第2話
夜は案の定というか、やっぱりというか。あまり眠れなかった。
目を閉じても、頭の中であの子の姿が何度も何度も再生される。冷たい風の中、今にも消えそうな影
黒井環。
俺は、彼女をどうしたいんだろう。助けたいのか、ただ気になっているだけなのか。誰かの代わりに手を差し伸べたいだけなのか。そんなことを考えていたら、気づけば夜が明けていた。
ぼんやりとした頭を引きずりながら玄関の扉を開けると、隣の家の塀にもたれて、スマホをいじっている誰かの姿があった。
細身の体にゆるく垂れた長い髪。ピリッと冷えた空気のなか、その髪に朝の光が冷たく差している。
「……遅い」
スマホから顔を上げて、そう言ったのは
気怠げな口調で言い放つと、さっさと踵を返して歩き出す。俺もそのあとに続く。
風はまだ少し冷たくて、季節が春から初夏へと揺れているような朝だった。
「そういえば、昨日の英語の宿題やった?」
「いや、まだ」
「なにそれ。今日の朝提出なんだけど 間に合いますかー?」
「いや、間に合わない。だから大代のを丸写しさせてもらうわ」
「絶対に嫌」
そっけない会話。だけど、妙に落ち着くリズムだった。
ただ、俺の意識の端には、やっぱり昨日の屋上の記憶が色濃く残っていた。
少し迷ってから、俺はぽつりと切り出す。
「なあ、黒井って知ってるか?」
その瞬間、大代の足が止まる。
気怠げそうな雰囲気は相変わらずだけど、気配がほんのわずかに変わった。
「……黒井? ああ、黒猫のことね」
「黒猫?」
聞き返すと、大代は小さく鼻で笑った。
「アンタが気にしてる黒井環のこと。みんな陰でそう呼んでる。黒井の“くろ”と、環の“たま”で“黒猫”。まぁ連想ゲームみたいなもん。それに小柄で静かで、猫っぽいじゃん。いつも一人でいるし」
言われてみれば、なるほどな、と思ってしまう。
「で、その黒猫がどうしたの?」
「……いや、ちょっと気になっただけ」
視線を逸らして言うと、大代はじっと俺を見つめた。
「ふーん……まあ、いいけど」
言葉の先に、少しだけ棘が混じる。そして、さらに続けた。
「でも、忠告しとく。黒猫とは関わらない方がいい」
「どうして」
「知ってるでしょ。黒猫には、よくない噂が多いから」
その声が、どこか鋭くて冷たい。
否定できなかった。俺の耳にもその噂は届いていたから。
——黒猫のお母さんって、夜の店で働いてるらしいよ
——パパ活してるんだって
——家に毎日、違う男が出入りしてるって
どれもこれも、根拠の曖昧な、黒く濁った言葉ばかりだった。
「そういう子って、だいたい周りを巻き込むんだよ。……あんた、変に優しいからさ。関わったら、絶対にしんどくなる」
それが、本心からの忠告なのだと、わかった。
わかってるけど——
「……っ」
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
何かがひっかかる。納得しきれない自分がいる。
「とにかく」
大代が、少しだけ歩みを緩めながら言った。
その目は、朝陽の中でも不思議と真っ直ぐで。
「関わらない方が、いい」
何気なく聞こえる一言だったけど、その裏にある重さは、胸の奥にじんと沈んだ。
たぶん――いや、きっと、彼女なりの優しさだった。
大代はただ冷たいわけじゃない。俺の性格を知っているからこそ、心配してくれたんだと思う。
彼女の言う通り関わらない方が楽かもしれない。
確かに、噂はひどかった。真偽なんてわからない。
だけど、それだけで距離を置く理由になるほど、俺は冷たくはなれない。
「……」
言い返す言葉は出てこなかった。
春風が吹き抜ける。
少しだけ、目が覚めたような気がした。
教室に入ると、すでに賑やかな声が飛び交っていた。
黒板の前で男子が騒ぎ、女子たちは窓際でスマホを並べて笑い合っている。そのざわめきの中で、俺はふと、教室の隅――最後列の窓際に視線をやった。
そこに、彼女はいた。
黒井環。淡い茶色のカーディガンに身を包み、無言で文庫本を読んでいる。ページをめくる指先は細く、頼りなげで、けれどどこか確固としたものが宿っているように見えた。
彼女の周囲には、誰もいない。
あの場所だけ、まるで教室の時間から切り離されたように静かだった。
「よっ、悠。昨日の英語の宿題やってきたか?」
唐突に声をかけられ、俺は黒井から視線を外す。
振り返ると、今日も軽薄そうな笑みを浮かべた
「ああ、宿題なら——」
言いかけたところで、亮がずいっと肩に腕を回してくる。
「分かってるって。どうせやってないんだろ? おいおい、提出は朝礼後だぜ悠君よ〜 なーんてな。俺も実はやってないんだ。一緒に怒られようぜ」
「いや、登校中に大代に見せてもらって終わらせたけど」
「うらぎりものォォ!」
膝から崩れ落ちる亮。朝礼のチャイムが鳴った。
笑いながら席へと戻ると、黒井もまた、ゆっくりと文庫本を閉じて鞄にしまう。
彼女の瞳が、一瞬だけ、俺と交差する。
けれどそれは、まるで何も見ていないような、透明な視線だった。
心が、ふと、ざらり、音を立てる。
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