カクヨムに投稿された主婦の体験談⑩

 幸いなことに碧依は一命を取りとめました。


 ぺた、ぺた。ちぎっては、貼る。ちぎっては、貼る。

「いい加減にしろよ」

 拓海が私の腕をつかむ。持っていたガムテープが落ちて床を転がりました。リビングの床には執拗にガムテープの貼られた一角があります。いくつも重ねて、重ねて。霊験あらたかな寺から頂いてきた御札も貼られています。


「だって、排水口を塞がないと」

「異常だよ、水希。台所も風呂場も洗面台も使えない。こんなんじゃ生活できない」

 こんな時でも拓海は落ちついた声を出していました。結婚した時はそんな彼に惹かれたのに、今は腹が立ってどうしようもありません。

 私は激高して拓海につかみかかりました。

「碧依が連れていかれたらどうするの!」

「排水口に? おまえ、変だよ。そもそも、碧依があんな細いところに吸い込まれるわけないだろ? 落ちついて考えろよ」


 碧依はシール遊びだと思ったのか、私たちが口論しているあいだにガムテープを剝がしはじめていました。私はカッとなって碧依の頭をはたきました。

「碧依、あなたのためなのよ、あなたのためにやってるのに! なんでわからないの!」

「おい、やめろよ。碧依が可哀想だろ」

 私の剣幕に泣きだした碧依を抱き寄せて、拓海は諭すような声になる。なんで、今さら父親みたいな振りをするの。

「風呂場の一件がショックだったのは分かるよ。でも、あれは事故だし、そもそも水希がちゃんと碧依をみててやらなかったのがよくないんだよ。正直、排水口がなんだかんだって非現実的な理由をつけて、責任転嫁してるようにしか見えない」


 ああ、やっぱり、この人は私の話なんか聞いてくれていない。碧依が溺死しかけた経緯は話したのに。何度も何度も何度も話したのに。「わかった」「怖かったな」と頷いてくれていたのに。どれだけ話してもダメなんだ。

 私はがっかりしていました。続けて怒りが湧いてきました。


「ねえ、拓さん」

 煮え滾る激情とは裏腹に私の声は半笑いでした。声の端々がとがって震えています。

「姉さんと、したんでしょ」

 拓海が表情を強張らせました。

 寝起きのトカゲみたいな眼がひらいて、鼻がちょっとだけ膨らむ。あ、お父さんと一緒だ。私の父親もそう。怒りだす直前に鼻が横に拡がるのです。だから拓海を選んだのに。鼻が細いこの男と結婚したのに。


「なんだよそれ」

「姉さんの赤ん坊、あんたの子でしょ。私、知ってる。知ってたんだから」

「やめろよ、そういうの」

「流れてよかったね? あそこの旦那さん、たぶん、疑ってたよ」


 あの晩、姉の旦那は連絡してから二時間ほどで病院まで駆けつけた。ほんとうに遠方まで出張していたんだったらそんなに早く着くはずがない。何より碧依の誕生日は祝日で、出張があるのはちょっと変だった。

「あのさ、どうでもいいじゃん、いま、そんなこと」

「どうでもよくない」

 とまらない。あふれる。あふれる。あふれる。

 詰まった排水管がいっきに逆流するみたいにこれまで溜め込み続けてきたモノが噴きだしました。彼の不倫が発覚したあの晩、便器に吸い込まれていった嘔吐物。消化されかけた焼き魚。酸っぱくなった味噌汁。つぶれたご飯。それらが狂暴な激流となって家を浸水させます。

 私の理想の家は穏やかで暖かな食卓の風景でした。でも、もうだめになっていました。


「おまえ、ほんと、おかしいよ。碧依のことだって」

「何がおかしいの」

「遊ばせてる玩具も、着せている服も、変だよ。髪もいいかげん切るころなのに、伸ばしてリボンをつけたりして」

「変じゃない。だって碧依は ― 」

「それだよ、それ! ……言っても聞かないからずっと我慢してたけどな、碧依の育てかた、間違ってるよ。うちの親も心配してた。碧依のこと、もっとちゃんと考えてやれよ」


 頭が破裂するかと思いました。それから先、何を喋ったのかはおぼえていません。私は息もつかずに怒鳴って、彼も怒りだして家を飛びだしていって ― 気づいたら誰もいないリビングですわり込んでいました。


 ガムテープだらけの床に茶碗が落ちています。夫婦茶碗のひとつ。桜に波という文様が素敵だねと新婚の時に選んだものです。茶碗はふたつに割れていました。私は笑いがとまらなくなりました。割ったのが私だったのか、拓海だったのか。思いだせません。ただ、壊れていることだけが現実でした。

 茶碗の割れない家に、したかった。私は声をあげ、泣きました。


 どれくらい時間が過ぎたのでしょう。日は落ちていましたが、そもそも喧嘩を始めた時に昼だったのか、夜だったのか、不確かでした。碧依のことは拓海が連れていったのかな。そう思っていたら、隣の部屋から碧依の泣き声が聞こえました。


 こんな時でも碧依のこと、どうでもいいんだ。そういえば姉さんとの赤ん坊だって彼は悲しんでなかった。自分が父親だって自覚がないんだ。産んでないから。

 そう考えるとまた、笑えてきました。情緒が崩壊してて、悲しいんだか、おかしいんだか、訳が分かりません。


 これだから男はキライです。碧依を、拓海のように育てるわけにはいきません。私の育てかたは間違ってない。何より、碧依のためなのですから。


 碧依の泣き声は酷くなっていました。私は母親です。家庭が壊れても母親なのです。ふらつきながら、碧依のもとにむかいました。


 声は拓海の寝室から聞こえています。そういえば、引っ越してきてから一度も入ったことがなかったなと考えつつ、拓海の寝室に足を踏みいれました。明かりはついていませんでしたが、リビングから四角く切り取られた光が部屋のなかを照らします。

 うす明かりのなかに碧依がいました。


「……え」


 碧依の首が、排水口から突きだしていました。


 その顔は恐怖と痛みで、かたまっています。歯茎が剝きだしになるほどに口をひらいて、瞼も捲れあがり、眼窩から眼球がごとんと落ちそうなほどでした。ですが、その眼はもう、意識というものを持ってはいません。


 泣き声はいつのまにか途絶えていました。


 生々しい咀嚼音ばかりが排水口から響いてきます。料理のあと、野菜くずやご飯つぶ、挽肉の残りとか捌いた魚のアラでいっぱいになったシンクの排水ネットを、思いきり手で握り 締めて水をしぼり取るような。聞いているだけで臭気を感じる音。柔らかいでもなく硬いでもなく。たまにボキリと細いものが折れる音が混ざります。それが何なのか。私は考えたくはありませんでした。


 何も考えたくはありませんでした。


 恐怖って不思議ですよね。警告の段階では別の感情で麻痺するのに、危険が身近に迫った時は愛とか悲しみとかを凌駕して、針金で縛られたみたいに動けなくなるんですから。排水口のすきまから細い嘴がねじ込まれるように這いだしてきました。

 黒い嘴です。嘴のきわには濡れた羽毛がびっしりとついていました。嘴がゆっくりとひらきます。口腔に並んだ乱杭の指が碧依の頭を無造作につかみました。ぐずり。熟れて腐り始めた柿の実を握り潰すみたいにして、うごめく指が頰にめり込んでいきます。


 なんで ― なんでこんなことになったんだろう。何を間違ったんだろう。この家に引っ越したこと? それとも、……ああ、そうか。


「碧依……」

 間違えたのだとしたら、ひとつだけだ。


「ちゃんと女の子に産んであげられなくてごめんね」しぼられた肉が弾けた。

 

 頰骨を砕き。脂肪を捏ね、頭蓋をまるめて。


 家が、碧依を喰べた。

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