第8話
生徒たちがざわざわと登校してくる。靴音や笑い声が混じりあい、春の空気に乗って流れていく中、俺は欠伸を噛み殺して、校門の前に立っていた。
まだ朝の光はやわらかく、桜の花びらが風に乗って舞っている。アスファルトの上に落ちたそれは、靴に踏まれて、すぐに形を失った。
四月も、もうすぐ終わる。新学期の浮ついた空気も、そろそろ落ち着く頃だ。
クラス替え、席替え、新しい担任。教室の壁も窓も、どこかまだ“新しい”と感じさせる匂いが残っていたけど、それも日が経てばすぐに馴染んでいく。人間の感覚は鈍いもんだ。
「おはようございます!」
不意に、明るい声が耳を打つ。振り向けば、見知らない男子生徒が一礼して通り過ぎていった。
制服はピシッと整っていて、ネクタイもきちんと締めている。靴はピカピカで、髪型も真面目一辺倒。いかにも“入学したて”って感じだ。きっと今年の一年生。
緊張感と初々しさがまだ抜けていない。妙に背筋を伸ばして歩く姿を見ていると、なんだかこっちまで背中がかゆくなる。
そういや、俺も一年前は、あんな感じだったな――と、少しだけ懐かしい気持ちになる。
……まあ、今はすっかり慣れて、制服のシャツも多少緩めてるし、寝癖があっても気にしない程度にはだらけてるけど。
「はよーっす」
間の抜けた声と共に、案の定、寝癖ボサボサの男が現れた。相澤亮。
シャツはズボンからはみ出して、ネクタイもどこかに消えている。リュックのチャックも半分開いてて、中からプリントらしき紙が顔を覗かせていた。さっきの一年と比べると、もはや同じ学校の生徒とは思えない。
「ん? なんだそんな顔して。俺の顔になにかついてる?」
「いや、お前も一年を見習えと思ってな」
「んあ? あー、みんなちゃんとしてるよなー。でも一年も経てば、みんな俺みたいにだらけるって」
「いや、お前はだらけすぎ」
思わず突っ込む。言ってて自分がマシに思える程度には、こいつの見た目は酷い。
それでも、こうやって朝から現れて、くだらない話をしてくれるのは、なんだかんだありがたいのかもしれない。朝の空気が、少しだけゆるむ気がした。
「てか、今日は珍しく速いな。大代とのデートはどうした?」
「大代とは通学路が一緒なだけで、別にデートじゃねぇよ。人を待ってんだ」
「は? 人? 誰?」
「黒井だよ」
「はぁー!? お前黒猫待ってんのかよ」
亮の顔が見事に崩れる。半笑い、半呆れ、半信じられないの三拍子が一気に揃った。
「え? なんで? え? どうして?」
「別にいいだろ」
「いや、いいけどよぉ。黒猫と関わったのかよ。あーそういや昨日屋上に一緒にいたって噂になってたなぁ」
それは昨日、大代からも聞いた話だった。
恐らく亮と一緒に昼を食っていたら、そこまで騒がれなかっただろう。
大代と食べても、ちょっとは噂になるかもしれないが、そこまでじゃない。
けど、黒井環と――それもあの無口で無愛想な“黒猫”と一緒に食べた、ってだけで、この高校のゴシップ回路は即座に稼働した。
……なんか、おかしい気がする。
「黒井と関わるのがいけないことか?」
「別にいけないってことはねぇけど。意外だったな。お前のタイプって黒猫なのか」
「勝手にそっち方面にもっていこうとするな」
俺の口調が少し強くなったのか、亮が片眉を上げた。
「黒猫って胸ペタンコだろ。それよりも」
通りすがりの女子生徒を見やって、
「ああいう、巨乳の方がよくね?」
「お前、またそれかよ……」
呆れた俺の声にも、亮は気にする様子もなくニヤニヤしている。
こいつの脳内はいつも乳でいっぱいだ。偏差値が牛乳パックの脂肪分ぐらいしかないんじゃないかってレベルで。
「だってよ〜。黒猫って、制服の上からでもわかるくらい、な……」
人差し指と親指で「これっぽっち」みたいなジェスチャーをしやがった。
「やめろ。誰かに見られたら終わりだぞ」
「大丈夫大丈夫。俺、ちゃんと服の上から判別できるプロだから」
「何のプロだよ」
そして何が大丈夫なんだ。
「おっぱい博士。異名:布越しの神眼」
「二つ名をつけるな」
こんなくだらない会話で、朝から周囲の視線がちょっとずつ集まってきているのを感じる。
女子の視線が冷たい。そりゃそうだ。俺もそう思う。
「あれはB、あの膨らみはCよりのD、おっあれは、Aだな。今後の成長に期待」
俺は亮の後頭部を思い切り引っ叩いた。
しかし、亮の暴走は止まらない。手を双眼鏡の形にして、興奮気味に叫ぶ。
「おい! 悠、あれはFだぞ! 生もんだ。すげー貴重だぞ。内の学校にいるのかよ!」
そう言って亮は双眼鏡を胸から顔に向ける。
「あー違うわ。あれ生徒じゃなくてお結びだ」
その瞬間、風のような速さで飛んできた影が、亮の首元を巻き込んでラリアットを決めた。
「がっ……は、ぁ……っ、え? え?」
気づけば、亮は地面に倒れていた。
「おはよう諸君。今日もいい天気だな」
声の主はニコニコと爽やかに微笑む。
お結び”こと蒼井結先生。
「お、おはようございます……」
「どうやら、悩みが吹っ切れたようだな、日向」
俺は何も言えず、ただ苦笑いを浮かべた。
「さて。朝から仕事が増えたようだ。また悩みがあったらいつでも保健室にきたまえ」
蒼井先生は、倒れた亮の腕をがっしと掴むと、ずるずると引きずって校舎の中へと消えていった。
……なんというか、朝から濃いな、うちの学校。
俺は、亮がこれで少しは懲りてくれたらいいんだけどな、と心の中でため息をついて、視線を再び登校してくる生徒たちの列へと向け直す。
笑い声や雑談が絶えず流れていた。そのざわめきの中に、妙に静かな気配が混じる。
――いた。
目が自然と吸い寄せられる。人波の中に埋もれそうな、その存在。
黒井環。黒髪のロングヘアが風に揺れている。目立たない立ち居振る舞いのはずなのに、一度見つけたら、どうしても視線が逸らせなかった。
彼女も俺に気づいたらしい。ぱたりと動きを止め、ほんの一瞬、表情が硬直する。
けれど次の瞬間、そそくさと顔を逸らして、俺の横を通り過ぎようと早足になる。その逃げ腰の歩き方に、俺は少しだけ笑って、呼び止めた。
「おはよう、黒猫」
ぴたりと足が止まる。肩が小さく跳ねた。
彼女はゆっくりと俺の方に振り返った。表情は変わらない。いつもの、淡々とした無表情。けれど、瞳の奥にだけ、ほんの少し困惑の色が滲んでいる。
「……黒猫?」
黒井の語尾がわずかに揺れていた。
「ああ、黒井のあだ名だろ」
「そう呼ばれるのは、嫌いです」
語気は変わらないけれど、確かな拒絶がそこにはあった。俺は少しだけ眉を寄せる。
「猫が嫌いなのか?」
「違います。黒猫は……不吉なイメージを持たれがちで、それに当てはめられるのが嫌なんです……猫は、好きです」
「俺は別に、不吉だなんて思わないけどな。黒猫って、可愛いじゃないか。目がくりくりしてて。でも、可愛いと思って近づいたら、すっと逃げてく。……なんだか黒井とそっくりだなって、思ったんだ」
俺がそう言うと、彼女は小さく瞬きをした。何かを言いかけたけれど、唇がわずかに開いて、そのまま閉じる。微妙に視線が泳いでいる。
「もし、黒猫がいやなら――やめるよ」
俺はそう付け加えて、軽く笑ってみせた。
春の光が、黒井の髪の先をほんのり照らしていた。
「否定してもあなたは」
それは本当に小さく、消え入りそうな声。
「否定してもあなたはどうせ、そう呼びますよね。なら好きにしてください」
勿論そんな事はなかった。
彼女が嫌がるなら、直ぐにでもやめるつもりだった。
けど黒猫は不器用ながらも呼んでもいいと答えてくれた。
「ああ、これからよろしくな黒猫」
「......よろしくなんてしません」
言葉を交わした直後――ガツン、と誰かと肩がぶつかった。
反射的に振り向いた俺の目に飛び込んできたのは、見間違えようのない顔。
――大代だった。
すれ違いざま、低く、吐き捨てるような声が耳を打つ。
「……信じられない」
冷たいものが背筋を這う。
俺は、ただその場に立ち尽くした。
校舎の影へと消えていく背中を、追うことはできなかった。
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