星と緞帳

愛徳師七

わたしの星

「最後のくちづけはいりませんわ。あの日、あのときを、わたくし一生わすれませんから」


 その台詞がフィルムの最後だったようだ。古ぼけたエンドロールをじっと、睨むように見つめる。華々しくばら色に包まれたロマンス・ムービーに対して、これほどまでに感動を覚えなかったのは、きっと今回の観覧がはじめてだろう。

 大学二年生になった白河瑠生〈しらかわ・るい〉は演じることをすっかり諦めていた。けれども女優を志したその心は簡単には変化してくれず、彼女は創作物になりたいと希死念慮のような想いをいつしか抱えるようになった。

 創作物になれば自身の身体は勝手に演じることをするのだから、要するに彼女は今ある気持ちを手放して、ついでに夢も叶えてしまって楽になりたかったのだ。

 瑠生は劇場をあとにする道中、ボストンバッグを手にしたブロンドヘアの少女が描かれたポスターを前に最後の台詞を思い出す。


「あの日、あのときを……」


 そこまで口に出してやめた。自分は女優でも、そのなり損ないでも、創作物でもない。ただの落ちこぼれた元演劇部の部長。夢も理想もあの日にとうに落としてきてしまった。

 ポスターを保護するケースに反射した自分の、ひどくやつれた醜さといったらなかった。



 それはとつぜんのことだった。


「まあ、当然のことといえば、そうなのだけど……」


 遠ヶ峰高等学校の演劇部は年々人数を減らしていき、今年の代はついに新入生がひとりも入ってこなかった。それがわかっていたから、三人のみの部員はチラシ配りも勧誘もしなかった。


「どうせ散るなら、わたしたちで散りましょう。……ですか」

「あ、それ、この前演った『洋館墓場物語』じゃない。うまいわね」

「えへへ」


 二年生の部員である灰戸百花〈はいど・ももか〉が以前の舞台の台詞をつぶやくと、部長の瑠生がほほえんだ。しかし机の対極には険しい表情の、百花の双子の弟が静かに座っていた。


「うまい、じゃありません。廃部するのですよ、この演劇部は。歴代の先輩がたの功績を残せず、僕らは散る! 部長はなんとも思わないのですか、姉さんも」


 彼――千里〈せんり〉は古い机をだんと叩き、立ち上がった。パイプ椅子が勢いよく下がり、がたんと大きな音を立てて倒れる。百花はびくっと肩を震わせ怯えた。

 この演劇部は、廃部するのだ。

 新入生の入部が見込めないこと、瑠生が卒業すればいよいよ二人になること。遠ヶ峰高等学校がカントリーサイドの学校であるのも災いしたかもしれないが、千里はそのような考えは持っていなかった。部長である瑠生のかんたんな諦めを許せなかった。


「せ、千里! 怒鳴ること、ないじゃないですか。あの、わたし、見つけたんです」

「見つけた? なにをですか」


 百花がキーホルダーひとつない、飾り気のないスマートフォンを机に置いた。瑠生は千里の激怒にも慣れているようで、落ち着いたようすで画面を覗き込む。千里もため息をひとつついて、画面を見た。それから息をのんだ。


「全国高校ショートフィルム……コンペティション?」

「そう、です! これで入賞すれば、きっと……」


 「廃部を回避できるかもしれない、と?」千里は家族にも厳しかった。ぎろりとブルーの瞳を冷や汗をかく百花に向け、つづいて部長である瑠生のほうを向いた。


「そんなかんたんなことじゃない、そう言いたいのでしょう? 千里。でも、わたしは賛成するわ、部長として。百花、よく見つけてきてくれたわね」


 なにもしないよりずっといいと瑠生は思った。過度に緊張する百花の背を撫でる。


「……わかりました」


 千里はふたりを睨みつけるのをやめ、その意見に従うことにした。

 千里は演技の技術こそふたりより優れていたが、彼女たちを見下しているというわけではない。ただ単に超現実主義で、やや浮かれ気味のふたりとは馬が合わないのだ。


「脚本はわたしが書くわ。六月末には提出だから、期限は一ヶ月……」

「ええと、部長も演者ですよね?」

「いいえ。わたしは脚本と、それと演出。演じるのはあなたたちふたりのほうがいい。だって――」


 瑠生はそれ以上を紡げず、はくと息を魚のようにうまく扱えずに黙りこんだ。

 だって――だって、あなたたちのほうが、うまいじゃない――そう発言するのは、場の空気うんぬん問わず、自分が傷つく気がして怖かった。だから黙ってしまったのだ。


「とにかく! あしたの夜には脚本を送るわ。カメラもわたしがやる。まだこれ使えたわよね」


 瑠生はやたらと早口でまくし立てた。部室のわきにある棚にはいくつかの機材が揃っており、ものは古いがまだ動くようだった。

 今日はテスト期間のさいご、終わりだった。早帰りをうながすチャイムが鳴り、反響はやがて気味の悪い不協和音となる。


 廃部を告げられた二日後、瑠生はついにショートフィルム用に脚本を書き上げた。これが三人でつくる最後の物語かもしれないと、つい意気込んでしまった彼女の目の下には隈があった。いつものポニーテールもどこか乱れている気がする。


「ロマンスですか。部長にしては珍しい」

「ふふ、そうかも。舞台じゃなくてせっかく撮影するものだから、遠ヶ峰の風景も活かしたくて……あなたにはちょっと、ありきたりかしら」

「いえ。部長の書いたものを否定する権利も、つもりもありません」


 さっそく彼らは学校に外出許可を得て、田畑のひろがる地に降り立った。相変わらず千里の感情は読めなかったが、緊張した面持ちの百花とふたりで橋の上に立たせた。揺れる百花のスカート、きょうだいで同じ色味をした黒髪。

 瑠生はカメラ越しにふたりのようすを確認していた。台詞覚えも早く、橋の上では彼らはきょうだいではなく恋人へすっかり変わっていた。


「(……ああ)」


 微笑ましく演じるふたりに、瑠生は瞳の奥がぐるぐると渦巻く気がした。カメラだけは揺らしてはいけないと理性を保ったが、胸が締まる気分だった。

 場所を変え、タイムスケジュールどおりに撮影は進んでいく。


「部長?」


 移動中、百花がふと振り返った。


「どうしたの」


 瑠生は時折うつむいてデータを確認しながら、いつもどおり、すてきな部長として振る舞ってみせた。みせた――はずだった。


「顔色が悪いですよ。すこし休みましょう、夕暮れのシーンも撮れたことですし」


 千里までもが心配しはじめた。たしかに、夜なべをして脚本を仕上げ、カメラの動作確認に当日中の撮影――コマが早送りされるように瑠生は忙しなく動いていた。

 そう思うことで、自身の感情、本心からはすっかり逃げていた。


「部長は、これが最後の作品づくりだと思いますか」

「……そうならないことを願って、この脚本に思いを込めたわ。わたし、あなたたちが思ってるよりずっと、あなたたちのこと好きなのよ」


 河川敷に三人で座る。吹きこむ風の香りには夏の気配がしたが、それでもまだ涼しかった。

 百花はふと寂しそうに瑠生に訊ねた。百花はいつだって姉らしくない、甘えるような素振りを見せてくる。役者になれば魔女であれ悪魔であれなんだってなったが、瑠生にとっての彼女はいつだってそうだった。

 千里はずっと、河川敷のまた向こうを見つめていた。遠ヶ峰から出たことのない彼らに、ずっと続いているあの山々は憧れだった。


「僕らも」


 千里が、ぽつりと口をひらく。


「僕たちも、部長を尊敬しています。入部したときからずっと」


 まっすぐなまなざし、尊敬という言葉が、瑠生にはひどく重たく聞こえて、抑えていたつもりのいやな汗がどっと出てきた。


「……わたし、そんな優れたやつじゃないわ」


 自嘲的に言うと、瑠生は真っ先に立ち上がった。


「さあ、ラストシーンに移るわよ」


 後輩たちの不思議そうな目線は無視し、立ち位置と歩き方を指示した。ぐるぐる、ぐるぐる。もはやカメラを片手では抱えられなかった。

 もうふたりの演技は見たくなかった。名ばかりの部長である自分と、液晶越しに展開されるうつくしきロマンス。ああ、わたしはあれに成れない! 瑠生は叫びたくなった。


 やがて日は暮れ、夜の海で百花が独白するシーンの撮影に入った。


「〈わたし、あのひとを忘れたくない――たとえ、海の泡になってしまっても!〉」


 百花は普段のおどおどしたようすをすっかり捨てて、ロマンス・ムービーのヒロインへ変貌していた。そうしてその細い脚はばしゃばしゃと音を立てて海に入っていく。

 そのすべてが、うつくしかった。そのすべてが、瑠生を苦しませた。百花も千里も、単なる部活選びで入ってきた部員だったにもかかわらず、たいへん優れた役者だった。

 女優を志してきた、自分なんかよりも。


「――お疲れ様。これで撮影はおわり」


 その日の記憶は、ほとんど瑠生には残っていなかった。しかしカメラには鮮明に、後輩たちの魂をかけた芝居が残されていた。


「白河。コンペの進捗はどう?」


 六月はじめの頃のゆううつな雨は、瑠生のひどく積もった劣等感を洗い流してはくれなかった。顧問の――といっても掛け持ちで、ほぼ演劇部には来ない――網谷〈あみや〉が、部室の机で編集作業をする瑠生に声をかける。


「よゆうをもって間に合いそうです。百花も千里もすごいんですよ、編集してて見入っちゃうくらい……はは……」

「そうか。でもこれは灰戸きょうだいの作品じゃない。白河も含めた君たちの作品だ――そんな、暗い顔をするな」


 愛想笑いがよくなかったのか、網谷は深刻そうに告げて、そうして他の部活を見るために去っていった。演劇部、三人の作品。そこに、自分がいる必要はあったのか。

 あの撮影から――いや、きょうだいと出会ってから。いつだってそうだった。


「わたしだって……演じたい、舞台に立って、あの子たちに負けないくらい。でも、無理なのよ――わたしには、才能がない!」


 ひとりぼっちの部室、窓からそそぐ雨の音は、やさしく瑠生の涙を隠してくれた。


「結果、とどきましたね……どうでしたか」


 時は過ぎ、初夏。おのおのが久しぶりに部室にくると、コンペティションの運営から遠ヶ峰高等学校あてにメールが届いていた。


「ええ、入賞よ。銀賞ですって」

「一位ではないですが……でも、全国で、銀賞? これなら学校も認めてくれるのではないですか」

「部長、もっと驚いてくださいよ! ええ、すごい! わたしたちの作品、ですよ!」


 瑠生はやけに冷めた顔をしていた。

 きょうだいがひとしきりはしゃいだあと、瑠生がなにも言わないものだからふたりは同じようにゆっくりと黙っていった。


「あなたたちが素敵なお芝居をしてくれたからよ。ありがとう」

「そんな! 先輩の脚本、演出とか……先輩のお力あってこそです!」


 百花がセミロングの髪を揺らしてまで訴えかけても、瑠生は窓辺で冷めた笑みを浮かべているだけだった。


「学校からも、演劇部は存続していいって。あなたたちが遠ヶ峰の演劇部を引っ張っていくのよ」

「部長、ずいぶん先のお話をされ……」

「わたしもう、辞めるの」


 ひやっと、部室の空気が凍りつくように冷めたような感覚がした。百花も千里もそろって「え……」と声を漏らし、目を見開いた。


「星だったのよ、あなたたちは、わたしの憧れだった! ……演劇、芝居。もうぜんぶやめるの。ごめんね、あなたたちが尊敬できるほど、わたしは優れたやつじゃない」


 瑠生は堰を切ったように本心を吐き出した。そこでようやく顔に貼り付けた仮面が外れた。百花も千里も、彼女の劣等感をわかってやることはできなかった――優れた人間には、とうてい理解し得ない感情だからだ。


「さようなら、わたしの星」


 白河瑠生のそれからのゆくえは、百花も千里も知らなかった。そもそも上の学年と関わるのは部活でしか起こり得ないことで、とくだん噂になるようなひとでもないから、知らなかった。

 そうしてあっという間に学年が上がった。からっぽの部室にはきょうだいだけがいて、瑠生は卒業した。卒業式にも彼女は部室には来てくれず、あの日が本当の別れとなってしまった。



 瑠生は帰りの電車で、あのきょうだいのことを思い出していた。ちょうどコンペティションに出したのも、ああいったばら色をしたロマンスだった。

 思い出しても仕方ないこと、なのに。


「〈あの星に、わたしは届くのかしら〉」


 最寄りの駅に降り、すこし歩いた先の誰もいない広場で今日観た映画の台詞をつぶやく。だれも返事はしてくれなかった。

 さようなら、わたしの星。

 あの日、あのときを、白河瑠生は忘れられずに生きるのだろう。

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