幸せな黒猫

腐った林檎

第1話

 放課後の屋上は、静かだった。

 夕方の光がフェンス越しに差し込んで、コンクリートの床を金色に染めていく。風が吹くたびに制服の袖がふわりと揺れ、遠くに聞こえる部活動の掛け声も、この場所まで届く頃には風に紛れて輪郭を失っていた。

目を閉じると、まるで世界からひとり取り残されたような感覚になる。


  俺──日向悠ひなたはるかは、学校の屋上に寝転がっていた。

 本来なら立ち入り禁止の場所。でも、今日だけは特別だった。

 ー雑用を頼みたいんだが。

保健室の蒼井あおい先生に鍵を手渡されたのは、昼休み前のこと。

 ──この鍵、本当に屋上の鍵かどうか、確かめてきてほしい。

 なんでも、俺にしか頼めないお願いらしい。

 生徒をなんだと思っているのか。

 蒼井先生は、時々こうして人を振り回す。

 しかし、放課後は予定もなかったし、屋上に一度は行ってみたい願望もあったので俺は快く引き受けることにした。


 「ふぅ、いい風だ」


 風が髪を撫でる。頬を撫で、喉元を抜けて、どこかへ去っていく。

 この時間、この場所。誰もいない静かな場所で風に吹かれてると、色んなものがどうでもよくなってくる。教室のざわめきも、友達の軽口も、明日の宿題すらも。屋上は、日常から切り離された特別な空間だった。


 ──だがそれは、音もなく崩された。


 ギィ、と鉄の扉が軋む音。

 俺は体を起こし、振り返る。


 現れたのは黒髪の少女だった。

 少しだけ大きめの制服のジャケット。

 ストレートの黒い髪が風で揺れる。虚な目に宿るのは焦点の合わない光。無表情で、まるで何かを見ていないかのような。

 見覚えのある娘だった。

 黒井環くろいたまき

 彼女は普段教室で物静かに大人しく本を読んでいるタイプで屋上に来るようなイメージはない娘だった。

 彼女は扉の前で足を止めた。

 目の前の光景を、確認するように見渡す。

 そして、俺の姿を認めると、かすかに目を細めた。


 「……先客がいましたか」


 ポツリと呟いた、彼女の視線は、俺ではなく、その先のフェンスへと向けられている。

わずかに風が吹き、スカートの裾が揺れる。

一歩、前に出る――けれど。


すぐに、その足は止まった。

長いまつげが伏せられ、小さく息を吐く。


 黒井はどこか遠くを見つめ、まるでプログラムされたみたいに口を開いた。


 「失礼しました」


 その声には、温度がなかった。

 心が抜け落ちたような声音。

 それでも、その背中には、何かを抑え込むような張り詰めた気配があった。

 黒井は屋上の扉へと踵を返す。

 そして、来た時と同じように静かに屋上から姿を消した。


「……なんだったんだ」


ぽつりと呟きながら、彼女が見ていた先に視線を移す。

そこにあったのはフェンス。

その先は、夕焼けに染まる空。

何もない。

だけど、胸の奥が冷たいものに撫でられたようにざわめいた。


──もしかして、あいつ、

ここで何かを──


ぶるり、と身体が震える。

風が吹いたわけじゃない。

ただ嫌な直感が肌を撫で付けていた。


 

 その日の夜。


俺はスプーンを握ったまま、カレーの香りだけがぼんやりと残るリビングで固まっていた。籠るように灯るペンダントライトの下、妹の静かな息づかいだけが、空間の静寂を破る。

 頭の中で反復するのは屋上のフェンス越しに揺れていた夕焼け――そして、あの虚ろな瞳。


 「なにぼーとしてんの。早く食べないとカレー冷めちゃうよ」


 妹ーーみおの声に、俺ははっとして現実へと引き戻される。


 「ああ、悪い。ちょっと考え事してた」


 スプーンを握りなおし、カレーを口に運ぶ。

 今日も変わらず妹の料理は美味しい。

 けれど、どこか遠くにある味のように感じた。


 「どう、美味しい? 美味い?」

 

 「それどっちも意味おなじだろ」


 俺が突っ込むと妹は、それもそうだねと笑う。

 静かなリビングには俺たちの会話だけが響く。


 「母さんは今日も遅番か。俺と澪で分担して......もう慣れたな」


 「まぁ、小学生の時からだもんねー。長年やってれば板につくよねー」


 そう。もう慣れた事だった。

 俺達には父さんがいない。

 母さんと父さんは俺が幼い頃に別れた。  

 理由は詳しく聞いていない。

 そう言えば。

 ふと、アイツの事を思い出す。

 風で揺れる黒髪の彼女の事を。

 噂で耳にはしていた。

 彼女も母子家庭で、そして1人っ子だったと。


 「また、ぼーとしてるよ」


 今度は少し呆れた声。また意識が遠くにいっていたようだ。

 

  「悪い……ちゃんと食べるよ」


 「もう。冷めたらカレーの味が落ちるからね。折角ルーから作ったって言うのに」


 えっへんと胸をはる澪に俺は内心ため息をつく。

 澪が夕飯を作ると、必ず凝った味になる。

 市販の調味液を使わないせいで。

 学校から帰って疲れているだろうに、よくやるよ。

 ある意味尊敬する。


 「お前、なんでいちいち凝るんだよ」


 「そんなん愛情がより伝わるからに決まってんじゃん! ほらわかるでしょカレーを通して私からお兄ちゃんへの愛がーー」


 まるで舞台女優のように身振り手振りで愛を語る澪に、思わず苦笑がもれた。


 「あーうんそうだね。愛情がこもってて澪ちゃんのカレーはおいしいなー」


 「うわーなんかムカつく」


 澪は溜め息をつくと、それでと前置きし、じっと俺を見つめる。


 「なんかあったの?」


 その一言に胸の奥がずきりとした。

 ごまかすようにカレーをひと口すくったが、もう味がわからなかった。

 澪はふざけた態度を取りつつも、肝心なところではいつも鋭い。

 それともこれも愛情とやらの成せる技なのだろうか。

 俺は今、揺れていた。

 放課後の事を澪に相談するべきか。

 少し迷って、でも結局口が勝手に動いていた。

 きっと俺は否定してもらいたかったんだ。嫌な予感は俺の気にしすぎで、そんな事はないと。

 全ては俺の思い違いだと。

 俺は放課後の事を澪に全て話した。虚な瞳。正気のない声。彼女の名前は伏せて、それ以外の全てを。

 話し終えると、澪はしばらく何も言わなかった。

 静かに立ち上がりポツリと

 「アイス」と呟くと、冷蔵庫へと向かう。


 「兄貴も食べる?」


 「いや、俺はあとでいい」


 「ふーん。そう」


 静かな空間に重々しい空気が沈殿する。

 冷蔵庫の扉を閉める音が嫌に大きかった。

 

 「私も兄貴と同じ考えだよ」


 澪はそう言って席に戻ってくる。

 けれど、その「同じ考え」がどういう意味かまでは言わなかった。


 「そうか」


 深くは追求しない。澪も俺と同じ考えで、それ以上はもう聞きたくなかった。


「……それで、どうするの?」


 カップアイスの蓋を外しながら、澪が問う。


 「助けたいと思う? それとも、関わらないでおく?」


 返事はできなかった。

 助けたい気持ちがないわけじゃない。

 でも、俺に何ができる? それで何かが変わるのか?

 こんな思いで助けたって中途半端に終わるだけだ。

 いやむしろ、余計に彼女を傷つける事になってしまうかもしれない。


「……わかんねぇよ」


それが、今の俺の精一杯だった。


澪は、少しだけ笑ってアイスをすくう。


「そういうときはさ、悩めばいいと思うよ。無理して答え出すことないじゃん。私はどんな答えを出してもお兄ちゃんを応援するからさ」


その言葉に、少しだけ心が軽くなった気がした。

でも、それでも――

結論を出せないままの自分が、情けなくて、苦しかった。

スプーンの先のカレーは、すっかり冷めていた。


 

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