第15話 え?

 対面——いや、前回までのあらすじ。

 私はまたあの商人……書面上では「ニスト」と描かれた青年の名を、何故か今になって思い出す。

 なぜか。

 喉を震わせてしまった。

りょう?」


 呼ばれた彼が目を震わせる。

 本当の名前を呼ばれたかのように。

 絶対に、そう呼ばれる筈が無いと。

「……彼と出会ったことがあるのか?」

 グレイスの言葉も返せない。

 ただ、頭の中が知らない記憶で満たされていく。

 朝食を用意して、共に食べていたような……、そんな、記憶だ。


「私は——エウレカ、なのか?」

 あの言葉を口にした瞬間、自分の内側で背中が軋んだ気がした。

 はい、あらすじ終わり。



 互いに異なる感情を示す。その時だけ嘘をつくのが下手だったのだろう。ニストは笑みを作って、私は私を問い直そうとして、取り繕うのに必死だった。

「そう言えるなら、お前さんはマズルカのままだ」

 ライフルの重みを感じているはずの背中が、他人のように感じる。

 談話室の窓から伸びた陽が、影を伸ばしていく。

「まるでこの身体が私のものじゃねえみてえに言って、お前は何を知ってるんだよ……!」

 硬く握った腕をつかまれる。

「落ち着こう、マズルカ」


 グレイスに促されて距離を取る。

「少し変だ」

「あいつが——」

「いや、お前も変だ。マズルカ」

 コーヒーの匂いがふわりと鼻を通ったので、思わず彼の肩を掴んだ。

「何だよ、ちょっと退いてくれ。あいつは彼女より——私を育ててくれたシスターより、詳しすぎる。知りすぎてる」


 商人が口を開く。

「あの教会は本当にお前さんが居た時に燃えたのか?」


 悪魔のようにハッキリと、軋んだ背中にヒビを入れるように。

「全焼したなら、絶対に新聞やラジオに残るはずだ」

……まるで、既に燃えていたような口ぶりじゃないか。

「熱く」燃えていたあの日は、ずっと前にあったのか?

 思わずグレイスの方に視線を向ける。言葉を発せられるより先に、俯く彼の顔に見開いた。


「——実は、何で子供達が止めないんだろうなって思ってたんだ。アダージュが教会から逃げて戻ってくるのも、火事について話題が無いのも、シスターの名前が出てこないのも……」

「……マズルカ」

 弾切れのライフルを抱えて抱きしめる。

 煙の匂いや崩れた建物の形なんて、引き金を引けば皆同じだった。


 入れ替わるだけ。

 記憶も、

 どこかで。


「良いんだ。もう、無いんだろ?」

 二酸化炭素だらけの部屋に背を向けて歩く。

 一度、深呼吸がしたくなった。

「俺はエウレカの事しか知らない。きっと俺は出られないからさ……まぁ、また待ってるぜ、お客さん」



 何の目的もなく散歩がしたくなった。

 契約違反かもしれない。もうそれでも良い、まいにちを壊わさず、一輪の花を買って。

 ベンチに着いて。

 はぁ。


 風の冷たさが分かってきた。

「……じゃあ、シスターは誰だったんだよ」



 私を育ててくれた彼女が嘘なら、当時の私の気持ちも、嘘だったのか?

「——お兄さん髪長いね、お酒飲む?」

 見知らぬ女性に見下ろされ、ゆっくりと手を引かれた。

 いや、普通に疲れていたのかもしれない。

「っしゃいませー」


 眩しい部屋の中で騒がしく飲み物に炭酸の沸く飲み物を——酒を、ついでいる。

 飲むのは初めてだ。年齢は……分からなくとも、運転はしない。

「かんぱーい」

 知らない人と知らない飲み物を口に含む。

 舌の上がピリピリと、のたうち回っては美味しいのか分からなかった。

 ただ、ただ……。

 なにも考えなくても、いい。

 たぶん。

「ちょっと、無茶はしないでよ?」

 …………。

 う……。


「うあ……」

 暗い路地に身を預けるマズルカ。

 星空の一つが頭上を公転でもしていそうな視界に、ゼウスが槌を叩くような頭痛。

 痺れが広がる舌。

 口の中に、何か入れられてるような。

「…………っ?」

 水にしては重い。酒でもない。

 魚でもないから、肉だろうか。

 でも、何故か噛みたくない。

 不快感も、そこまで。


「——リンゴの味がするねぇ」

 女性が私を見下ろしてくる。二度目だ。

 ただ、頭が回らない。

「マズルカ」

……そうだ。これは頭の中に居るシスターの声だ。

 私が極端に悪い事をした時に咎めてくる……。

「ははっ……」

「マズルカ、君は酒に弱いのかい?」

 あれ。

「悪い事」ってが決めたんだ?


「上司命令だよ——タイムカードは切ったよねぇ。カフェに帰って眠ろう」

 バリスタの声掛けに反して、今まで生きた中で一番はっきりと鮮明に。

 私が「入れ替わる」対象を捉えていた。


「——Eureka見つけた

 聖女のように優しくて、ずっと見守っていた彼女。

 腕は棒のように細い。何でも受け入れてくれるような、そんな人。


 問題は彼女が誰であるか。

……いいや。

 彼女にどんな感情を抱いていたか。


 アダージュも、ニストも、グレイスもバリスタも私も。

 知らない相手の「姿」ばかりを考えすぎていたんだ。

 ただ一人、絶対に姿を知っている「開祖殺し」だけが。


——そうか、何も覚えていないのか。

 ソレノイドが。

 悲しい顔をしていた。

 無知なりに解ろうとするなら、私の顔を見て「生きている」と悟った表情だろうか。

 なら、私は。

 彼女の心を信じてみたい。

 この喉を、体を使わせてみたい。


「マズルカ——じゃ、無さそうだねぇ」

「……まさか、魔法も無しに『我』を呼び出すとは」

「思ってもいなかったかい?」

「勿論!」

 魔法の開祖は指を鳴らした。

 

 

 

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