第二楽章
第9話 誰と言われましても
起床——いや、前回までのあらすじ。
マズルカの過去を知る神父・アダージュの引き起こした事件は、マズルカ一人の被害者だけで済んだ。水道管の破裂として処理され、今頃は神父が取り調べを受けているだろう。
はい、あらすじ終わり。……自分の心配でもするか。
「マズルカ、これはどういう事だ」
〈Who are you?〉と書いた英語ノートの下に、掠れた黒点。
罫線に並ぶような配置で、筆圧も弱い。
「……何それ、ゴミ?」
「どう見ても音符にしか見えるが」
二人のやり取りを見て、バリスタが鼻を鳴らした。
「いやぁ、面白いねぇ」
「音符なんて知らねぇよ」
彼女は頬杖をつく私から、グレイスに目を向ける。
「君さ、前に魔法常識の本貸したの、忘れてないよねぇ?」
彼女は眉を上げ、人差し指でカツカツと音を鳴らす。その音を聞いた彼はカウンターで料理を作り始めた。「次は五目いなりを二ダース作らせるよ」と言った彼女の声が冗談に聞こえない。
「まぁいいや、丁度いいから魔法常識の話でもしようかねぇ」
「おう……」
バリスタは音符に指を滑らせて、
「結論から言うと、コレは『最初の人工言語』だよ」
(この点で会話するのか⁉︎)と思うも、点字の仲間と思えば納得できる。
「ちなみに、音符として読むと『ドレ、ドソ、レミ』になるよ」
「じゃあ、私らにも分かる言葉に直したら、なんて意味になるんだ?」
何かが這い上がって背中に触れるような感覚に襲われる。
「——『I am you』」
「……‼︎」
理解より先に、本能に訴えかけている気がして、触れてはいけないものに手を突っ込んでいる気がして。
「頭じゃなくて、身体で理解しちまったよ……」
「もしかしたら、魔法の開祖が人間では無いのかもねぇ」
グレイスがモーニングセットを持ち寄り、私達の前に置く。
満足そうに食べる様子を見下ろし、私に視線を向けた。
「……精密検査をしないか?」
「…………注射、無ぇよな?」
「それは、否定出来ないな」
瞬時に出口のドアノブを掴もうとする私を、必死に彼が止めてくる。
即死レベルの痛みを受けるよりは楽かもしれないが、痛いものは痛い。
「嫌だ普通に嫌に決まってんだろ、助けてくれシスターッ‼︎」
無力にも席に取り押さえられ、取調室の時よりも生気を失う。
それでも、バリスタはひらひらと手を振るだけ。
「腹が決まったら地下倉庫に来な。痛いようにはしないからねぇ」
「よーし、腹括るか……」
ちょっとした四畳半程度の地下倉庫。踏み出す足が重い気がしたが、実際に入ると、生活感のある茶の間が目に入った。
畳に似た織りの敷物、湯気の立つ急須、ふかふかの座布団。蛍光灯ではなく、壁際に置かれた小さなランプが、部屋の隅をやわらかく照らしている。倉庫とは名ばかりの、茶室らしい風情を感じられる。
「なにその顔。警戒されるのには慣れてるけどさぁ」
いつもの背丈、いつもの言動。明らかに違う黒い毛並みで、じっと覗く青い瞳。
光の加減で感情の読めない姿が、かえって人間らしい。
「可愛——いや、油断ならねぇな」
「狐だからねぇ、騙すかもねぇ」と彼女が言う割には、濁りや異臭のしない煎茶を渡された。
「……いただきます」
舌が火傷しない程度の暖かさに、渋みが広がる。薄い眠気に誘われ、湯に沈むような温かい感覚。この身を預けられそうな自由に意識が遠く、薄く引き延ばされた。
「思ったより普通のお茶だな」
「私も気に入ってるからねぇ、口に合って良かったよ」
彼女も急須から注いだ物を口に付け、ふっと息を吐く。
「美味しいねぇ——あ、良かったら茶葉をお裾分けするよ。仲のいい友人もお気に召すかもねぇ」
「友人よりも……シスターの方が気に入るかもな」
色褪せた記憶が滲む。幾ら祈っても彼女が生き返ることも、本を読んでくれる事も無い。
「シスターって人が大事なんだねぇ」
「そりゃ、空腹で倒れそうな私を助けて、字の読み方や魔法の使い方を教えてくれて……」
でも、彼女は教会の下で亡くなった。頭を掻きむしって罵声を浴びせる人が火をつけ、石の壁と形式だけの長椅子が今日まで残る。
「……辛かったねぇ」
「でも彼女は今際の際で満足した顔をしていた」
「そりゃマズルカが怪我無くて良——」
「まただ、私は何も出来なかったのに彼女は、彼女が、満足した顔で死んで……」
つ、と涙が湯呑みに落ちる。
バリスタが、こぼれ落ちるように「また?」と一言。
「笑ってたんだよ、そいつは私より今にも死にそうな状態でさ。あいつ今、何やってんだろうな——」
プツリと体の緊張が解け、マズルカはふわふわの身体に身を預ける。
「おっと……効きすぎたかねぇ」
バリスタは彼の涙を拭い、そっと頭を撫でた。
「——マズルカ、マズルカ。 検査が終わったよ」
ふわふわな尻尾が顔を撫でてくる。
「ん……」
カフェのテーブル席だろうか。窓から鈍い夕陽が伸びており、営業時間を過ぎる程眠っていた自分に驚く。
「案外、痛くなかったな」
「寝てる間に色々調べさせてもらったけどねぇ……あぁそうだ。買い出し頼んでも良いかい?」
サンドイッチの材料やペンのインクが記されたメモ。割と普通だが、都心部に行かないと買えないものばかりだ。
「まぁ……分かった。行ってくる」
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