答え合わせ

秋犬

見つめる鍋は煮えない

 深夜二時半、芽生めいは今年生まれたばかりの我が子を抱いて、暗い道を歩いていた。夜泣きが始まった赤ん坊は頻繁に芽生を起こし、そのたびに芽生は痛む腕と腰を抱えて抱っこ紐を装着して散歩へ出かけていた。運転する車に乗せると寝る、という話も聞いていたが育児でフラフラの芽生が運転するのは深夜とはいえ怖かった。


「お月さんが綺麗ね……」


 寝不足の芽生はゆらゆら揺れるように、街灯と月明かりの中を泳いでいく。我が子は胸の前で機嫌よく芽生を見上げ、ばたばたと足を動かしている。


「機嫌いいのねえ、そのまま寝てくれない?」


 ゆさゆさ、とんとん。


 深夜の住宅街の道に眠りのリズムが流れていく。よくお眠り、しっかりお眠り。祈るように芽生は小刻みに足を動かしながら前へ前へと進んでいく。


「母親って、損ねえ」


 我が子の背中を優しくさすりながら、芽生は自分の母親のことを連想した。


「誰も彼もみんな、赤ん坊だったのねえ」


 芽生は母親から受けた愛情を思い出そうとしたのに、湧き上がってくるのは伯母の記憶ばかりだった。


「まあ、私は愛されてなかったんですけどね」


 芽生の母親は、長女である芽生のことよりも芽生の弟のほうをひどくかわいがった。昔の気質が漂う家だったので、男の子だからと弟は何においても芽生より優先された。


 風邪をひいて芽生が熱があることを訴えると「そんなん寝ていれば治るでしょ」と一蹴されたが、弟がひとつでも咳や鼻水を出そうものなら上を下への大騒ぎで病院に駆け込んでいた。「女の子なんだから弁当くらい自分で作りなさい」と小学校高学年から芽生は自分で弁当を作っていたが、弟は高校三年間が終わるまでしっかり母が弁当を作っていた。


 そんな芽生を気遣ったのは、芽生の伯母だった。母の姉であった伯母は節目のプレゼントをかかさず芽生に持ってきた。中学になると私服を買ってもらえない芽生のために、伯母は芽生を時折ショッピングに連れ出した。娘が綺麗な服を着て帰ってくると機嫌が悪くなる母に対して、伯母は「メイちゃんだって気に入ってるんだからいいでしょ」とガハハと笑った。


 とんとん、とんとん。


 夜のリズムは坂道を下っていく。下った先に川があり、沿って歩くとまた坂がある。坂の上にある公園には日中よくベビーカーで出かけている。砂場で遊ぶ子供たちの中に我が子がそのうち混ざると思うと、芽生は不思議な気分であった。


 「こんなにふにゃふにゃなのに、そのうちしっかりしちゃうんだからねー」


 芽生の思考は再びゆっくりと伯母に戻っていった。あれは中学三年のときだった。成績が優秀だった伯母は大学へ進み、就職してキャリアを積んでマンションで一人暮らしをしていた。その時、芽生は伯母のマンションに何か理由があって泊まり込んでいた。次の日にどこか遊びに行こう、という話をしていたのかもしれない。寝床に入るとき、ずっと気になっていたことを芽生は伯母に尋ねた。


『どうして結婚しなかったの?』

『んー? だって面倒くさいじゃない』


 それから伯母が語った話は、今思えばよくある話だった。しかし、当時の芽生には衝撃的な事実であった。


 成績が優秀だった伯母は両親から愛されたが、伯母が大学へ行ったために芽生の母は高卒で働かないといけなくなった。そこで見合いをして、母は二十一歳で結婚して子供を授かった。その時伯母は、芽生の祖父母にあたる両親からこんなことを言われたそうだ。


『ああ、やっぱり孫の顔を見せてくれるのが本当の親孝行だよ』


 その時、仕事が楽しくて仕方がなかった伯母は両親に愛されていなかったのではと本気で落ち込んだらしい。そこで、愛情をくれなかった仕返しのために生涯独身を貫く決意をしたのだそうだ。


『じゃあ、どうしていつも私にだけ優しいの?』

『だって、私はあんたの伯母だからね。似てるでしょ、顔』


 本当はあんたが娘だったら楽しかったのに、と思うときもあるよと伯母は言った。その後伯母とどう接したのか、芽生は覚えていなかった。ただ、芽生も伯母に愛されていたわけではなかったのだとわかってひどく悲しい思いをした。


 それから必死で勉強して、渋る両親を説得して芽生は県外の大学へ進学した。母にも父にも弟にも、もちろん伯母にも合わせる顔がないと芽生は思っていた。今までの自分は死んだと思って、新しい世界で幸せに生きていこうと芽生は心に決めていた。


「それでも、どうしてこんなことになってしまったのかねえ……」


 坂を登って公園までやってきた。家へ向かうには、公園を横切るのが少しだけ近道だった。昼間の喧騒はなく、道路を照らす街灯の光も届かない砂場に忘れられたスコップが置き去りにされている。広場の地面には子供が大きく描いた絵が残されていて、芽生には何が描いているか判別できなかったが、とても楽しそうに描いたのだろうということは想像できた。


 公園を出る頃、芽生が自分の胸に視線を落とすと我が子は安らかに寝息を立てていた。その顔はあの晩愛されなかったことを告げた伯母にも、そして愛されていなかったことを知った自分にも似ている気がした。


「そうか、そうだったんだねえ……」


 子供を生めば親の気持ちがわかる、という言葉が芽生は嫌いだった。しかし、子を生まなかった伯母はついぞこの気持ちはわからなかっただろうとも思った。


 そのまま真っ直ぐ家へ帰り、そっと我が子をベッドに下ろした。起こさないように、そのうち夜が明けますようにと静かに祈りを込めながら。


<了>



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答え合わせ 秋犬 @Anoni

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