エピローグ①『19:10 日比谷線ホーム』
「はぁ、やっと着いた……」
大きなため息にも似たドアの開く音と共に、ホームを埋め尽くさんばかりに勢いよく吐き出される人の流れ。土曜日だからと油断していたが、乗ってみれば平日の帰宅ラッシュに揉まれるのとほとんど変わらないしんどさがあった。身長の高くない私にとって混雑した地下鉄は酸素の薄い檻みたいなものだ。新橋から20分足らずの乗車にもかかわらず、今の気分は長い海路を船倉で過ごした密航者のそれだった。
空いた席に座らせろと疲労を訴える体に何とか鞭を打って、発車のベルが鳴っても未だ蠢いている列の最後尾についてよろよろと電車を降りる。
「あーなんかクラクラする、っと!」
「大丈夫?」
愚痴を吐きながら踏み出したミュールの踵がホームとの間に出来た段差に取られ、派手によろめいてしまう。そんな私を肩を後ろから降りて来た先輩が受け止め、気恥ずかしさを払うように顔の前でひらひら手を振ってみせる。
「ちょっと座ろっか。急いでる訳でもなし」
しかしその仕草が却って痩せ我慢みたいに映ってしまったようで、肩を離した先輩がさっと私の手を引いて列を離れ、ベンチへと座らせてくれた。
「明らかに寝不足ですって顔。よく居眠りしなかったもんだわ」
「流石にお客さんの前では……舞台からって思ったより顔見られちゃうらしいですし」
全体に漂うお疲れのオーラと比べて私の口調が軽かった事に安心したのか、隣へ腰かけた先輩が小さく息を吐いてから歯を見せる。それから袖を通さず羽織っているだけのジャケットの下から腕を伸ばし、脇に置いたバッグから小さなミネラルウォーターを取り出した。
器用に片手でキャップを外してまず私に、それからもうひとつ取り出して自分に……一体いつの間に買っていたんだろうか、手渡されたボトルはまだ冷たさが残っていた。
「ありがとうございます……でも案外苦じゃなかったですよ。気が付いたらしっかり没入しちゃってましたし」
「確かに自分で国内有数、って言うだけはあったかな。これで帰りにしつこくご飯に誘ってこなければ、いいお客さんで終わったでしょうに」
ひと口でボトルの中身を私の倍は減らしてから「必死過ぎよね」と続けて、皮肉めいた口調でからからと笑う先輩。私も別れ際にカマされた猛烈なお誘いを思い出して口の端に苦い笑いが滲んだ。
「あれも助かりましたよ。先輩が居なかったら押し切られてたかも」
「さっさと帰りたがってることくらい察しろってハナシ。ありゃ肩書があってもモテないタイプだ」
呆れ顔で肩をすくめる先輩に、私は顔真似で答える。
何度やんわり遠慮しても食い下がってくる先方に痺れを切らした先輩が、とうとうはっきりきっぱりノーを突きつけた──その瞬間の「この俺が誘っているのに?!」とでも言いたげな、身の程知らずな間抜けさと驚きの絶妙にブレンドされた顔。添えた声真似も手伝ってそこそこに再現度が高かったらしく、一拍置いてから先輩が手を叩いて破顔した。ふたりして上げる破裂のような笑いに、前を横切る足が数セット止まってこちらへ怪訝な視線を投げてきた。
飲み下すボトルの中身よりもずっと冷たい水を頭から浴びた心地に、思わず座る姿勢を正してしまった。慌てて笑いを止めた先輩と同時に吐く息が重なる。少しの間の後で滑り込んできた電車が気まずく止まった空気を押し流し、こちらを見る視線が消えた事でようやく肩の力も抜けてくれた。
「……まぁ、色々あったけど、終わりよければって奴かしらね」
「いや、その節は本当にご迷惑をお掛けしまして……」
色々、という節へ勝手に含みを覚え、思わず肩をすぼめてしまう私と、それを見るなり慌てて首を振る先輩。地下ホームを漂う生温い空気が、少しだけ温度を下げた気がした。
「そういう意味じゃないって!そりゃまあ確かに?いきなり連絡つかなくなった時はどうしたもんかと思ったけど……なんにせよケガひとつ無く帰って来てくれたんだから、全部オッケー」
「そう言ってくれると──」
悪気が無いことくらい知っているし、なんなら私の被害妄想といっていい勘繰りだ。にもかかわらず賢明なフォローを続けてくれる先輩に、なおの事申し訳なさが募っていく。
「って、今日はお礼を言ってばかりですね、はは」
「……」
小さく背を丸めたまま力なく笑う私の頭に、ぽんと掌が乗った。
ミスを一緒に背負ってくれる時、やり遂げた仕事を労ってくれる時、ストレスでメンタルがやられている自分を気遣ってくれる時。先輩は決まってこうしてくれる。
大体ひとつの依頼につき一度は訪れる、私と先輩にとっては繰り返す日常のワンシーン。頭頂から伝わる熱は、今更ながらに実感と有難みを帯びて胸の内へと広がっていく。
そのまま何本かの電車を見送りつつ、私達はしばらくただ水を飲みながら腰を下ろしていた。
──バートリとの『旅行』を終えてから、もう3か月が過ぎようとしている。
最初こそ身構えていたものの、最終的に残った心配事といえば会社に無断欠勤をどう言い訳するかくらいのものだったのだけれど……バートリの人柄を知らない世間様では、私は結構な『事件』の被害者として扱われていたらしい。
奥入瀬で数人の警官にとっ捕まった後の私を待っていたのは、さながらカメラ映えや派手さだけを差し引いた刑事ドラマのような展開の連続だった。
安堵の顔色を浮かべる刑事さんたちにゆっくりパトカーへ乗せられ、最寄りの警察署で女性警官に優しくケアされ、いつの間にかはるばる乗り込んできていた両親に涙ながらに迎えられ……激情を隠すこともしない周りに対し、私はその全てに感情が追い付かず、ただただ戸惑いながら応対していた。
それが恐らく向こうの予想していた──例えば残る恐怖に震えたり、両親を見て安心に大泣きしたり──展開と全く符合していなかったんだろう。傍から見ればまるで空気の読めない奴みたいにあっけらかんとしていたからなのか、途中からは向こうも『こいつは本当に人質になっていたのか?』といった類いの目を隠さなくなっていった。
……だってしょうがないじゃないか。怖かったのは最初だけなんだし。
なんてぶんむくれるわけにもいかず、最終的に両親からも「もっと周りの人に迷惑を掛けた自覚を持て」なんて説教された時は少なからず不条理を感じた。
とはいえよく考えれば私自身に『人質』であるという意識が無かったのだから、それもある意味正しい指摘だったのかもしれない。
で、その後はとにかくバートリの足取りに対する質問を受けたのだけれど……それに関してはこっちが知りたいくらいだった。
「別れの挨拶もできないまま、いつの間にか消えていた」
入れ代わり立ち代わり聞きに来る警察の人たちへ、それだけ変わらずの一点張り。
そんな私に対する態度が段々と変わってきたのは肌で感じていたが、事実それ以外答えられる事もなかったから仕方がなかった。
私はそれを最後に残った無念を込めて語ったけれど、周りはそれを単に無駄な情報と切り捨て、手掛かりを求めて次へ進んでゆく。
この2日間に対する認識の違いが最も出た、そんな瞬間だったかもしれない。
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