第4話 宝物

 俺は混乱していた。決して、彼女を怖がらせるためにここへ連れてきたわけじゃない。ただ……出口の見えない地獄から、どうしても救い出したかった。それだけなんだ。


そのとき、不意にピアノの旋律メロディが脳裏をよぎった。



そうだ……俺は、弾けたんだ。


 指先と記憶に甦る、あの感覚。胸の奥で鼓動がとくん、と高鳴る。

あの夏の日の放課後――音楽室に響く蝉の声。効きの悪い冷房も、中間テストの赤点も、何ひとつ気にならなかった。


二人きりの音楽室。ただ彼女といられる、それだけで幸せだった。


グランドピアノの前に腰を下ろし、そっと鍵盤に指を伸ばす。


――ショパンの夜想曲ノクターン


「ねぇ、泣かないで。君の好きだった、あの曲を弾いてあげる」


「……榊くん?」


 それは、職員室を出たとき、誰もいない音楽室から聞こえてきた、あの旋律と同じだった。

 たまえの表情が、ゆっくりと強ばっていく。


「なんで……弾けるの……?」


「だって、あの夏の日、俺がこの曲を弾いたとき、君は“好き”って言ってくれたから」


―― でもね、その曲よりも、もっともっと大切なものが、私にはあるの ――


 あの夏の音楽室。あの一瞬の、幸福な記憶だけは、今も胸に焼きついて離れない。


 俺はゆっくりと立ち上がり、グランドピアノの前を離れる。

 近づいていく俺を見つめるたまえの顔が、みるみるうちに青ざめていった。


「やだ……来ないで。お願い、来ないで……」


 後ずさる彼女の姿が、どこか切なく映る。

 俺がずっと探し続けていたに、彼女はよく似ていた。


 そして俺は ――あの時と同じように、優しく、そっと彼女の体を抱き寄せた。



 でも、後悔してるんだ。あの時、炎が階段を駆け上がってきた時に、俺は彼女の手を離してしまったから。


「大丈夫、もう、何があってもこの手は絶対に離さない。君は俺が守るんだ。どんなに体が……」


 や・け・た・だ・れ・て・も


 力をこめて、俺はたまえを抱きしめる。


「ぐえぇぇ……」


 黒い瞳に色がなくなり、白濁した目玉が飛び出した。どろりと溶けた血の塊が俺の胸から、ずり落ちた。

 けれども、決して手は離さないんだ。俺の手までが、ずるずると溶けて、堪らない熱さが顔の上までせりあがってきた。

 足元にできた血だまりは、赤くて熱い。血なのだか炎なのか、ぐちゃぐちゃに溶けた二人の体の境目はすでになく、俺たちはただの燃える肉の塊になった。

 

 ――そうだ。音楽室の大鏡……早く、この悪夢を終わらせなければ。

  その時、鏡に映しだされた醜い姿に、俺は驚愕した。


 俺は叫び声をあげた。


 違うんだ! 


 俺の守りたかったモノはこんな醜くくて、悔恨まみれの肉じゃない!


 あの夏の日のあの一瞬が、俺にとっての宝物だったのに……。



*  *



 音楽室からの不協和音の夜想曲ノクターン。その直後に北校舎中に轟いた少女の悲鳴。

 図書室で、固唾を呑みこむように榊とたまえの帰りを待っていた私は、机にうつ伏したまま、アルバムのページをめくっている東の腕を強引に引っ張った。


「東っ、立って! あんた、この非常時に何やってんの。こんな場所に居続けたら、間引かれてしまうよ! ここを出て職員室へ行こう! 榊くんがどうして、そんなことを言ったかは分からないけど、それしか逃げる方法が思い浮かばない」


 手を引いても、東は怯えた様子で机にしがみついている。そして、見ているアルバムのページを指差し、独り言のように呟いている。


「みさ…き、みさき……」

「みさき? 三崎って、たまえちゃんのこと」


 どうやっても動こうとしない東に誘導されるように、私は、古いアルバムの1ページを見た。


「何、これ? どうして、32年前のアルバムに、たまえちゃんが写ってるの!?」


 訝しがりながら、懐中電灯の灯をその写真に近づける。


たちばば由加里ゆかり……違うわ。でも、この子って、たまえちゃんにそっくりだ。1990年、夏。3年2組……って、確か、このクラスのほとんどが火事で亡くなっているはず……ってことは、この橘さんも、火事の犠牲者?」


 私の脳裏にとても不吉な想いがよぎる。……その時、ふと、アルバムの橘由加里の二つ隣にいた男子生徒の写真が目に留まった。


「……なんで……よ」


 そっくりという言葉は、震える口元でかき消された。まるで同じだっただからだ。その写真が彼と……。


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