第3話
昼休みのチャイムが鳴っても、俺は席を立たなかった。
窓の外では、淡く滲んだ光が校庭に降り注いでいる。日差しはやわらかく、どこか人を眠気に誘うようだった。
教室にはざわざわと喧噪が満ち、友達同士で食堂へ向かう声や、購買のパンを抱えて戻ってくる生徒の姿が目に入る。そのどれもが、まるで厚いガラス越しに眺めているように遠い世界の出来事だった。
ふと、机の上に影が差す。
見上げると、亮だった。手には財布と、どこからか持ってきた購買部のチラシを握っている。
「よし、悠。今日はカレーうどん攻めるぞ」
声がやけに張り切っていた。
「なんでも、食堂の中でも人気メニューらしい。行こうぜ」
チラシには赤ペンで丸がついていて、そこだけやけに強調されていた。亮のことだ、きっと朝からこれを楽しみにしていたのだろう。
その期待に応えられないのが、申し訳なかった。俺はほんの少しだけ視線を逸らす。
「悪い。今日は、やめとくわ」
そう言って、鞄の中から弁当を取り出す。青い風呂敷に包まれた、今朝自分で詰めた唐揚げ弁当。普段なら食堂で済ませている俺にとっては、異例のことだった。
「なんだ。珍しく弁当持ってきたのか」
亮は意外そうに眉を上げたが、すぐに軽く肩をすくめて笑う。
「わーたっよ。俺ひとりで行ってくるわ」
そう言ってドアに手をかけたところで、ふと振り返った。
「……あんま、面倒ごとには首を突っ込みすぎるなよ」
その声は、いつになく真面目だった。
何かを察しているのか、それともただの勘か。亮はそれ以上は言わず、廊下の喧騒の中へと消えていった。
亮が出て行ってしばらくしてから、俺は立ち上がる。
教室の空気はすでに昼食に夢中で、クラスメイトたちは思い思いの場所で弁当を広げていた。
その中で、俺の視線は自然と、あの席へ向かう。
黒井環は、まるで空気に溶け込むように自分の席に腰かけていた。
誰とも視線を交わさず、鞄から静かに袋を取り出す。コンビニの透明な袋の中には、小さなサンドウィッチと紙パックのミルクティー。それは、まるで彼女自身の存在を象徴するような簡素で無言の昼食だった。
心臓が、妙にうるさい。
声をかけようと口を開きかけるが、乾いて、うまく音にならなかった。
それでも、何かを押し出すようにして言葉がこぼれる。
「……黒井」
自分でも驚くほど小さな声だった。けれど、彼女はこちらを見た。
深い夜を閉じ込めたような瞳が、音もなく俺を射抜く。
「……何か用ですか」
警戒するような、けれど淡々とした声。まるで感情を表に出すことを拒んでいるかのようだった。
けれど、それでも構わなかった。
「昼、屋上で食べようと思って。……一緒にどうかなって」
環の瞳がわずかに揺れる。戸惑いとも驚きともつかない光が、ほんの一瞬その奥に見えた。
だが、それもすぐに伏し目がちになり、彼女は小さく呟いた。
「……どうして、私に?」
「……なんとなく」
沈黙。
教室の喧騒が、遠い海の波音のように耳の奥で揺れていた。
やがて、黒井は音もなく立ち上がる。
返事はなかった。けれど、昼食を手にして俺の横を通り過ぎていくその足取りが、無言の答えだった。
俺は迷わずその背中を追いかける。
廊下を歩く横顔には、やはり感情の色がなかった。
けれど、それでも――彼女は俺の誘いを拒まなかった。
屋上へと続く階段を登る。足音が互いの呼吸と重なり合い、妙に静かだった。
鍵は、ポケットの中にある。
昨日と同じ。けれど今日のそれは、確かに違う意味を持っていた。
扉の前に立ち、鍵を差し込む。小さな音とともに錠が外れ、軋んだ音を立てて扉が開いた。
風が吹き込む。光が差し込む。
屋上には、ひとつだけ置かれた青いベンチ。そこに、俺たちは1人分の距離を空けて座った。
黒井は袋からサンドウィッチを取り出し、何も言わずに頬張る。
俺も風呂敷を解き、弁当を開いた。唐揚げの匂いが、わずかに風に乗って広がった。
「あのさ」
沈黙を破るように、俺は声をかける。
「今日の化学、難しかったな。あの反応式、どこで間違えたんだか……」
「そうですか」
短く、素っ気ない返答。
けれど、俺はそれでも言葉を継ぐ。
「それ、美味しいよな。黒井も好きなのか?」
「……いえ別に」
会話はまるで濡れた紙のように、触れるたび破れていく。
それでも、俺は手放すことができなかった。
やがて、黒井が食べ終え、包装を静かに丸める。
立ち上がった彼女が呟く。
「用がないなら、戻ります」
その言葉が、鋭く胸に突き刺さった。
心の奥がざらつくように痛み、気づけば俺の手は彼女の袖を掴んでいた。
「待って」
その腕は細く、そして驚くほど冷たかった。
黒井の肩がぴくりと揺れる。彼女はゆっくりと振り返った。
「昨日屋上に来たよな。俺がいなければ、なにしようとしてたんだ?」
風が吹き抜ける。空の青が、遠く高く、どこまでも広がっていた。
環は静かに、けれど確かに言う。
「あなたには関係ありません」
「っ!」
「迷惑なんです」
その一言に、胸の奥で何かが音を立てて崩れた。
袖から手が滑り落ちる。もう、引き止める気力も湧かなかった。
黒井は背を向け、静かに去っていった。
俺はその場に取り残され、風に吹かれながら空を見上げる。
何も伝えられなかった。
あれほど気負っていたくせに、結局、何もできなかった。
黒井を誘う時、ただ、少しでも彼女の背負っている荷がおりればいいと思っていた。
でもそれは、俺の自己満足だったのかもしれない。
「……何やってるんだ、俺は」
小さく呟いて、冷めきった弁当を鞄に戻す。食欲なんて、もう残っていなかった。
階段を下りる途中、踊り場で誰かが壁にもたれていた。
制服のポケットに手を突っ込み、こちらをじっと見ている。
大代だった。
「昼休みに、あんた何してんの」
その声に、俺は立ち止まる。
「……見てたのか」
「まぁね。見てたというより、盗み聞きだけど。黒猫と屋上に向かうアンタを見たやつが何人かいたのよ。すぐ噂になってた。それで気になってここまで来たらあんたらの会話が聞こえてきたってわけ」
俺は言い返せず、黙ったままだった。
今さら、気にしても仕方がない。けれど、やはり胸がざわつく。
大代はため息をつき、壁から背を離さずに言った。
「今日の朝、私言わなかった? 黒猫とは関わるなって」
「……聞いた」
その返答に、大代は鼻で笑った。
「それでも行ったってことは、アンタなりに考えがあったんだろうけど。それで? 結果はどうだったの?」
何も言えなかった。言葉が喉の奥に沈んでいく。
「黒猫との噂は尾鰭がつく前に私の方で鎮火しておいてあげる。だから黒猫とはもう、関わらないで」
そう言い残し、大代は背中を向けて階段を降りていった。
その背中は、どこか冷たく、遠かった。
迷惑なんです。
黒井の言葉が反芻する。
黒井とは関わらないで。
大代の言葉が棘のように絡みつく。
昼休みの終わりを告げるチャイムが校舎中に響き渡る。
俺はその音に押されるように、階段を下り始めた。
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