつもりだった? 碧依の親権を奪えば姉さんの理想の家になるものね。だから、碧依をなつかせたの?
はらわたどころか、頭のなかまで煮えています。暗くてねばりけのある熱泥の塊がふつふつと沸き、大きなあぶくになって膨れあがる。熱い。熱い泥。それなのに、泥の底は凍えるように冷たい。
「まま」
はたと視線を落とすと碧依がいました。かみつぶされて一緒くたの塊になったパンとチーズとハンバーグを、ぐっちゃぐっちゃと覗かせながら碧依は口をあけて笑います。
「まま、きょうりゅうさん」
姉からもらった恐竜の玩具だとすぐに分かりました。食事の前から、私があげたお喋りするクマのぬいぐるみなんてそっちのけで、恐竜でばかり遊んでいました。
「食べてからにしなさい」
私は𠮟りつけ、碧依の手を払いのけました。
「やだ、いま、遊ぶ」
碧依は低い鼻にしわを寄せます。泣いてもいいの? とばかりに。そうすれば、なんでも思い通りになるとでも思っているのでしょうか。
「やめてよ、きたない!」
私の声は家族の食卓に水を浴びせかけるように響きました。碧依が泣きだし、姑や姉が「あらあら」となだめるように寄ってきます。「手、拭いてあげましょうね」姉が碧依の手を濡れたタオルで拭ってやりました。
ですが鼻水と涙、涎と一緒に口からこぼれた食べ物の滓を小さな手で拭おうとするのでキリがありません。こんな時にでもハンバーガーは離さないのですから、呆れたものです。鼻水だか、涎だか、分からないものがハンバーガーに垂れて、ねちゃりと腐ったように糸をひきました。ピンクの可愛い服がしみだらけになっていきます。服とお揃いのリボンもほどけかけていて。……せっかくきれいに結んだのに。
姑は碧依をなだめるため、玩具を渡そうとしました。
「すみません、うちでは食事をしている時には遊ばないように教えているので」
なんとか冷静さを取り繕って私がそう断ると、姑は「こんな時くらい、いいじゃない。ね?」と碧依の頭をなでました。
恐竜を渡された途端、碧依は噓のように笑いだしました。それと引き換えに恐竜はベタベタになっていきます。
ハンバーガーを食べ終わるなり、手も拭かずに今度はクマのぬいぐるみをつかんで、恐竜と喧嘩させはじめました。このごろ、碧依がはまっている遊びです。私は髪のリボンだけ結びなおして、みるにたえない遊びから目を逸らしました。
「子育てっていうのはね、まあいっか、って気持ちでやらないと」姑の説教が始まります。
拓海は我関せずで、食卓の隅で缶ビールを飲んでいました。ああ、この家に私の味方はいないんだな ― 絶望する私を取り残して、誕生日会は楽しく続いていきます。
終わりのない姑の説教を聞きながら、私はずっと瑕ひとつない茶碗ばかりを眺めていました。
拓海の実家の親たちは終電で帰宅しましたが、姉は一晩泊まることになりました。こういう時のために我が家には客室があります。
「お風呂、借りるね」
姉が風呂場にむかって、十五分くらい経った時でしょうか。
風呂場から姉の悲鳴が聞こえてきました。私と拓海はリビングでまだ後片づけをしていました。遊び疲れた碧依はソファに寝かせています。私たちは顔を見あわせました。「水希、聞こえた?」「聞こえた。ちょっと様子、みてくるね」私は姉のいる風呂場へとかけつけました。
「やだ、やだやだやだああ」
浴室からは姉の錯乱した声と、溺れているかのように水を激しく跳ねあげる音が続いていました。尋常な様子ではありません。
「姉さん、どうしたの」
「やだああ」
声を掛けましたが、埒が明きません。幸いなことに浴室の鍵はかかっていませんでした。ためらいながら浴室を覗いた私は「ひっ」と悲鳴を洩らしました。
湯船が、真っ赤だったのです。
透きとおった赤ではなく、どろりとした赤でした。月経を知る女の身だから、すぐに分かりました。あれは血です。血に染まった赤い湯が波うっては砕けました。
姉は振りかえりもせず、青白い背をかがめて、みるみる減っていく赤い湯を懸命に搔きわけていました。持ちあげた白い手指の間から赤がこぼれていきます。あるいは搔き集めていたのかもしれません。だって ―
「やだやだあ、やだよおお、私の赤ちゃん、かえして! 持っていかないで……!」
流産。
救急車を、と懸命に思考をまわしながら、私は無意識に洗面台の鏡をみました。そこにはこらえきれない笑いを浮かべて顔をゆがませた私自身が、映っていました ―
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