あの日のチーズケーキ

ヨリ

あの日のチーズケーキ

 今日も1日が終わった。会社での何一つ変わりないただの業務が終わった。


「今から帰る」


 家で俺の帰りを待っている妻に連絡を送る。明日からは連休に入る。そう思うと足が軽く感じた。


「お疲れさまです~」


 1人また1人と顔に疲労を貼り付けながらもどこか嬉しそうに帰って行く。それぞれの日常に帰って行くその心の中は、どこに旅立っているのだろうか。


「先輩! お疲れさまです」


 なぜか俺になついている後輩が声をかけてくる。


「お疲れさま。どうした?」


 めんどくさい。心のどこかでそう感じてしまう。しかし、こんな無愛想な俺にも声をかけてくれるなんてどこか嬉しく感じる。


「明日から連休ですし、この後飲みに行かないですか?」


 目を輝かせながら嬉しそうに俺の目を見つめている。もしも、尻尾があるならぶんぶんと揺れているだろう。こんな俺を飲みに誘うなんて物好きなやつだ。


「申し訳ないな。今日は、帰る」

「そんな……。どうしてもですか?」


 何がそんなに彼を駆り立てるのだろうか。でも、ダメなものはダメだ。


「明日から家族旅行に行くからな。申し訳ない」


 朝寝坊したら娘に何を言われるか。考えるだけでも億劫だ。


「そうですか……。じゃあ、連休明けに行きましょう! 絶対ですよ!」


 しゅんとしたかと思うと再び、尻尾の幻覚が見える。なんだこの不思議な生物は。まあいい。ここで足止めをされている場合じゃない。


「わかった。じゃあ、俺は帰るからな。お疲れさま」

「お疲れさまです! 旅行楽しんでください」


 おまえが旅行に行くわけじゃないのに何でそんなに嬉しそうなんだ。でも、悪い気はしないな。


 会社を出ると少し肌寒い空気が仕事の熱を奪っていく。すっかりと夜になって静かな街の顔は、アルコールの香りと共に変化をしていた。

 靴にバネでも入ったように次々と足が進む。10分いつもよりも2分早く駅についた。が、ホームに降りると丁度電車が出て行った。


「まじかよ……」


 連休前夜なのに本当についてない。

「全品半額!」

 駅の隅にある小さなケーキ屋に張り紙がしてある。いつもは気にもとめないそのケーキ屋が気になった。香ばしく焼き上げられたチーズケーキが、連れて帰って欲しそうに俺を見つめていた。


「チーズケーキ1つ」

「ありがとうございます」


 店員が1つだけ売れ残っていたホールのチーズケーキを箱に詰めていく。


「お時間は?」

「20分程」

「では、保冷剤付けておきますね」


 素早く丁寧に店員が持ち帰り用の袋に入れてくれる。お金を払い、店を後にする。娘は喜んでくれるだろうか。電車の乗り場の列に加わる。皆、夢中でスマホを触っている。仕事終わりの人の顔を見るのが好きだ。俺と同じように皆、疲労を家に連れて帰っている。他人の疲労を見ると自分はマシだと言い聞かせることができる。しかも、今日はチーズケーキという甘く濃厚な仲間が左手にぶら下がっている。「明日は、楽しみだね」ケーキの重みが俺に語りかける。


 電車が、ホームに滑り込んでくる。決まった場所で停まり、人々を次々と迎え入れる。嬉しそうに高校生が連休の予定を話している。塾帰りなのだろうか。彼らの顔にもどこか疲労が潜んでいる。若者が疲れるのに、俺が疲れるのももっともだな。扉が開く度に外の冷気と共に人々が出入りする。後1駅で最寄りの駅に着く。


 明日は、車で家族3人遠出する。物好きなもので娘は城を観に行きたいらしい。誰に似たのか歴史が好きで良く熱く語ってくれる。よくそんなに知っているものだと、感心しながらいつも黙って聞いている。


「じゃあ、また明日な!」


 高校生が電車を足早に降りていく。俺もここで降りなければならない。静かに人々が改札に向かって進んでいく。改札も機械的な音と共に人々を吐き出していく。蜘蛛の子を散らすように人々はバラバラに駅から離れていく。俺は、駅からすぐの坂道を登れば、家に着く。坂道は、良い。勝手に視線が上を向く。落ち込むなと道がはげましてくれるような気がする。


 一つ明るく星が輝いている。他の星よりも鋭く明るく輝いている。あれは、どうやら木星らしい。木星が肉眼で見えるとは思っていなかった。最初は、UFOでも飛んでいるのかと不信に思った。後輩に相談したら、笑いながら教えてくれた。木星を見るといつも後輩を思い出す。


 近くには、牡羊座が見える。俺の誕生日の12星座だから、牡羊座は好きだ。この季節は、この道が本当に好きだ。明るく心を照らしてくれる。心の疲労に優しく星明かりが宿る。綺麗だ。この瞬間が1日の終わりを知らせる。


 坂道で息が上がる。息を大きく吸い込むとあちこちから夕食の香りが漂ってくる。この香りが好きだ。家族を感じる。出汁の香り、魚を焼く香り、いろいろな香りがグラデーションとなり、俺の鼻孔を楽しませる。俺の晩ご飯は何だろうか。


 気がつくと家の前に帰ってきていた。リビングの窓からは明かりが漏れている。


「ただいま」


 玄関を開けると晩ご飯の香りが出迎えてくれた。今日は、ロールキャベツだろうか。妻は、楽しみなことがあるといつもロールキャベツを作る。旅行を妻も楽しみにしてくれているのだろう。


「おかえり。お父さん」


 娘が嬉しそうに出迎えてくれる。つい1ヶ月前に高校に入学したばかりなのに反抗期もなく親孝行な娘だ。娘の明日行く城の話と共にリビングへと向かう。今回も熱く語ってくれる。これが旅行前の楽しみになっていた。


「おかえり」


 妻が料理を配膳しながら、俺を出迎えてくれる。


「これ、お土産」

「えっ! ケーキ? お父さんが?」


 娘が驚いた顔で俺を見つめている。しかし、すぐに驚きは笑顔に変わっていった。


「ありがとう!」


 娘が、嬉しそうにケーキを冷蔵庫に片付けてくれる。

 無言のまま妻が懐かしそうに俺と娘を見守っている。昔、新婚の時、旅行前には必ずケーキを買っていた。気持ちが高ぶると思わずケーキを買ってしまっていた。子どもができてから買うことができていなかったが、今日くらいは良いだろう。


 何気ない1日が今日も終わる。


 家族と共に俺の1日は、優しく包まれていった。

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あの日のチーズケーキ ヨリ @yori-2024

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